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第54話 指輪

「…………さて」


 新学期。


 望むと望まないとに関係なく時間は流れ、結局そこに至るわけである。


「スズナ君。」ナルシスは、隣を歩く女にそう言った。「君という人間には計画性というものがないのは昨日知ったが、まさかあれほどまでに忍耐力もないとは思わなかったな」


 彼にしてみれば「女」という名詞を使いたくもなかった。こういう類の人間は性別関係なく「馬鹿」で充分だ。彼女は彼の努力と親切心を無下にしたのだ。無駄にしたのだ――つまるところ。


 仕方なく家にまで行って勉強を教えてやったのに。


 彼女はそれを活かすことなく眠ってしまったのだ。


 残されたのは山積みの課題。


 である。


「……忍耐力なら常日頃から誰かさんのせいで鍛えられてるぜ。だが人には生理現象ってものがある。三大欲求ぐらいお前の脳味噌なら知っているよな?」


「君の性欲なんて想像したくもない」


「馬鹿かテメーは。睡眠欲の方だよ。夜中まで訳わからんもんずっと眺めてたら眠くもなる」


「訳わからんものではない。きちんと解法が用意され、一つの答えが出るよう設計されたものだ。筋道は示してやったのだから、後は淡々と終わらせるだけだったはずだ。それを君という人間は――」


「その筋道って言うのがお前の理屈でしかないんだよ。お前覚えてるか? ひいこら言いながら俺が書いた答えに『何が分からないのかが分からない』って言いやがっただろ。要するにお前は理屈立てて説明すんのが下手ってことだろうが」


「君の理解力がないのが最大の問題だ。表現力もな。普通、どこが分からないかぐらいは分かってから質問をするものだ。だが君はその最低限すらできていない。それは問題点を認識できていないってことだろう」


「分かってねー訳じゃねーよ。ただそれが多すぎるってだけだ」


「ならばつまり君は初めから何も分かっちゃいないってわけだ。自分に存在している問題から目を背けて生きてきた情けない人間だということだ。普段の剛毅さにも虚しさすら感じられるな」


「テメーな、それは言い過ぎってもんじゃねーか⁉」


「なら結局、君は僕が君を置いて帰ってからどの程度眠っていた。それで起きてからどの程度進めた? ……流石に朝まで寝ていたってことはないんだろう?」


「……だよ」


「うん?」ナルシスは、突然声のトーンを落としたスズナに聞き返した。「普段のデリカシーのないまでの大声はどうした?」


「だから、朝まで寝てたに決まってんだろ? 言わせんな恥ずかしい」


 …………。


 ナルシスは左手を額に当てた。つまり昼頃からずっと付き合っていたあの無益な時間は、その時間に進んだ分を除いて全てパーというわけだ。


「……君がそこに恥らいを感じていることをある程度希望として捉えなければならないほど僕は追い詰められているよ。君がこうまで原始人めいた生態をしているとは、認識を改めなければならないようだ」


「だから言いすぎだろさっきから。文明人気取りのテメーにだって、この通信端末に使われている技術を片っ端から説明できやしないだろう?」


「それはそうさ。誰にもできやしない。だがそれを知ろうという努力はできる。僕が言いたいのは、君はその一歩目にすら立っていないってことさ」


「じゃあ俺が言いたいのは、そんなもの知らなくても生きていけるってことだ。誰にもできないのなら、する必要はない。使えるのならそれでいいだろう」


「嘆かわしいまでの向上心の欠如だ」


「馬鹿馬鹿しいまでの……えっと、アレだ」


「そこで詰まるんじゃあない。せめてそれらしく韻を踏んでくれ」


 そこでナルシスは溜息を吐いた。党のことを話し合う都合――彼女の方が古参党員からの信頼は厚い――なんかもあるから一緒に登校するようになって久しいが、こうまで思考回路に差があると頭痛がする。ガラスが温度差で割れるようなものだ。内側から破裂しそうである。


「おはようございまーす!」


 その頭痛を、その大声は尚更掻き立てた。風紀委員の朝挨拶運動である。何人かの生徒が教師と一緒に校門から校舎までの通路の十メートルぐらいに立ち並んでいることだろう。それ自体にはナルシスはそれほど悪印象は持っていなかったが、今日この日だけは最悪のタイミングだった。


「おはようございま……」の、だが。「あ、ナルシスさん!」


 校門に差し掛かったところで、その鈴の音のように可愛らしいがよく通る声は聞こえた。するといっぺんに頭痛はどこかへ消えてしまった。ナルシスは即座に顔を上げ、それを明るくして、答えた。


「エーコさん! おはようございます!」そうして、彼はエーコの前にほとんど瞬間移動をしてみせた。彼にはそうする義務があると自認していた。「素晴らしいお心がけですね。新学期の一番最初からアナタに会えて、僕も嬉しい気持ちで一杯です」


「ありがとうございます。実はこれ、私の発案なんです。」


「え、そうなのですか?」


「ええ。新学期からいい気持ちでいてほしいと思って……」ちら、とエーコはそのとき彼の背後の方を見て、首を傾げた。「ところでナルシスさん、今日はルーヴェスシュタットさんとは一緒ではないのですか?」


「え?」


 そう言って、ナルシスは振り返る――さっきまでいたはずの位置に、彼女はいない。その存在を見つけるには辺りを少し見回す必要があった。


「……!」


 そうしてついに視線の先に引きずり出されたスズナはそうなるや否や顔を歪めた。ナルシスとは反対に、その場に立ち止まって、それどころか校門の陰に隠れる有様だった。


「スズナ君?」ナルシスはその態度を不審がった。「何をしている。君の図体じゃ隠れきれない上にただただ後続の邪魔だ。今すぐこっちに来たまえ」


「あ、ああ……だが、先に行ってもいいか? ちょいと野暮用を思い出した」


「その野暮用の前に君がやるべきは残された課題を少しでもマシなものにしておくことだ。間に合わなかったときの言い訳もな」


「まあ、課題、やってこなかったんですか?」


 口に手を当てて驚いてみせたエーコの、その挙動にスズナはびくんと震えた。そのことにナルシスはすぐに気づく。が、それが何故かは分からない。


「スズナ君……?」


「……何だよ。俺にまだ用があんのか?」


 それはどう見ても、スズナがどこかエーコに怯えているということである。それは不可解であった。というか、誰が見てもそうであろう。逆ならいざ知らず、か弱いエーコが図太いスズナを怯えさせるなど異常事態だ。


「いや、」その理解不能性に圧倒されて、ナルシスは眉を歪めながらもそう言うしかなかった。「行っていいが……」


 すると、どうも、と礼すら言って、スズナはその場を去った。そう、礼すら言ったのである。それは平生の彼女から考えられないことパート二と言った具合だった。ナルシスには尚更訳が分からなかった。


「あの、何かあったんですか?」


 ナルシスの問いにエーコは首を横に振った。その度に今日は後ろで括っている金色の髪が左右に揺れて彼は頬を緩ませないようにするのに苦労した。


「いえ……この間の花火大会のときまでは普通だったと思いますけど……その後連絡を何度かしたんですが、一度も出てもらえず……」


「まあ、連絡に応じないのはいつもの彼女らしいところではありますが……だとすればそのときに、でしょう。何か心当たりは?」


「いいえ、何も。強いて言うなら彼女がどうしてもユカタを着てくれなかったので少しだけ協力的になるよう『説得』したぐらいでしょうか」


「説得?」


「ええ。『説得』です。」


 …………。


 説得、という言葉が何故か強調されるのをナルシスは感じた。恐らく、その程度のものではなかったか、あるいは何らかの勘違いがあるに違いない。とはいえ彼女が何らかの暴力的な手段に打って出るはずもない、何度も言うように、それこそ逆ならともかく、だ。


「あと写真も何枚か取らせてもらいました、」それからエーコは言った。「着替えた後にですが」


「写真ですか」


「ほら、これです」


 そう言って、彼女は取り出した国民携帯端末を操作してその画像を見せた。


 するとそこには、意外や意外、ぴったりなサイズのユカタを着たスズナが潰れたような笑顔に潰したようなピースサインをして画面に映っていた。その背後にはこれから着るのであろうユカタたちが畳まれた状態で置かれている。


「しかしどうやってサイズを……? 事前に用意されていたのでしょう?」


「ああ、それなら支給の体育着のサイズを学園に確認しました。折を見て聞こうとしたのですが取り合ってもらえなかったので」


 …………。


「いや多分それですよ⁉」


「ひゃうッ⁉」


 ナルシスの叫びに、エーコは二センチほどその場で跳ねた。その肩を掴むようにして――やっぱりそれは恐れ多いからやめて――ナルシスは言った。


「ナ、ナルシスさん⁉ 急にどうしたのですか?」


「し、失礼ながらエーコさん……一旦自分の身になって考えてほしいのですが……突然自分のスリーサイズを言い当てられたとしたら、どうします?」


「え? セクハラですか?」


「何でそこは分かるんですか⁉」


「ナルシスさん……どうして急にそんなことを……? 信じていたのに……?」


「そういうことじゃあないんですよエーコさん! 僕は無実です!」


 ちなみにナルシスはエーコのスリーサイズはよく知っている。


 見れば分かるよう訓練したからだ。


 ……いや、だからどうしたという話だが。


「要するに、」まずセクハラの誤解を解いてから、ナルシスは言った。「彼女にしてみれば、急に何でそんなパーソナルな事柄を他人の、正確には友人ですが、とにかくアナタに知られていたのか、ということなのですよ」


「は、はあ、でも、服とかプレゼントされたら嬉しいですよね?」


「あのユカタいくらするんですか? 我々が普段着ているもの十着分ぐらいはあるでしょう。普通そんなものを贈られたり着せられたりしたら僕らのような人間は縮こまるのです」


「私はスズナさんのことをそれぐらい大事な友人だと思っていますけれどね」


「それは……いいことでしょうが、だとして少しで構いませんから我々の身になってほしい。我々の金銭感覚で言えば、突然車をプレゼントされたようなものでしょう。余程特別な間柄でないと成立しないコミュニケーションですよそれは」


「まさか、いくら私だって車をプレゼントしたりはしませんよ」


「そりゃそうでしょう」


「だってまだ運転できる年齢じゃありませんから」


「雲行きが怪しくなってきたな」


「その代わり指輪は送りましたけどね、シャルル様に」


「ぐはぁっ⁉」


「ナ、ナルシスさん⁉ 大丈夫ですか⁉」


 ナルシスが急に倒れたことに、エーコは戸惑った。彼は脳天を撃ち抜かれたように後ろ向きに上体を倒すと、膝から崩れ落ちたのだ。


「だ、大丈夫です……ただ、ただ少し、衝撃を受けただけ……」


 嘘だった。致命傷だった。恋愛と婚姻が強制される現代においても、三次大戦以前からの風習として、結婚と指輪はセットで語られるものであった。


 ただし、少々意味合いは変わる。


 この時代の場合、それは、「もっと深い仲」になったという暗喩を込めてであるのだから。


「ぐ、おお……」


 ナルシスは別にエーコに全く「潔白」であることを求めていたわけではない。そんなものはどうだっていい。エーコがエーコでいられるのならば、どのような選択をしていようと――たとえ強いられていようと――それは問題ではなかった。


 の、だが、こう、現実を突きつけられると――耐えられなかった。名実共に、彼女がシャルルのものになってしまったような気がして、それと、それをそんなことはないと否定するのとで通常の二倍の労力を必要とした。


「エ、エーコさん……最期に一つだけ聞いてもよろしいでしょうか……?」


 倒れた姿勢で、ナルシスは傍に座り込むエーコに力なく手を伸ばす。ああ、そこには確かに指輪があった。左薬指に宝石が一個だけ埋め込まれたそれが。


「さ、最期って……そんな馬鹿なことは言わないでください! どうか、どうか目を開けて!」


「指輪の……指輪の意味についてはご存じですか……? それだけ、僕に聞かせてほしい……」


「え? 指輪の意味?」エーコは、しかしあっさりそう言った。「知りませんけど」


「…………」ナルシスは、思わず上体を起こした。「はい?」


「強いて言うなら、結婚した、ということを明白にするぐらいですが……でも普通の贈り物の類ですよね」


 ……どういうことか、と言えば何のことはない。


 彼女の世間知らずが、また発動したということなのだ。


 確かに、俗っぽい話である、体を相手に許したかどうかを身体の一部に装飾をつけて示すなんていうのは。大体、そういうことをしたのならばそれ相応に二人の身体的距離が一時的に広がったり何かしらのアクションがあるものだが、その素振りはない。


「はあそうですかそれならよかった」


「ナルシスさん? お体は」


「ええ大丈夫ですたった今そうなりましたどうもありがとう」


 そう言いながら、ナルシスは担架を持ってきた先生方を首を横に振って帰らせる。ほら、ぴんぴんしてるから、帰れと言わんばかりに……先生方は不服そうに彼を睨みつけると、そのままUターンして戻っていった。


「ほ、本当に大丈夫なんですか……? さっきまで死にそうな顔をしていたのに……」


「まあ、そういう日もある、ということです。」ナルシスは話題を逸らしにかかった。「しかしユカタ程度のことで彼女の気が引ける、というのは考えづらいことなのですがね」


「そうなのですか?」


「ええ。昨日僕は課題をさせるために彼女の部屋に招かれましたが、かなり高級そうなマンションでした。少なくとも貧乏暮らしをしているような身なりからは想像もできないほど広い部屋でしたよ」


「え? マンション暮らしってそんなに豊かな方じゃない気が……?」


「…………」ナルシスには、感覚の違いに言及しない努力が必要だった。「いえ、少なくとも賃貸ではないようでした。何部屋もあって、建物自体も新しい……本当に読んでいるのか疑わしいですが、本も大量にありました。少なくとも学生のアルバイト代程度の稼ぎではできない暮らしぶりでしたよ」


「ああ、そういう意味……!」エーコはぽんと手を打った。「それなら、確かに変な話ですね?」


「ええ、彼女に正体不明なところがあるのは今に始まった話ではないですが、最近は特にそういうケがあります――」


 それに、キーンとアリグザンダー。


 あの二人とはどこで出会ったのだ? 彼らは彼女のことを「お嬢」と呼ぶ。一体どういうわけなのだ、あの二人は?


「――まあ、どうだっていいことですがね」


「そうですよ。どのような人であろうと、好意対象者であるからには、愛す。それが『聖母』から与えられた使命なのです」


 そう締めくくる――エーコにナルシスは一瞬寂しい視線を向けてしまったかもしれない。彼の忍耐は一瞬だけ解かれて、またいつもの好青年へと戻ったかもしれない。少なくとも本人にはそういう危惧があった。


 彼の本音というのは、この世界では犯罪なのだから。


 隠し通さねばならない。


 それが叶うその日まで。


「それでは、また」ナルシスは、だからその場を立ち去ろうとした。「――後で会いましょう」


「そうですね、いってらっしゃい。ナルシスさん」

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