第59話 すべきでないと理解して、それでも何かしたくて、でも結局何もできやしないのだ
「おはよう、エーコさん!」
だから、ナルシスは敢えて自分から話しかけた。何なれば、いつも以上に元気な演技になっただろうか? エーコはそれに一拍遅れて気がついた。
「ン、ナルシスさん……おはようございます。」
すると、先ほど遠目で見た限りでは気づかなかったが、彼女の表情には疲れが見えた。繊細で真面目な彼女のことだ、シャルルの考えにできる限り合わせようとして、毎日悩んでいるに違いない。ああ、その目元の何と痛ましいことか! ……ナルシスはそれを目敏く見つけて嘆くところだった。ナルシスはその代わりに言葉を続けた。
「いやはや、挨拶運動も今日が最終日ですとか。毎朝アナタの笑顔に助けられてきた身としては、辛いものがありますな」
冗談めかして言ったつもり、だったのだが、エーコは愛想笑いを少しして暗い面持ちへと戻る。ナルシスの胸は少し痛んだ。
「あの」彼女の視線が不意に彼を射貫く。「一つ、ナルシスさんに聞いておきたいことがあったのですけれど」
「…………」そこに、予感がした。「何でしょう」
「シャルル様は、どこまで本気なのでしょうか?」
やはり、来た。
選挙に関しての話題。
シャルルに関しての話題。
ナルシスは彼女からは分からないように唾を飲みこんだ。
「それは恐らく『どこまでも』、でしょうな? 既に学園側はそのつもりで動いている――そうさせるだけの何かを材料に交渉した、ということでしょうから」
「だとすれば何故、あの方はそのようなことをしたのです? 噂に聞くほどまで強引な手を使ってまで、どうしてこんな自由恋愛主義的なことを……」
「……僕の考えでは、彼がすることには一貫性があるはずです。何か追い求めるところのものがあって、そのためにそれが必要だったということでしょう」
「確かに、シャルル様はそのようなお方です。理想のために殉じることができる。だから『市民』の方々の間で自由恋愛主義者が人気になっていて、それを気にかけているというのも知っています。でも、それをこのような場で発するお方ではなかったはずです」
そうして、彼女はほとんど泣きそうになって俯いた。否、既に涙は流れていた。濡れた声が滴り落ちて、ナルシスはその原因に自分が一枚噛んでいることへ罪悪感を覚えたが、だからといって何もできなかった。
「エーコさん……」
「私、あの方のことがよく分からなくなってしまった。どうしても、恐ろしいんです。彼がすることがこの行政区のためになるとはどうしても思えない。主席行政官代理となった彼がその一部でも自由恋愛主義を認めてしまえば、それは毒となって政治を侵すはずです。そう思えてしまって……」
毒。
エーコにしては強い言葉の使い方に、ナルシスは一瞬慄いた。そうだ、彼女の視点において、彼は猛毒もいいところだ。それをシャルルはまさに飲み干さんとしているのである。
たった一人で。
無数の観衆の中で。
毒杯を、煽る。
ナルシスは、その心象風景を幻視して、思わず逃げ出したくなった。何故だ? ……既に立候補しないことを決めた自分がいるというのに、背を向けて立ち去ることを決めたというのに、どういうわけか、そう感じた。それを受け入れられなく感じた。このまま進めば、皆が不幸になり、ナルシスが進めば、更に不幸は加速するだろう。
だのに、どうして?
どうして、自分の意志というものは、思う通りに動いてくれない?
「……彼は、優しいんですよ」
「その優しさが世界を滅ぼすなら、それは皮肉が過ぎるというものでしょう? 私には、その未来は受け入れられない。それは、人を不幸にする」
「だとしても」ナルシスは拳を握り締めた。「僕は、彼の優しさを信じてみたい」
「ナルシスさん……?」
エーコは、何を言いだすのかと顔を上げた。その目には疑いと恐れとが、一縷の望みとブレンドされて漂っていたが、残念ながらナルシスはその前者の方に向かう者だった。
何故立候補しないという考えが思い浮かばなかったのか、ナルシスには今分かった。
それは、シャルルを見捨てることになるからだ。
確かに、立候補を取りやめることは簡単だ。というより、そもそも申請すらしていないのだから、このまま放置すればそれは叶う。
だが、そうすればシャルルは政治的に孤立する。改革を求める「市民」などは都市伝説として扱われ、シャルルのしようとした改革は根拠を失い、無駄に政治力を消耗しただけに終わる。
その前提の下では自由恋愛主義者たちもただの犯罪として粛々と取り締まられることになるだろう。それは世界を変えるという自らの理想を捨てることだ、とナルシスにはそのとき思われた。
そして何より、シャルルは、言うまでもなく、友人なのである。
平生の意地を抜きにしても、友人の期待を裏切ることなどナルシスにはできそうもなかった。
「僕は、立候補します」ナルシスは、言い切った。「選挙で、シャルルと戦います」
エーコは、その宣言に目を丸くした。口をパクパクと空振りさせて、それからどうにかこうにか、言葉を作った。
「それは、どうして」
「僕には、シャルルが一人で戦っているように思える。その対するところのものは、目には見えないもので、だから誰にも分からないのでしょう。だがそこに並び立つものがあれば、それは鮮明になるかもしれない。そう思ったのです」
エーコの瞳からは何かが失われたようだった。視覚的には、何も変わりはない。自然光は時間経過で僅かに一度未満角度を増したかもしれないが、それだけのことである。それだけの時間が過ぎた。二人の間に初めて空白が生じた。
エーコが、数歩下がった。
のだ。
「エーコさん……?」
「ごめんなさい」彼女は、それでもまず謝った。「でも、今は近寄らないでください。今の私には、アナタの決断を受け入れる準備がない。どうしても、理解ができないの。だから、今は――」
そう言ったエーコは、立っていることすら限界であった。地面が立ちどころに全てなくなってしまったような心持がして、世界に彼女は一人きりになった。
シャルルは豹変し。
ナルシスもそれに同調した。
その現実は、彼女の神経を逆撫でした。何かに怒鳴り散らしたかった。しかし彼女に課せられた教育という呪縛はそれを禁じていた。そうして行き場をなくした神経衝動は、彼女の胃を刺激して、それは逆流現象へ繋がっていく。
「ウッ……」
彼女はしゃがみ込んだ。辛うじて、その欲求が現実のものとなることを堪えたのだ。やはり呪縛のせいである。人前で粗相をしてはなりません。心は強くなければありません。弱々しさを晒してはなりません――
「エーコさんッ……」
ナルシスはその動きに反応しそうになって、立ち止まる。近寄るな、とエーコが目で制したからだ。その中には敵意すら住み着いていた。彼女に向けられたことのない感情。そのことにナルシスは酷く動揺した。その隙に、周りの人々が彼女の異変に気付いて、駆け寄って、すぐに後者の方へ連れていく。熱中症だろうか? ……そんな的外れなことを言いながら。
「エーコ・ノ・オオクラ=キャビネッツ……」
そう、「内閣」を名に持つからには。
彼女は今の彼を受け入れられない。
だからナルシスは、その遠ざかっていく背中に何もできなかった。すべきでないと理解して、それでも何かしたくて、でも結局何もできやしないのだ。
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