第55話 生徒会役員選挙
「さて皆さん」担任の教師は朝のホームルームで言った。「新学期が始まりますね。ではその始まりに、この学園では何が行われるか、知っていますか?」
ナルシスは真面目に聞いている素振りだけはして、内心では悪態を吐いていた。今この瞬間誰からも見られない保証があったならば、頬杖だってついていただろう。それぐらいつまらないことをよくもこうまでもったいぶって言うものだと彼は思った。
「そう!」その分かり切った問いに、七三分けの彼は続ける。「生徒会選挙ですね――毎年この時期になると私も思い出します。壇上に座る生徒さんたちは皆一様に輝いていて、ああやはり自分とはレベルの違う存在なのだと……そう思ったものです」
――ふざけている。
ナルシスは小さく溜息を吐いた。冗談ではない。アナタの思い出話などどうだっていいと言いたくなった。この学園に入ったならば、誰だってこの時期に生徒会選挙が行われるということは知っている。ふと気づかれないように辺りを見回してみた。ナルシスの視界では、きちんとした姿勢の生徒が大半を占めていたが、その中のいくつかの目が僅かにとろんとしているのを彼は見逃さなかった。
皆、退屈していた。
選挙の話なんて、どうでもいい。
何故なら――
「今年は誰が選出されるのか、それは言うまでもないことですよね! 今年は何と『内閣』家のお方がお二人もいらっしゃる。そのどちらかが理事会や我々から選ばれることになるでしょう」
そう、彼らに選択権などないのだ――「選挙」は「選挙」でも「信任選挙」である。
家柄や成績から理事会と教師団が判断して選ばれた生徒には被選挙権が与えられて。
一方で選ばれなかった生徒に許されるのは、それを認めるか否かだけ――無記名投票なことが救いである。反対しても一応はお咎めがないということになるのだから……尤も、そんなことに意味はない。大抵、無思考で投じられた賛成票により承認されるのが通例だ。
だから、今年の一年代表はシャルル――家柄を考慮すれば、エーコより相応しい――ということになる。
もちろん、生徒会なんてものはフィクションの世界と違って想像以上に権力がない。
そもそも、各学年に代表を置きその下にそれぞれ書記などの役職を与える構造のせいで権力が分散されすぎていて発揮しようがない。
学外の政治力が多分にものを言うこの学園では尚更だ。ほとんど名誉職というほかない。学生時代それに選ばれることは、つまるところ生まれ持った才覚だけでなくそれに見合った努力をしてそれを他人から認められているということの証明である。
尤も、裏を返せばそれだけのことなのだが……。
閑話休題。
問題は、それが名誉なのか不名誉なのかではない。
重要なことは、そこに選ぶ権利がないということだ。
この学園は、この世界の支配者が何者なのかということの縮図だ。
「聖母」という柱に、「内閣」家という骨組みがついて、その周りを取り巻きの名もなき特権階級が内装や外装を占める。そうしてできた荘厳な校舎の周辺を、「市民」たちが無縁そうに歩いているということなのだ。
だから、その中の序列を動かすということは、誰もしない。そんなことをすれば、今ある自分の権力を遠ざける結果に終わるかもしれないし、その空白地帯を他の家が埋めるかもしれない。その結果完全な失脚だってあり得る。
のであれば、そこに下剋上は成立し得ず、ただ牽制と相互作用があるだけである。
……それを変えようというのが、ナルシスたち初恋革命党であるのだが。
(とはいえ――だ)
ナルシスは、真面目そうな姿勢を僅かに崩して、背もたれに体重を少し預けた。
そのような軽度の不真面目ぐらいしか、今の彼にできることはないという意味だ。
革命運動とは違う。
何が違うかと言えば、人口比率だ。
先も述べた通り、この学園が縮図として示すのは、この世界の支配者層とその比率。
あくまで、この世界――「共和国」全体ではない。
故に何のバックボーンもない真っ新な「市民」はほとんどいない。
もちろん、ナルシスほどではないものの、一般枠でこの学園に入った人間は少なからずいるのだが……その数は少ない上、彼はその人々と交友関係がない。恐らくは偶然だろうが、クラスが分かれていて、普段そこを横断しての交流はほとんどない。精々、授業を担当する教師が同じことがある程度で、合同授業の類はないのだ。
そういうわけだからこの学園には味方が少なすぎる。
数が揃わないのでは変えようがない。
(…………)
だから、ナルシスは諦めていた。この件に関しては、動かしようがない。動かしたところで、それほど意味のあるものではないし……強いて言えばシャルルとの対決の場が増える程度のことだ。そしてそこに勝ち目はない。
しかし故に彼は想像だにしていなかった。
彼に理由がなくても、他に理由はあるかもしれないのに。
それは昼休みにやってきたのだが。
「ナルシス――」シャルルの姿を纏って。「ああ失礼、ポンペイア君はいるかな? このクラスだったと記憶している」
その一言で、昼休み特有のだらけて疎らな生徒の群れはほとんど一瞬で直立した整列隊形に変わったようですらあった。「内閣」家の御曹司がクラスに来たというのは、それだけの現象を起こすに足る出来事であった。
「……何だ」その異様な雰囲気の中で、ナルシスは丁度昼飯を広げようとしたところだった。「シャルル。今日はいるのか?」
「うん。午後からだけどね」
そう言いながら、シャルルは彼自身に集まる視線に手を軽く振りながら、ナルシスの席へ近づいていく。そういえば、今朝は彼の乗る車(何台かあるがナンバーを全て記憶している)が駐車場になかった、彼の言うことは正しいのだろう、とナルシスは思った。
「で、何しに来た」
「随分冷たい言い方するじゃないか。用がなくては来てはいけないのかい?」
「別にそういうことはないが、見ての通り、あまりウロチョロしていていいご身分ではないと思うが?」
ナルシスは肩を竦めてそう冗談を言った。その視線の先にいた生徒たちは、自分たちの向けていた怪訝そうなそれを差し置いて逃げるようにあらぬ方向を向く。ナルシスの意図としてはそのことを言いたかった。
「…………」
の、だが。
シャルルはその眉を僅かに下向きに歪ませた。
「ン」ナルシスはそれに気づかない。振り返るより早く、シャルルがその表情を戻したからだ。「どうした?」
「いや、何でもない……それより、お昼、食べたらどうだい?」
だからシャルルはそう言ってまだナルシスの手の中にあるそれを指さした。ナルシスはその包みを開け、ようやくその蓋に手をかけ――シャルルが手ぶらなことに気づいた。
「そういえば、君の昼食はどうしたんだ?」
「ン、ああ、それなら移動中に食べた。サンドイッチを一袋」
「それじゃ足らないだろう。少しなら譲っても構わないが?」
「ありがとう。でも必要ない。このところ食欲がなくてね」
「……何か、あったのか」
シャルルはその質問に暫時は答えなかった。ただ少しだけ俯いて、微笑みと呼ぶには少し悲しい表情でじっと動かなかった。そこにあったのは迷いだった。恐らく機密やプライバシーに対して信頼や友情と言った概念とせめぎ合っているのだろう。その相克は数秒続いて、それから結論は行動に出た。
「実は――」ちら、とシャルルはナルシスに顔を寄せた。「父の容体が、あまり芳しくないんだ」
「父、ということは、ルイ・オブ・プレジデント=キャビネッツ主席行政官か。ご病気だというのは知っていたが」
「うん……尤も、このことは君と僕の秘密にしておいてくれ。理由は言わなくても分かるね?」
「ああ」
それから、シャルルは視線を巡らせて辺りを見回した。普通順序が逆だろうとナルシスは思ったのだが、生徒たちは幸いにもこちらの方を見ていなかった。
「……それで、」シャルルはそれを確認してから続きを話した。「これから公務のいくつかを更に引き継ぐことになった――というより、本格的に公務をこなすようになった。だから、学校にもそうやすやすと来れなくなる」
「それで、僕に用があるってわけか」
「うん。確か、こっちのクラスも数学はタカパスィ先生だったね? ノートを見せてほしいんだ」
「自分のクラスメートに見せてもらえばいいだろう」
「見せてもらったのだが、どうにも要領を得ないところがあってね。君ならその辺りもはっきりまとめていると信頼してのことだよ」
「ふん、」ナルシスはどこか得意げに鼻を鳴らした。「まさか君という人間が僕に教えを乞うときが来るとはね。しかし君と僕との競争は常に対等な条件で行われるべきだ。無論、貸し出すことに何ら躊躇はない。少し待て」
ナルシスは食べるのを中断して机の横に吊るしたバッグから当該のノートを取り出してシャルルに渡した。彼はそれを受け取ると
「ありがとう」
と言って、ぱらぱらと捲り、
「これで分かった。返すよ」
と渡し直した。
…………。
「……いやいやいや」ナルシスは怪訝そうに眉を顰めた。「ありがとうじゃないだろう」
「? 感謝の言葉が一番必要な場面だと思うのだけれど」
「そういう意味じゃない。今ので充分に理解できたのか、という意味だ。僕が時間をかけて丁寧にノートを取っているのが馬鹿に思えるだろう」
「君から借りている手前、そう時間はかけられないしね。それに、一度見れば分かることだから」
「そういうときは次の授業までに返してくれればいいんだ。貸している以上、そこまで目くじら立てはしないさ」
「ああ、だから昼休みが終わるまでにと思ってね」
「……僕の言い方が悪かった、次の『数学』までにだ!」
ナルシスは溜息を吐いて、口の中にぶっきらぼうに食事を放り込んだ。一方のシャルルは楽しそうに笑っている。彼にはそれが呑気に思えた。
「……しかし、そんな状況で」君は、それどころではあるまいに。「生徒会役員になれるっていうのか?」
「ン?」
「知らないのか? 理事会も教師会も恐らく君を一年代表に選出するつもりでいる。ま、君の生まれを考えれば当然の帰結だと僕も思うが」
「ああ、その件なら了解しているつもりだよ。伝統だし、名誉なことだ。もちろんお受けするつもりだよ」
「だが、学校には来れないのだろう? 名誉職、とはいえそれは……」
「やはり、無責任かな」
「いや?」ナルシスは一口含んで噛んで飲み込んで、言った。「それは推薦する側の問題だ。君の事情も勘案しないで済まそうというのが悪い。しかし――」
――しかし、君に対して口を出せる立場にいないというのは、やはり承服しかねる。
ナルシスはそう言いかけた。それは、言ってはならない言葉だ。つまりそれは学園の構造そのものに挑戦状を投げかける行為である。そんなことを、その頂点にいるシャルルにぶちまけてしまえば、忽ち、彼との友情は崩壊するかもしれない。ナルシスは首を横に振った。
「……やはり、何でもない。気にするな」
「何だい? どうして急に?」
「君のことを羨ましがったというだけのことだ。地位だけじゃない、人望だってある。それは僕の認めるところのものでもある。それだけだ」
「話が見えてこないな」
「君は素晴らしいということだよ」
ナルシスはそれきり、何も言わないと決め込んで食事の続きをした。シャルルはその拒絶姿勢を崩そうと何かを言おうとしたが、どうにも言葉にならない。この目の前にいるかけがえのない友人は何らかの禁忌に触れて一時的に心を閉ざしてしまったようだった。
そこには壁がある。
いや、崖かもしれない。
溝、というには、お互いの立ち位置が違いすぎる。
だとすれば――
「対等と言ったな」シャルルは、独り言ちる。「君は」
「何か言ったか」
「いや、何でもない」
いや、絶対に何かを言った。
ナルシスはそう直感したけれど、そこから何かの行動を取ることはなかった。それより先に、シャルルが席を立ったからだ。ノートありがとうと言って。それに言葉を続けることは簡単だったかもしれないが、気づけば昼休みは折り返しに来ていた。早く食べきらねば午後の授業の予習をする時間がなくなる。
だから、ナルシスはああとだけ言ってシャルルを見送った。
それだけで、済むわけはない。
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