第63話 ミージュ・イハヤカヴァ
「ナルシス」イカロスは、用意された朝食を前にして言った。「最近、朝早いんだな」
その瞬間、ギクリと食器を片付けようとする弟の動きが固まる。流しの中に皿などを置こうとしていた彼は、油の切れた機械のようにかくかく動くと、最終的にがちゃんと音を立ててその行動をどうにか完遂した。それから今度は早回しのように手を洗って振り返った。
「そ、そんなことはないよ兄上。何故そんなことを思うのかな?」
「何故も何も毎朝俺より早く起きて朝食を作っているだろう。返答がおかしいぞ」
しまった。先読みしすぎた。
ナルシスは一瞬それが顔に出かけた、いやかけたのではなく出たが、それを何とか引っ込めた。
「まあ、その、少々学園で用事があってね。それで早く行くことにしている」
「へえ、用事ねえ。何の?」
「あ、えーと……勉強会だ。スズナ君の成績があまりに芳しくなくてね。それで僕が直々に見ることになった」
「スズナ……ああ、好意対象者の。そうか、利発そうに見えたけれども」
「そうなんだよ兄上ェ! ……いや利発そうに見えるかどうかについては議論があると僕は思うけれども、彼女の根気のなさと意欲の低さといったら思い出すだけで辛くなるってものさ。こうして話していてももう涙が出てきそうだよ」
「ははは。まあそう言うな。『聖母』もそれを見越してお前たちをくっつけたのかもしれないじゃないか。割れ鍋に綴じ蓋。うん。そういうことだろう」
「それ、褒め言葉じゃないと思うのだけれど……」
ナルシスはがっくりと肩を落として、片付けの続きを始めた。スポンジに洗剤を垂らし泡立て、食器にそれを擦りつけるようにして塗りたくっていく。どこかほっとしたように見えるのは、何故だろうか?
「ああそう言えば」その背中にイカロスは言った。「生徒会役員選挙――知ってるか?」
今度は、ナルシスの体は跳ねなかった。ただイカロスの視界の中では、泡のついた皿を持ったままゆっくりと振り返るだけであってそれ以上の兆候は何もなかった。それからその皿を視線ごとまた流しの方へ戻して、泡を洗い流す作業に戻った。
「知ってる――とは?」
「ああ、何か変わった情報とかないかなと。ほら、お前シャルル様とは仲がいいだろう? 最近会えていないまでも様子が変なときがあったとか、誰かに脅されていたとか、何かしらああいう決定に繋がった何かがあるはずなんだ。そういうの、見ていないか?」
「…………」水の流れる音。「そういうことなら、僕は何も見ていないよ兄上。護衛の人に聞いた方が早いんじゃないかな。過ごしている時間なら彼らの方が長い」
「そういうわけにはいかないよ。そうおいそれとは会えないし、本来俺はこの事件の担当というわけでもないしね。それに、護衛の人たちでは気づけないことだってあるだろう。例えば誰それと話していたとか、何かを気にかけていたとか、あとは友達にしか話さないことだってあるだろう」
「かもしれないけれど――だとして、僕には心当たりがないな。久々に登校してきたときには、既に何か腹に一物抱えていたようだったよ」
嘘だった。確かにその日の内に状況が大きく変わったのは事実だったが、それはナルシスの一言が原因である。が、そんなことを言うわけにはいかない。
そういう事情がある。
「そうか――それとそう言えばなんだが」それをイカロスが言う。「お前は、立候補しないのか?」
「…………」水を、ナルシスは止めた。「しないよ。するわけがない。あんな自由恋愛主義的な催しにこの僕が積極参加するとでも?」
立候補するということを、ナルシスはイカロスに伝えていなかったのだ――言えるわけがない。他の、何のしがらみもない者でさえそうするのを躊躇うというのに、ほかならぬ「共和国前衛隊」隊員の弟がそうするとなれば、兄の出世に影響するかもしれない。そういう深謀遠慮がナルシスの口を固くさせた。
尤も、その筋で行くならばもっと重い罪を彼は犯しているわけだが――それはまた、彼の中では別の問題となっていた、少なくともこちらは法律違反という意味で罪であり、それはバレた瞬間彼の人生もまた終了するものだからだ。
「……そうだな。」だが、何にしても彼は全く弟のことを疑わなかった。「変なことを言って済まなかった、ナルシス」
「いえ、いいんだよ兄上。それが兄上の仕事だろう? 大多数の善良な『市民』のためにその中に巣食う悪を疑う――立派な仕事だよ」
「珍しく嫌味な言い方をするなぁ」
――嫌味、だったか?
ナルシスは自分が少しコミュニケーションをミスしたことを感じた。自由恋愛主義者になってきているために、潜在的に言葉にその感情が混ざり込んでしまったということなのだろう。だがそれが致命的ではないのは、イカロスが苦笑いしていることからも明らかだった。ナルシスも「ごめん、変な言い方をした」と言いながら肩を竦めた。
「僕が言いたいのは、兄上のような人たちがこの行政区を守っているってこと。いつもありがとう、兄上?」
「今度はおべっかか? そんなこと言っても、お小遣いは増やしてやらないぞ?」
にや、と笑うイカロスに、ナルシスも微笑みを返す。どうやら疑いの目は完全に消え失せたようだった。ナルシスは肉親を裏切る心の痛みを封じつつ内心安堵した。
そのときテレビのニュース画面は大きく時計のアニメーションを映した。もう七時になるところだ。
「もう行かなくちゃ。それじゃ、また後で」
「ああ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
ナルシスはバタバタと足音を立てながら一度自分の部屋に戻り荷物を取って出発したようだった。イカロスは食パンの最後の一口を放り込んでコーヒーで流し込む。彼もそろそろ出発の準備をする必要があった。食器を流しにおいて洗い、そこいらに置いたカバンを取って中身を確認。忘れ物なし。
「行ってきます」
両親と、好意対象者の写真たちにそう言って彼は家を出て、電車を乗り継いでトウキョウ地区内にある「共和国前衛隊」の庁舎の一つへ。そこに彼の彼の所属する群はある。
「おはようございます」
オフィスの中に入ると、部下のほとんどは揃っていた。その大半は年上で大体が下級職員である。
というのも、「共和国前衛隊」の母体組織である国民団結局に入るには、二つのルートがある。一つは訓練学校を出て職員になるルート。こちらは中級職員からのスタートになる。あまり褒められた例えではないが、第三次世界大戦以前の軍隊で言うところの士官学校卒というわけだ。
一方でもう一つのルートは、職員採用試験を受けることである。こちらも試験合格後訓練を受けることにはなるのだが、それでも階級は最下級の五等下級職員からのスタートになる。
逆に言えば、一等下級職員というのは、名前とは裏腹に、現場経験を積んだベテランということであり――「共和国前衛隊」にはその中でも選りすぐりの職員しか入れないのだ。
そういうわけで、イカロスの部下というのは中年に差し掛かった者か既になっている者ばかりで、実のところ、かなり肩身は狭い。彼の出世が早いのも相まって、同じ二中職(ホテルジャックの件の事後処理の結果昇進した)の位にある者も大体は年上だ。
なお、その例外になる存在として一人、三中職がいるのだが……
「そう言えば、」イカロスはその主のいないデスクを見て言った。「イハヤカヴァ三中職は?」
ミージュ・イハヤカヴァ。
彼と同じ二二歳ながらに三中職の位を得た才女。女性らしく小柄な身ながらに体術と、優れた視力から来る射撃能力に優れている優秀な職員で、情報分析にも長けており、自由恋愛主義組織――例の初恋革命党の下部組織だと聞く――を一つ潰した功績で「共和国前衛隊」入りしたという。イカロスと同じく群次席職員の一人で、同じ階級になるのも時間の問題と言われていた。
の、だが。
「イハヤカヴァ三中職は」その消息について部下の一人が答える。「今日もお休みですよ」
「そうですか……確か、親戚の方が重体なんでしたっけ?」
「ええ。母親の弟の子供の好意対象者の父親のいとこの子供の友達が交通事故に遭ったとか」
「それは他人では? 好意対象者と友達絡んだ時点で」
「でも母親の弟の子供の好意対象者の父親のいとこの子供の友達ですよ、心配になるでしょう」
「だから誰なんですかその母親の弟の子供の好意対象者の父親のいとこの子供の友達ってのは。ピンとこないんですよ本当に」
イカロスはこめかみを押さえながら自分の席に就いた。実際にはそんなまどろっこしい人物のために彼女は休んでいない。ただ「親戚」としか伝わっていないが。
「まあ実際、」さっきの部下が言った。「親戚が、なんてのは嘘だって話ですけどね。メジロ辺りで見かけたなんて話もあります」
「そんなのは口さがない噂に過ぎないでしょう。それに、世界には三人自分と同じ顔の人間がいるっていう話もあるでしょう」
「それこそ都市伝説ですよね? ……まあ見かけた奴も多分似てるだけとは言ってましたがね。どっかの学生服着てたって言うし」
「じゃあその学生が似てただけでしょう。小柄だし丸顔だし似た顔がいないわけではない……全く、同僚どころか上司でしょうアナタ方にとっては。疑うものじゃないですよ」
はは、と部下は笑って、彼自身のデスクに戻っていった。それを見ながら、イカロスは自分の次の予定の準備をした。今日はミーティングの日だ。彼は資料を鍵のかかった引き出しから取り出すと、それを持って席を立った。
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