第58話 友人として、あくまで友人として
あれから数日が経過した。
それ以来、シャルルは学校に来ていない。公務だろう――選挙についてやる気があるのかないのか、分からない。事実だとすればあったところで動けるものではないのだろうが。
だとして――である。
選挙の準備の方は、着々と進んでいるようだった。
あの日の翌日には、掲示板に紙が貼り出された。選挙は立候補制とし、一人一票、秘密投票によって実施される。後者は例年通りだが、前者については誰もが顔色を変えた。すぐさま話題はそのこと一色となり、シャルルが裏で手を回したらしいことも誰もが知った。
だが、変更について皆が知るところになっても、その理由の方までは誰も知らない。
それが、ナルシスとの対決のために駄々をこねた結果だということを、知らない。
だから通学路を歩く(つまりは自動車での通学ができない程度の身分の)生徒たちですら、今回の決定については不可解なものとして語り合っていた。
――一体全体、どういうことなのだろう?
――何故、自由恋愛主義者じみたことをする?
――そもそも、学園の私物化なんじゃないか?
そんな声すら、聞こえてくる。
(シャルル、)ナルシスはその声たちを追い抜いて、歩く。(これが君のしたかったことか? こうまでして、僕と戦いたかったのか? 学園での立場を悪くしてまで……)
学園での立場が悪くなるということは、そこから転じて上流階級間の社交でのそれも悪くなるということだ、それが相似形であるからには。
確かに、「市民」の間で自由恋愛主義は人気になりつつある。選挙や議会といった「旧時代」のシステムを求める声すら上がってきている。ナルシスもその当事者――サン・マルクスとして、それを肌で感じている。そして「市民」は人口比でこの世界の大半を占める身分である。
しかしそこに公的な立場にいる人間が公然とそれに阿る行いは、今のこの世では危険なことである。今権力を有しているのはより上層の少数の人々なのだ。その支配のパイをより細かく切り分けようとすれば、当然反発を受ける。要するに既得権益だ。誰だって彼らの立場になれば自らの力を守ろうとするだろう。
一方で、「市民」は自信をつけるだろう。自らたちの主張と全く同じことが上流階級の牙城と呼ぶべき第十三普通科学園で起きたのだ、そして噂によればそれを行ったのは「内閣」家の御曹司だという。だとすれば当局の弾圧というのは全く根拠のないものであるように彼らには感じられるだろう。そこへの反発は強まるはずだ。
そうして生じるのは何か? ……行政区の不安定化だ。上流階級と「市民」との対立が激化し、今まで以上のことが起こるかもしれない。
しかし、恐らく、シャルルはそれを望んでいないはずである。彼はナルシスのことを意識する一方で、本当にこれが「市民」のためになると考えているだろう。そのことは表向きの理由から明らかなことだ。
だとすれば、これは皮肉なことだ。彼は自分の感情と理性を天秤にかけ、その対立を止揚させた。そこまでは巧妙だったが、それは結局のところ目的にそぐわぬ結果を招くのだ。そして血が流れるかもしれない。
誰も望まぬ結末が、やってくる。
「…………」
その想像は、ナルシスを暗澹たる気持ちにさせた。それは、「大反動」の再現である。血に血を以て贖いとし、鉄に鉄を以て償いとする。双方が自らから失われたものを求め、取り敢えず目の前の存在から奪うという無為な行動に執心するだろう。
本来そうする必要なく変わるはずの世界はこうしてより硬質化し、それに可塑性を再度もたらすには長い年月による浸潤を待たなければならなくなる。その間に失われた命は二度と帰ってこない。
たった一度、強引な手を打ったが故に、だ。
そうしてナルシスは、校門に差し掛かる。
「ン……」
するとナルシスはそこに多数の生徒の姿を見つけた。例の如く、である。毎朝の挨拶活動は、今日が最終日となるはずった。いつものように多くの生徒が真面目そうな顔で立ち並んで、通る人全てに会釈をしている。
しかし、ナルシスは動きを止めた。すると当然そこで流れが妨げられて、後ろから何人かとぶつかる。それに押し出されそうになりながら、それでも彼はその先へ自発的に進むことはできなかった。
そこにエーコがいるから――である。
「…………」
いないはずはない。彼女は率先してこういう活動には参加する性格の女性だ。これが仮に当番制で、今日が非番であったとしても彼女はいるだろう、今までもそうしてきたように。
事実、彼女の声が他の挨拶に紛れて聞こえてきた。その方向に目を向ければ、雑踏の中に咲く可憐な彼女の笑顔を見つけることができる。残暑に垂れる彼女の汗の雫さえ見える。
だが、その彼女の前に行くわけにはいかなかった。少なくとも、今の彼にその準備はなかった。会えば、必ずシャルルの話になるだろう。選挙の話題にもなるはずだ。
だとすればそのとき彼女はどのような言葉を発するだろうか?
そんなことは、想像がつく――彼女はシャルルの決定に懐疑的な視線を向けるだろう。
そしてその目線は、立候補を表明するナルシスにも向けられることだろう。
彼女は良くも悪くも「内閣」家の未来を担う一翼としてある種の英才教育を受けている。それは確かに、善の側面もある。誰にでも優しく笑いかけてくれる彼女のパーソナリティはそうして育まれてきたものだ。そこに嫌味や差別的感情は一切ない。時に激しく憤ることはあるが、それは急迫不正の侵害に対する当然のものであり、彼女の美徳を損ねるものではない。
だが、一方でそれは旧来の常識をそのまま疑問に思わず受け入れているということも意味する。自由恋愛主義は世界を滅ぼしかけた悪の思想であり、これに阿る行為は全て背徳と背教と悪徳に通じるのだと信じて止まない。無論先述した人格のおかげで自由恋愛主義を信奉する人々を積極的に排除せよとは言わないが、しかし彼らを理解の範疇の外に置いてそこから動かさないという側面が彼女にはある。
だから、ここで彼女と言葉を交わせば、彼女を深く傷つけることになるとナルシスは考えた。今、彼女の精神はシャルルの不可解な言動によって大きく動揺しているに違いない。そこにナルシスがそのアイデアに乗じるようなことを言えば、その揺れ動く振り子の糸へ刃物を当てるようなものだ。
無論、立候補しないと嘘を吐けばいいのであろうが、そんな不誠実はナルシスには不可能なことだった。事実、それはすぐにバレる、自分が自由恋愛主義者であることを隠すのとは訳が違う。
(あるいは――)ナルシスには、その考えも浮かんだ。(立候補を取りやめる、か)
それも、一つのアイデアであった。確かにそうすればシャルルを裏切ることにはなる。彼が期待しているのは「市民」としてのナルシスが選挙戦で真っ向勝負を挑んでくることだ。もし立候補すらしないとなれば、彼の顔に泥を塗ることになり、恐らくそこで友情は崩壊するだろう。
しかし、それでも、エーコとの間柄は保たれる――多少なりとシャルル経由でナルシス自身の印象が悪くなる可能性は大いにあるが、それでも直接的に言及するよりかはマシだ。それに、他にもっと好ましい可能性がある。彼女は理解不可能なシャルルを見捨てるかもしれない。そうして真の愛に目覚めた彼女が、ナルシスへなびくことだって――いや。
ナルシスは首を横に振る。それは都合のいい妄想だ。彼女という高潔な人物はそのような破廉恥な行いはしない。破廉恥なのは自分だ。その人の想い人を貶めて愛を得ようとするとは?
しかし、それは確かに名案ではあったのだろう。そもそも、立候補しない――一体どうして今の今まで思い浮かばなかったというのか? それならば、エーコの心証を損ねることなくここを通ることができる。
もし彼女に尋ねられたら、そう答えることにしよう。
僕、ナルシス・ポンペイアは今般の生徒会役員選挙には立候補しません、と。
ナルシスは、すうと深呼吸をした。今ならば、エーコの前を堂々と通ることができる。彼女の――友人として、頼もしい存在になれる。
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