第57話 新しい日常
そしてその黒いボディが到着したのは、オブ・プレジデント家の邸宅ではなかった。
トウキョウ地区某所の高層ビル。
夕日が沈む頃、彼はその庁舎の一つに入って、その上層階にある会議室へ足を踏み入れた。
「失礼します」
ここは、極東列島行政区行政庁舎。
そこにいるのは、主席行政官代理たるシャルルの腹心たち。
しかし、その実、それは――彼にとって、戦場である。
「遅かったではありませんか。」口火を切って、三人いる次席行政官の一人から言葉の銃弾が飛び出す。「やはり学生の身で代理というのは、現実として不可能なのでは?」
でっぷりと太った彼は特注サイズのスーツを身に纏っている。その醜さにシャルルは眉を顰めたつもりはない。彼がそうしたのは、そういう美醜の理屈ではなくて目の前の男が自らを特権的な人間だと任じて止まない態度を隠そうともしないことに対してだった、その象徴が、その肥満体型であろうと彼には思われた。しかし、シャルルは何も言わない。ただ曖昧に視線だけ向けて、席へと向かった。
「だとして、他に誰ができると?」すると、他の、年配の行政官がシャルルを擁護した。「いずれにしても我々には就くことができぬ職務でありましょう。その事実を批判するということは、アナタは『旧時代』への回帰を願っておられるのか?」
「揚げ足を取らないで頂きたいものだ。いくらアナタが行政官として私より長い経験を有しておられるからといって、言いがかりをつける権利など有しておられるはずはない。そんなものがあるのなら、今頃この椅子はアナタのものだ」
「これは異なことを仰るな、次席行政官殿。今座っておられる椅子が自分のものだとお思いならばそれは大間違いというものだ。それはあくまで借り物、仮初のものに過ぎない。主席行政官を務められる『内閣』家の皆様を補佐すること、そのためだけに我々は『聖母』よりこの座に選ばれた。アナタこそ、その役職にそぐわぬ言動をこれ以上繰り返すつもりなら、自ら席を離れるべきだ」
何を、と次席行政官は腹をテーブルに引っかけながら立ち上がろうとした。この二人の確執は長きに渡る権力争いによるものだ。実力を以てシャルルの父、もといルイ・オブ・プレジデント=キャビネッツ主席行政官はそれに序列をつけたようだったが、その調整弁としての彼がいなくなれば、こうして表面化しようというものだ。
「――失礼、」シャルルが、今やその役目を負わねばならない。「しかしどうか双方矛を収められたい。自ら遅れた身分で言うことではないかもしれませんが、しかし時間が有限であるということはいかなる見解を差し置いて事実でありましょう。早速、本日の議題に――」
「それはどうなのでしょうな?」別の、禿頭の次席行政官が言った。「遅れた事情というのは。シャルル様ご自身が招いた事態だということでわたくしは了解しておりますが」
彼は先の次席行政官と対照的に細身であった。だからこそだろうか、彼には鋭さというものが備わっているようにシャルルには感じられた。少なくとも耳聡い。理事長辺りからのリークでもあったのか? ……いずれにしても、彼の言いたいことというのはシャルルが遅れた理由への糾弾ではあるまい。シャルルはそれを踏まえて答えた。
「……何のことか分からない。私は私がすべきだと判断したことをしたまでのことです。会合に遅れてしまった以外のことで詰られるいわれなどありません」
「詰るなどそんなことをするつもりはありませぬ、主席行政官代理。しかし私が言いたいのは 先にもあちらの行政官が述べました通り、我々は『聖母』の思し召すところ選ばれてこの席に腰を下ろすことを許されております。その仕組みは『共和国』成立以来の伝統だ。違いますか?」
「……選ばれたのは」シャルルはぎろ、と睨んだ。「『内閣』家の人間では?」
「それは……」一瞬視線を逸らしてから、禿頭は答えた。「そうでありましょうが、問題の根幹というのは、即ちこの『選ぶ』という行為の不可侵性にあるべきでしょう。かつて、この世界は今で言うところの『市民』階級に選択権が与えられたからこそ一度滅亡しかけた。その反省が『聖母』でありアナタ様方『内閣』家であるからには、不特定多数による選択という行為は廃されるべきだ」
「アナタの言いたいことというのは、第十三普通科学園における生徒会役員選挙が立候補制になったということが気に入らない、ということなのでしょう?」
「いえ、わたくしの主張というのは、そのことがひいては予てからの懸案であるところのサン・マルクスとかいう活動家や自由恋愛主義者共への燃料になるということなのです」
「あの学園の大半を占めるのは本当の意味での『市民』ではないでしょう。ほとんどがその上流層出身であり、アナタ方のように行政区の運営に何らかの形で関与している」
「ですから、」禿頭の視線が鋭くなる。「大多数によって選ばれるという在り様が問題なのです。それは『市民』による選択、あの忌まわしき制度たる『選挙』を暗示しましょう。その先には『旧時代』の古めかしい社会制度が顔を見せる。その先にあるのは何か? ……再び、人々が愛故に相争う危険な時代であります。役職というものは、役目というものは、理事会にせよ教師会にせよ、上位の存在から与えられるものでなくてはなりません」
それは「聖母」が「内閣」家に与えたように。
上から下へ譲られねばならない。
「暗示と仰ったが、」シャルルは害した気分を覆い隠すのに苦労した。「しかし次席行政官殿。学園が『共和国』の縮図だというのなら、現実にその九割を占めるのは『市民』だ。彼らこそ、この共同体の最大の受益者であります。そして利益を受け取るということは、その逆とてあり得るということでしょう。だとすればそこに決定権があるべきだ。我々は誰でもあらゆることに対して選択肢を有する。それは『市民』も同じこと。何故、政治に関することだけそれが与えられないのですか?」
瞬間、禿頭の頭皮から湯気が出たようだった。あるいは、最も熱された血管というパイプがはち切れたのだろう。彼はばんとテーブルを叩き、立ち上がった。
「失礼ながら主席行政官代理殿は、『聖母』のご聖断をどのように心得ておられるのか⁉ そうして自らが受け継いだ政治的能力を『市民』などに譲れば、自由恋愛主義者は嘲笑するでしょう、我が世の春が来たと! ……その先にあるのはかつての滅びの再来だと、既に申し上げたはずだ!」
それに伴って、野次が飛ぶ。そうだ、よく言った! ……シャルルが一睨みするとその波は一度収まるが、そのためには彼は立ち上がる必要もあった。
「私が言いたいのは自由恋愛主義と政治制度とを区別するべきだという点なのです。それを曲解なさらないで頂きたい!」
「ならば何故、自由恋愛主義者が二言目には選挙などという錆びついたシステムを求めるのか? ……何故ならばその方が彼らに都合がいいからだ。しかし彼らは『共和国』の敵である! それに肩入れするなど……!」
「しかし彼らが『市民』の支持を集めつつあることにこそ注目すべきだ。今や『市民』は『共和国』の現政体を不合理なものとして捉えつつある。時代が変わってきている」
「だが、彼らはテロに頼る!」
「それは、我々が弾圧するからだ! 彼らを非合法なものとして扱っているからだ! 門戸を開かずにいるから、彼らはそれを叩くのだ!」
「愚恋隊に捕らえられた身で、何も学んでおられないのか⁉」
「ならばアナタはあのときどこで何をしていたのか。私はあの場にいて、オウカ・アキツシマとも話した。話の分かる人間だった。その経験を以て言う。このまま政治的に自由恋愛主義を封殺し続ければ、いずれこの行政区全てがひっくり返るような事態になる――否」シャルルは、言った。「革命が、起こる」
瞬間、議場はざわめいた。あらゆる階級、あらゆる分野の行政官たちが、一斉に顔を見合わせて、その単語が使われたことに驚きを隠せなかった。
革命。
それは、自由恋愛主義に支配された「旧時代」の政府から「聖母」と「内閣」家に導かれた「共和国」へ政体が移り変わったという一連の政治イベントのことを指していた。
少なくとも、現時点では。
故に、それはほとんど不謹慎な発言と言えた。革命というのはほとんど神聖(という形容詞はこの時代には死語になって久しいが)な物事として扱われていて、それを軽々しく口にすることなど、ましてや自由恋愛主義的文脈で使うことなど、許されるはずがなかった。
だが、それを口にしたのは誰か? ――その革命の立役者たる「内閣」家、の子孫である。
アイデンティティの否定、である。
そのコントラストに誰もが狼狽せずにはいられなかった。
「――止めよ!」混乱は、最後に控えていた次席行政官のその一言で治められた。「このようなことで時間を浪費していいはずもない。まして議題に関係のない言い争いなど」
「しかし主席行政官代理殿は……」
「それを止めよと言っている。たとえアナタの政治思想にそぐわなかったとしても、彼は『内閣』家のお方であり我々の指導者である。それを自らの轍に合わせようというのは順序が逆であろうが?」
次席行政官の中で唯一の女性である彼女は、赤い口紅を塗った唇を振るわせて男より雄弁に他の次席行政官たちを制した。その実、彼女の方が彼らより次席行政官であった期間は長い。実務経験が彼らを黙らせた。シャルルは彼女に礼を言おうとした。
「主席行政官代理殿」その鼻先へ彼女は割り込んだ。「アナタの『市民』第一の考え方は尊敬に値するものと思いますが、しかしそれは地に足がついているとは言い難いところがありましょうな」
「地に……」出鼻を挫かれたシャルルは、思わず聞き返した。「足が?」
「ええ。『市民』が求めるもの、それは大事なものでしょう。しかしその望みを全て叶えていたら? ……その先にあるのは財政の破綻、経済の崩壊。共和国自体の破滅にもいきつくかもしれない。まして、自由恋愛主義者たちのような理性による統制が未熟な者たちの悪意が混ざれば? ……その先にあるものについていえば、私は彼らと同じ意見を持っています」
ちら、と彼女は他の次席行政官へ目を向ける。だがそれだけではない。他の行政官たちの方まで視線を投げる。そこにあるのは団結であり、常識であり、世間だった。
だが同時に、それはシャルルにとっては絶壁であった。ここにいるのは恐らくこの「共和国」でも有数の頭脳を持つ官僚たちであるはずだ。その全てが彼とは全く逆の思想を以て凝り固まって、まるで刑務所の塀のように聳え立っている。シャルルはその頑固さに狼狽えながら、言った。
「分かっているつもりです、しかし現状の規制は……」
「そう感じられるのはアナタがお若いからだ。まだ現実というものとそれに対する方策を十全には理解しておられない。ようやく『市民』の前に顔をお出しになるようになったのです。まずは彼らの話を聞き、その解決は我らに任されては?」
――!
シャルルは、そのとき激しい憤りを感じた。それを認識したのは、先の二人が何かに気づいたようににやりと笑ったからだ。彼らより一瞬早くシャルルは彼女の言いたいことというものに気づいた。
要するに、何もさせない。
何もするなというのだ、彼女らは。
若いから、経験がないから、まだ顔が知られていないから――という理由で。
だがその本心は、つまり、掌握だ。
まだシャルルが万全に地盤を固める前に権力を我が物にしようという試み。
故に彼らは現状を肯定するだろう。
そして固定するだろう。
そうして、彼のしたいことというのは否定されるのだろう。その方が、賢いやり方というわけである。
それを心の底で理解してしまえば、シャルルの憤りは、すぐさま燃え尽きてしまった――だって、こんなものを感じて何になる?
これが、彼の新しい日常。
毎日この無力感を味わわなければならないのが、彼という人間。
少々私生活で好き勝手をしようとすれば、忽ち糾弾され、それを口実に行動を制限される。
彼は、ゆるゆると席に落ち込んだ。そのまま床すら通り越して地面の中に吸い込まれていく心地すらして、すると声が遠くなっていく。だがそんなことはどうだっていい。
彼の発言を望む人間なんて、この場には一人だっていないのだから。
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