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第6話 陽だまりの外

 世界で二番目に惨めなのは、陽だまりがそこにあるのをただ柱の陰から見ることしかできないことだ。


 エーコが学園の教室棟の入り口に立っているのを、そのときナルシスは階段を降りる途中で見つけた。ガラス張りの壁面の向こう側。ラスト数段を降りて、手を伸ばす。


 少しでも早く自動ドアを開きたかった。


 そうして、少しでも近く彼女の傍にいたかった。


 そうした上で、少しでも深く彼女に認識されたかった。


 いや――そんな思考があったわけではない。それは最早本能的な要請だった。そうしなければならないと認識していた。そうあるべきだとすら思っていたかもしれない。国民携帯端末上に冷然と表示された好意対象者割当の結果に躓いた心が、咄嗟に支えを求めたという可能性もあった。


 が、そのいずれにせよ――結局その汗ばんだ手は、ただ凍りついた。


 その向こうにいたのが、一人ではなかったからだ。


(――!)


 無論ナルシスは、既にその時点で彼女の好意対象者が誰なのかは知っていた。「内閣」家の人々のそれは誰しもある種のゴシップとして知りたがるものだったし、ナルシスの理性は、あらゆる情報を勘案して、自分が選ばれなかったのならば一番あり得る可能性として目の前にいる男――シャルルを推していた。


 それはいい。


 もう仕方ないことだ。


 好意対象者同士が一緒にいることの、何が不自然だというのだ?


 だけれど――だとしても、何故。


(何故――あの人が微笑んでいるのは、彼なんだ)


 ぞわ、と胸の中が毛羽立つ。エーコのその柔和な表情は、夕日には少し早い程度の茜色の中で曖昧に揺れていて、だがその羞恥と暴露との振り子のリズムを、今までの関わりの中でナルシスは聞いたことがなかったのだ。


 無論、会話は聞こえない。二人が何を話しているのかは分からない。防音性の高いガラスは、存在感を忘れ去られたまま通り過ぎていく級友たちの話し声と彼女らの会話をミックスジュースにしてしまった。相性も考えず混ぜ込まれたそれらをそれぞれに分別することはできなかった。


 だが、ナルシスには確信できた。


 僕は最早、陽だまりの中にいないのだ――。


『ナルシス』そして兄のイカロスは、その移り変わりを傍で見ることさえ拒否した。『大学の学費は払えない――悪いけど進学は諦めてくれ』


 始業式の日の晩のことだった。カーテンは閉め切られていて、無機質な白色の人工光が二人のいる食卓を照らしている。有り合わせのインスタントのコーヒーの香りが尚更鼻についた。


『分かっていると思うが――第一三普通科学園の学費は高い。本来は「内閣」家の方々向けだからな。今までも父さんと母さんの遺産を切り崩して何とかやってきた……だが、それも高校までの学費を考えるならそれほど余裕はない』


 そっとイカロスはテーブルの上に通帳を差し出した。まだ金銭感覚の出来上がっていないナルシスからすればその残高は随分な大金に思えたが――そこに記されている「学費」名目の出費ペースを鑑みれば、兄の言うことは正しいと理解できた。


『もちろん、上司には折を見て掛け合ってみる――だけど、訓練学校出たての五級中等職員がそんなことを言っても、多分門前払いを食らうだけだろう。それに、ただでさえ今どきは不景気だろ? 真っ先に公務員の給料は削られる。そうなれば、高校にだって……』


 瞬間、ナルシスは思わず立ち上がっていた。そんなことがあっていいはずはない。そんなことになれば、自分は――怒りとも恐れともつかない感情が体中を駆け巡って彼は咄嗟に膝を伸展させたのだが、その感情が不分明であったためにそれを言葉として出力することができなかった。ただ口をパクパクとさせて、そうする内に現実がそこから侵入してきて、彼は椅子の上に滑り落ちた。


『……分かるよナルシス。』そのときイカロスがどこか微笑むような視線をしていたことが、ナルシスには耐え難い苦痛だった。『耐えられないよな。辛いよな――だけど、それは全て「聖母」の思し召しなんだ。少なくとも、俺はそうしてきた。きっとこれはいつか自分の役に立つと思うことにしてきたし、実際に役に立ててきたつもりだ。そしてそれは、今この世にいるほとんどの人が経験していることだ。だから――どのようなことが起ころうとも腐らず前を向こう。そうすれば報われる。』


 ――報われるのは試練とやらを乗り越えられた人間だけだろう。乗り越えられなかった人間は、それが運命だったということになるのだから。


 それをナルシスは知っていた。


 五年前のあの日。


 「大反動」――自由恋愛主義者が起こした同時多発テロ事件の起きた日。


 彼らの放った銃弾は、それからナルシスを庇った両親の命を奪ったのだから。


 アレが試練だったはずはない。


 運命だったはずもない。


 ならば、そもそもその二択は間違っている――然らばそして、その成立しない問いを投げかける世界も、果たして正しいという保証があるのだろうか?


(それは――)


 それは、答えてはならない問いだ。


 そうナルシスは了解していた。


 誰もがそうであろう――「共和国」は世界中の人々の犠牲の上に成り立った理想郷。それに疑問を少しでも投げかけることは、その名の下に存在している全てを疑うということになる。


 自由。


 平等。


 平和。


 それらを傷つけてまで自分の思う通りに世界を変革するためには――その全てと敵対する覚悟が要る。


 だが、ナルシスは知っている。流れる血が冷めていく感触を。


『――生きたいかい?』


 無数の呻き声と、それがだんだんと静かになっていく光景を。


『――君にはそれだけの価値がある。ご両親は命を懸けてまで君を守ったのだから。それは愛と呼ぶに相応しい感情だ』


 しかし、そこにいたのは誰だ? 長い黒の髪。緋とも赫とも感じられる瞳が不遜に揺れて、逆光の中でも際立って、燃えている。


 焦がれている、のか?


『――だから僕は君に力を与える。この愛を生き延びさせる力を。愛を愛さないこのつまらない世界を覆す力を。愛する誰かと結ばれるための力を』


 彼女とも彼ともつかないその声が何と言ったのかナルシスは覚えていない。何と言う名前なのかも分からない。だがそこに誰かはいた。そして、どこにもいなかった。


『ナルシス・ポンペイア。君は――』


 ――びしゃあ。


 思考が洗い流されて、現実が露わになっていく。泥のようにこびり着く微睡みを瞼が払っていくと、椅子に座った膝の間、古びたコンクリートの上に土埃の混ざった水溜りが広がっている。


 しかしここはどこだ?


(確か……ルーヴェスシュタット君の忘れたスクールバッグを届けに行って……)


 行って、どうしたのか?


 何も思い出せない。何故思い出せない?


「目が覚めたかよ」


 その疑問を、割り込んできたその声は余計に深めた。


 何故なら、そこにいたのは彼の探していた張本人たる、スズナだったからだ。

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