第61話 キウラ・ハーゼ
彼は思わず冷や汗を掻いて、それからそれを引っ込めた。ここは校舎の陰になっていて、さっきの場所からは距離がある。聞こえているはずはない。それに、重要な単語は使っていない。仮に「異能」を使ったところを見られていても、精々、靄がかかったように見えた程度の感覚のはずだ。そこから超能力に行きつくのであれば妄想の達人である。
「……何かな?」だから、ナルシスは平静を装ってそう答えた。「というより、どちら様かな? 僕と君とは初対面だ。」
「そんなことはどうでもいいと思います。すぐにどうでもよくなるという意味ですが」
ぴく、とナルシスは眉を動かした。その言い方に敵意を感じたのだ。目の前にいる眼鏡に太い眉を隠した姿の小柄な生徒は少し俯いたまま静かに言った。そこに不気味さを感じてナルシスは今度こそ冷や汗を掻いた。
「……先を急ぐのだがね。君も授業があるだろう。悪いが後で、」
「それなら大丈夫です。保健室に行くことにしているので」
「僕は大丈夫じゃないということなのだが?」
「さっきの、好意対象者さんですよね? 何を話していたんです?」
ナルシスの反論は平然と無視して、目線の先に彼女はスズナのいた方角を捉える。ナルシスはそれに眉を顰めた――何が目的だ? 測りかねる――が、適当に誤魔化すことを選んだ。どうせ、聞こえてはおるまいし。
「他愛のない世間話さ。それとも睦言をでも期待していたのかな? そんな浮ついた話が好きそうには見えないが」
「いえ、私だって年頃です。相応に好奇心はあります――だから教えてくださいよ。何を話していたのか」
「何、最近物騒だから気をつけるようにと言ったんだ。尤も、彼女の方はあの体格だから要らぬ心配をするなと言っていたがね」
「……そのためだけにここで落ち合ったとは思えませんが」
「残念ながら真実とは退屈なものだよ。それとも僕らが宇宙人のスパイで第十五次元人と日夜暗闘を繰り広げているとでも言えば君の好奇心とやらは満たされるのかな?」
「荒唐無稽な言説ならその手の雑誌で間に合っています」
「なら、荒唐無稽な疑いをかけるのを止めるべきだ。推定無罪という言葉がある」
「疑い?」クス、と彼女は笑った。二つの三つ編みが少し揺れる。「まさか。私はただ、それこそ世間話をしているだけですよ? それとも何か疑われていると思わせるに足る後ろめたいことでも?」
――何なのだ、この女?
ナルシスは、本気で不愉快そうな顔をしそうになって、それを何とか堪えた。見た目には、何ら外連味のないただの女子生徒に見える。強いて印象を言うならば、過剰なぐらいに地味であるということぐらい――そう、過剰であると感じた。
華美で派手な出で立ちの生徒が多い中では却って浮くぐらい、地味。
作られているというほどのことはないが、違和感は覚えた。
そういえば――とナルシスは想起する――スパイというのは映画のように派手な存在ではなく、特徴がないという特徴を持った人間だけがなれるものなのだという。地味であるということが必ずしも特徴がないということとは一致しないかもしれない(地味という印象は与えてしまう)が、派手であることよりは正解に近いはずだ。
(だとすれば――)ナルシスは、確信する。(この女子、密偵の類か)
そう考えれば得心が行く。
このタイミングで話しかけてきたことも、こうして少しでも情報を引き出そうとしていることも。
全て、ナルシスが初恋革命党の中核人物であると見抜いての行動。
事実、ナルシスはセバスティアーノ・コルシカンに敗北している――セバスティアーノに自白をしてしまっている。あの男は最終的に失脚したが、その一派がまだ生きているとすれば、こうした接触があるということもあり得ない話ではない。
だとして、どうする?
この女がエージェントだとすれば、直接対決は危険である。隙を見てスズナを呼んでも同じだ。暴力装置たる彼女を使用するということは、暴行の現行犯として逮捕されることになるだろう。第一、それを選ぶことはできない。
ならば、第二の選択肢――
「後ろめたい?」ナルシスは言い逃れることにした。「まさか。僕はただ、君の目的が知りたいだけだ。それとも君の目的はこの程度の世間話にあるのかな?」
恐らく、彼女にはまだ証拠がないのだ。確実に誰もが「この男こそサン・マルクスだ」と認定するに足るそれがなければ、逮捕したところでセバスティアーノの二の舞となる。それを集めるために尾行していて尻尾を掴んだが、それを確たるものにすることには失敗したのだろう。
ならば彼女には焦りがあるはずだ。チャンスをフイにするわけにはいかないという一種のコンコルド効果が働いているに違いない。無論、一方で感づかれているという警戒心を持ってもいるはずだから、そこには注意する必要があるが、そこを上手く橋渡ししてやれば、逆に情報を抜き取ることも可能だろう。
「いいえ」さあ、来い。ナルシスは彼女の言葉を聞いた。「私は目的があってアナタに話しかけています、ナルシス・ポンペイア。アナタにも悪い話ではないと思いますよ?」
「ほう? つまり取引ということかな?」
「ええ。アナタさえよければ――私は選挙に関して協力してもいいと思っています」
――何?
ナルシスは訝しんだせいで表情が歪むのを抑えきれなかった。
国民団結局――「共和国前衛隊」が選挙に協力?
何のために?
「……それはどういうことなのかな?」
「そのままの意味です。演説の支援や草の根活動――そうそう、私には絵心がありますから、ビラやパンフレットの作成もできます。どうです、悪い話ではないと言ったはずですが」
「しかし、それは君たちにどのようなメリットがあるのか、という意味なのだけれど」
「『たち』?」彼女は首を傾げた。「……いつ複数だと?」
「違ったかな?」
「いえ――しかし、よく気づいた、と言うのが本音です。隠していたつもりもありませんが、流石は学年次席と言ったところ」
「……僕にとってその称号は一位になり損ねたということを意味する屈辱だ。あまりひけらかしてくれるな」
それは失礼しました、と彼女は軽く頭を下げた。
「しかし、」そして本題に戻す。「メリットと言えば、私たちには充分すぎるほどあります。ナルシス・ポンペイア、アナタは元々私たちの希望の星でありました。そのアナタが生徒会役員となれば、特に私たちに続く今後の一般枠入学生には、」
「え?」
今、何て?
ナルシスは思わず聞き返した。ちょっと、耳を疑うような聞き間違いか、脳味噌を疑うような勘違いを自分がしている可能性が不意に浮かび上がったからだ。
「ン?」彼女は首を傾げた。「ですから、一般枠入学生にとっては、」
「いや、聞き返したわけじゃなくて……」
一般枠入学生?
「共和国前衛隊」ではなくて?
「……一つ、確認しておきたい」ナルシスは右手で額を押さえながら言った。「君たちは、その、つまり、普通の生徒なのか? その集まり?」
「? ええ、そうですが。それが何か?」
「本当に? 国民団結局は関係なく?」
「何で国民団結局が出て来るのか理解すらできません」
ナルシスは、その回答に思わず溜息を吐いた。深く深く吐いた。そしてしゃがみ込んだ。何たる勘違いをしていたのだろうか。どういう思考回路の末にそういう結論に至ったのか全く思い出せない……どれほどスパイ映画を見すぎたってそういう結論に至ることはあるまいに。
「……どうかしたのですか? どこか、体調でも?」
「いや、何でもない、何でもないんだ……」
ナルシスはゆっくり立ち上がる。落ち着け。別に本物の国民団結局職員に尻尾を晒したわけでもなければ一般「市民」に正体を明かしてしまったわけでもない。ただ、ただただ無駄に、曖昧な言い方と意味深な振る舞いをして、結果的にそれが滑稽な独り相撲でしかないことに気づいてしまっただけなのだ。
……よくよく考えれば、不穏な語り口をしたのは彼女が先だ。どうして自分がこうまで恥の感情を堪えなければならない、とナルシスは感じたが、しかしそれを表に出すことはしなかった。
「それより、協力の件だが是非ともお受けしたい。」代わりに毅然を装って言った。「ちなみに君たちは何人ぐらいいるのかな?」
「一般枠入学生の会の会員という意味で言えば、私を含めて二十人ぐらいといったところです。元々数が多くはないですからね」
「いいや、悪くない人数だ――」初期の初恋革命党よりも多い。「ところでその会派にはどうして僕が呼ばれていないのかな?」
「私たちはほとんどが中等部や高等部からの入学ですからね。初等部からいるアナタに声を掛けるタイミングがなかったんです」
それはそうか、とナルシスは思った。確かに先にいた人間よりも同時期以降に入った人間の方が誘いやすいというのは理解できる話だ。それに、グループができるとしたら、初等部よりも中等部以降の方が作りやすいのだろう。通信手段は国民携帯端末があるけれど、単純なコミュニケーション能力の問題だ。
「あとは単純にアナタが気難しそうだったので」
「それはそれで事実かもしれないというか実際事実なのだろうが、そういう言葉をグッと飲み込むのが大人な対応だと僕は思うぞ」
「そういうところだと思います」
「グッ……」
ナルシスは何とか言い返そうとしたが、気難しいと自認してしまったのが仇となって何もできなかった。がっくりと項垂れて、それから咳払いをして元に直った。
「まあいい……何にしても僕らはこれで仲間になったわけだが、それはそれとしてそうであるからにはやるべきことが君にはあるだろう」
「? 何でしょう?」
「…………」ナルシスはじと、と彼女に視線を向けた。「自己紹介だ! 君は他人のコミュニケーション能力を疑う前に自分のそれを見つめ直すべきじゃないのか⁉」
「ああ、そうでしたっけね。仲間になったらそういうのどうでもよくなるものだとばかり」
「あだ名で呼ぶにもまず本名がなくてはなるまい。言われなきゃ分からないのか?」
「ナルっち厳しすぎません? もう少し気楽にいきましょうよ」
「…………」
この女子、アレだ。
距離感の測り方がおかしいから、友達少ないタイプ……。
「私の名前は」唐突に彼女は名乗った。「キウラ・ハーゼ――気軽にきーちゃんとお呼びください」
「そうか、それではハーゼ君。君に仲間として一つお願いがある」
「何でしょうか? 第一号のご命令、記念すべき第一回として、きーちゃんに何の指令をお出しになるのです?」
「人に話しかけるときには、時と場合とを考えてくれ――それと、話しかけ方を」
そのとき、予鈴は鳴った。
あと五分で教室に着かなければ、遅刻になってしまう。
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