第53話 最終日
「……暑いぞ、スズナ君」
ナルシスは駅前の電子看板の前からロータリーの方を向いて、静かに滴る汗のような声を出した。そこには無数の人々が蠢いて右往左往している。のぼりがいくつも立っているのは、何か催物をやっているのだろうか?
いずれにしても夏休み最終日。
辛うじて蝉の声はする。
「……言うな、」それに紛れるほど微かにスズナは言った。「お前のせいでもっと暑くなる」
「口に出したからと気温が上がるなどという現象などない。そんな迷信に傾倒しているとは実に嘆かわしい限りだ。ああそれも仕方ないのかな。ほら、君は文系科目も不得意ならば理系科目も苦手と来ている。リテラシーというものがないんだよな」
「気温は上がらなくても体感温度は上がるんだよ。お前といると頭に血が上るから余計にな」
「ほう、それは奇妙な現象だ。是非とも科学的根拠を示してほしいものだね。そのための協力なら惜しまない。ああ、今日は暑いな、特に暑い」
「……お前はお勉強はできるかもしれないが道徳はゼロ点もいいところだな。だが体育なら俺は負けないぜ。その成果を見せてやろうか?」
むんず、とスズナは隣にいたナルシスに、傍から見れば肩を預けるようになるよう寄りかかった。そうして動きを封じると、彼の鎖骨の内側に指を突っ込んで軽く力をかけた。
「……いや、」ナルシスがそのとき掻いた汗は、決して暑さからだけではない。「遠慮させてもらう。せめて徒競走の分野にしてくれ。それならまだ勝ち目がある」
「この俺から逃げられるとでも少しでも思っているのなら、それは大間違いだぜ。イマドキのパワー型っていうのは、そのままスピード型でもあるってのが主流だ」
「何の話だ」
「俺の話だ。よく聞かねーと宇宙の彼方に飛び出していくことになるぜ」
そのときスズナはナルシスの鎖骨を指で挟んで圧迫した。彼はそこに生じた痛みに視界をキラキラどころかチカチカさせた。そうして相討ち覚悟でしゃがみ込んだが、その動きはスズナに読み切られていて、彼女はパッと手を離してしまった。
「何してんだ? 信号青だぜ? さっさと渡っちまおう」
「き、君という人間は……君もまた道徳がゼロ点のようだな……この僕の美しい鎖骨に痣ができたらどうするつもりだ?」
「お前鎖骨フェチか?」
「敢えて言うならナルシス・ポンペイアフェチだ」
「あっそ」
吐き捨てると、スズナはナルシスを置いてさっさと歩き出してしまった。身長の果てしなく大きい――尚も成長中――彼女の三歩は、常人たるナルシスの三十歩と等しいと言われても過言ではない。ナルシスはシャツの隙間から鎖骨付近に何ら異常がないのを確認してから、その真横に取りつき直した。
すると、ロータリーの喧騒が一層大きく感じられる。規則正しく並んだのぼりの脇に同じく規則正しく揃いの文字の書いてあるTシャツを着た一団が立っている。広場の方にはマスコットキャラでもいるのか、少し大きなシルエットが蠢いていて、そのどうにも可愛さや愛くるしさからズレたデザインをやたらと不気味に見せていた。
が、問題はそこではない。
「…………」
ナルシスは思わず立ち止まる。
何故ならそののぼり、そしてTシャツには、こう書かれていた。
「自由恋愛主義撲滅キャンペーン」と。
「そこのお二人さん!」それを、興味を持ったと捉えたらしい。立ち並ぶ一人がビラを片手に話しかけてくる。「デートですか?」
「え」
違いますけど、と言いかけて、それはマズいとナルシスはすぐに思い直した。体つきを見るまでもなく分かる。この一団は国民団結局の職員たちだ。下手に強がりを言えばそれを真面目に受け取って拘束される可能性だってある。きょうだいでもなければ好意対象者でもない男女が一緒に出掛けているというのは、彼らにとって尋問するに値する事実なのだ。
「……まあ、そんなところです。好意対象者同士、ちょっとした買い物ですがね」
そう言い直すと、スズナから抗議の視線が向けられる。「もっと上手く誤魔化せ」なのか、「お前と好意対象者同士であることを再認識させるな」なのかは判然としなかったが、何となしにナルシスは自分の鎖骨を庇った。職員は一瞬その動きに視線を向けたようだったが、それほど重要でないと考え直してニコリと笑った。
「それはいい! アナタ方みたいなカップルだけならば、世界はもっといい方向に動くでしょうに」
「ブッ……⁉」
「ゲッ……⁉」
「え⁉ どうされました?」
「「い、いえ、変なところに唾が入っただけです」」
ナルシスとスズナは、揃って吹き出して、揃って誤魔化した。それは意図せずに生み出された世界最高のジョークだった。自分たちほど互いの脛を強く蹴り上げてやりたいと思いながら過ごしている間柄の二人はおるまいに、それをお似合いと言ってのけるその豊かな感性に彼と彼女はユーモアを感じずにはいられなかった。
しかしそれは同時に不自然な応答を生みさえした。何がどうなったら、全くの同時に変なところに唾が入るというのだ? ……二人はその一瞬で冷や汗を掻いた。
が、結論から言えばそれは杞憂だった。この愛想のよさそうな職員は、国民団結局の職務内容に反して人を疑うということを知らないらしかった。相変わらずの笑顔を携えたまま、
「返事までお揃いだなんて、尚更素晴らしいことです」
だのと言った。
……二人がちらと向けあった視線は、冗談じゃないとお互い言っていた。そうであったことにお互い安堵すると同時にコイツと意見が合うなんて最悪だという心持もしていた。だからすぐに視線を逸らして、ナルシスはその先に職員の持つビラを見つけた。
「それで、本題はその紙なんですよね?」
「え? ……ええ! その通りです。はいこちら」
――半分忘れてたな……。
ナルシスはそれに少し呆れながらも、渡されたビラを受け取った。二枚あるから、もう一枚はスズナに渡してやった。
内容といえば、やはり自由恋愛主義活動への注意喚起そのものだった。のぼりにもそう書いてあって違ったらそれは事件であろうというものだ。緑色の薄手の色紙に黒色のインクで印刷されている。お役所らしい作り。
「…………」
しかし、ナルシスは温かみさえ感じられるクオリティに対する内容に閉口せずにはいられなかった――否。
温かみなんてなかった。
仮にあったとして、「対する内容」という言い方は正しくない。
「反する内容」までいって初めて正解らしいと言える。
何故ならば、そこでは――密告が奨励されていたのだから。
知り合いに怪しい人がいたら通報しましょう。
自由恋愛主義者はアナタの近くにいます。
組織への勧誘を受けたら断りましょう。
……無論、それは普通の犯罪への対策と何ら変わりはない。窃盗犯だろうが詐欺師だろうが、一般にはこれらをすることで未然に防ぐことは奨励されるものである。
しかし、逆に言えば――それら明白な犯罪と同列に、自分の思想は語られているということなのだ。そしてそれは正当な行為として認められ、事実ナルシスが辺りを見ればビラを受け取る人はそれなりにいた。その光景は、彼を孤独にした。そう感じさせた。
そして何より。
戯画化されたサン・マルクス――それが逮捕される風刺画。
それが大きく描かれていたならば、そこには嫌なリアリティがあるのだ、そう感じたのだ、ナルシスは。
「ほら、最近、いるでしょう……あのみすぼらしい仮面の男。ああいう口だけは達者な人間がいるから、いつまでも自由恋愛主義者が絶えないのです。それでは『大反動』がまた起こる。そんなことを許すわけにはいかないのです。……」
職員の言いようは、ほとんど演説めいてきた。サン・マルクスへの批判を織り交ぜながら、まだ記憶に新しい「大反動」の脅威を煽る。恐らくは宣伝班として相当な経験か、でなければ訓練を積んできた職員なのだろう、ということは想像がついた。特に若者を狙うというのは、単に自由恋愛主義者に若者が多いというだけのことではないのだろう。ナルシスも使っている手だ。若さ故の万能感を刺激して、思想的に囲い込んでしまおうというのだ。
「……ところでお二人さん。」区切りのいいところで、職員はちら、と二人を見た。「アナタの近くにはそういう怪しい人はいませんか? 好意対象者と行動しようとしない、『三原則』を遵守しない人間は?」
とはいえ、無論、ナルシスは別にサン・マルクスへの批判に憤りもしなければ自らの行為を悔いて告解することもしなかった。相手の手練手管が分かっている以上、それはまるで下手な手品の練習を見ているようだった。どう動いているのか、まるっきり分かってしまうのだ。
そうして精神的な余裕を得たナルシスは、次にどうすべきかすぐに分かった。
スズナを指さして、それから、
「ええ。ここにいま」と言った、「すよッ⁉」
と同時に後頭部に衝撃が走った。彼は目玉が飛び出すのではないかというほど頭部を前の方に突き出して、それから殴打された――と彼はすぐに断定した――部分を両手で抑えながら蹲った。
「いやあすみませんお巡りさん。この人よくふざけるんですよ。ええ。シャレにならない場面でもやるんで、時々こうしてしつけないといけなくって」
「は、はあ……で、ですがやりすぎでは……?」
「そんなことはありませんよ。痛くなくては覚えませんから――ほら、行くぞ。いつまで痛がってんだ」
そう言ってスズナはナルシスを足で小突いた。彼は後頭部にこぶができたことを手探りで確認すると彼女を睨み返したが、スズナの視線は何も言葉を発さなかった。仕方なしに、ナルシスは立ち上がり、国民団結局の職員に軽く手を振って、ロータリー側の信号待ちの列に戻る。
「……テメーなあ」スズナはナルシスと手を繋ぎながら言った。「一応俺たちはマジモンの自由恋愛主義者なんだぞ。少しは危機感を持て」
それは「異能」を使えという合図だった。誰からも認識されなくなるそれ。ナルシスはずきずきする後頭部に邪魔されながらもその指示に従った。
「分かっている」だが、言葉には従わなかった。「だが殴るのはやりすぎだ。僕のこの上なく均整の取れた美しい頭部が僅かに崩れたんだぞ。君はそれに対して何も思わないのか」
「たりめーだろうが。自分のもんならともかく他人の頭がどうなろうが知ったことじゃねーよ」
「まあ、君の頭は中身の価値に対して異常に強固だものな……待て待てスズナ君、人間の指はそちらの方向には曲がらない。人類の新たな可能性に挑戦するのは君の自由だが僕の体で試そうとするのはやめたまえ。僕には僕の自由がある」
「なら俺には俺の権利がある。舐められたらぶっ飛ばす権利がな。誰にも邪魔はさせねーぜ」
「残念ながら僕には生きる権利がある。君のそれとは衝突することになるし、それに――」ナルシスは青になった信号を歩き出す。「そんなことを言うために、この僕に『異能』を使わせたわけではあるまい?」
「チッ、ああ――」スズナは溜息混じりにそう言ってついていく。「そんなことより、このビラだ。随分アイツらデカい顔してやってるぜ。まるで人を犯罪者みたいに」
「否定はできんよ。事実僕たちは犯罪者だ。存在も行動も違法。違法は我々。選択は二つだ、粛々と裁きを受けるか、全てをひっくり返すか。中間はあり得ない」
「言ってる場合か。多分ここだけじゃねーぞこれ。色々な駅でおんなじことしてるに決まってる。トウキョウ以外でもな。それに、この手の運動は爺さん婆さんにはよく効く……」
「実際、例の失敗以来、僕たちはネットでの活動ばかりだ。それに生活基盤の関係上、表立って他の地方に行くわけにもいかない……とはいえスズナ君。この行政区を動かしているのは老人ではなく若者で、恋愛するのも彼らだということを忘れてはならないぞ」
「そりゃそうだが、この行政区を変えるってのは、要するにそういう層も変化に巻き込むってことだ。好感度を上げておいて損はないと思うが」
「何もしないとは言っていない。だが今はまず現状を拡大する形での党勢の更なる拡大だ。運のいいことに先の事件があってから党勢は一定の水準まで改善してきている。」
先の事件、というのは、ナルシスたちが泊ったホテルがハイジャックされた事件のことだ。表向き、その解決には単に国民団結局と「共和国前衛隊」が活躍したことになっているが――それはきつく敷かれた報道管制から読み取ればの話であって、実際のところは、言うまでもなく、初恋革命党の関与があるわけだ。
そのことは過去の判例から規制を受けづらいインターネットメディア(党員が浸透している)を中心に報道され、ある程度の真実味を以て人々に受け入れられつつあった。
「お前……」だがスズナはナルシスを睨んだ。「あれを運がいいと言ってのけるのはどうかと思うぜ。あと一歩でシャルル様は死ぬところだったんだぞ⁉」
「ああ。だがそれは僕らも一緒だ。運がよかっただけだよ、色々な意味で」
「…………」
「いいかいスズナ君。新たな手を打つという君の意見は魅力的ではある。何か行動を起こすべきだという意見にも賛同できる。だがこれは非対称な戦いだ。敵は堅実な手を打つだけでいいし、こちらは逆にそこに綻びができるのを期待するしかないし、時には運任せにするしかないときもある。流れを作るなんて大それたことができるほど、僕たちは強くはないんだ」
「じゃあ、どうするんだ? 強くないってんなら、強くなるしかねーだろうが?」
「それは……」
ナルシスはそのとき返答に詰まった。
考えていない、わけではない。しかしながら、結局のところあの演説事件以上のムーブメントをもう一度起こすのは困難だと思っている自分がどこかにいるのだ。人々の耳目を集め盛り上がった頂点は、今のところアレが頂点で、現状はその残り香で何とか生き残っているに過ぎない。
何かは必要なのだ。しかし何なのかが分からない。
「これから」それでも、彼は、前へ進むしかなかった。「考える」
もう後戻りはできない。一度手を染めてしまった以上、自由恋愛のできる世を目指してしまった以上――恋をしてしまった以上、それを成就させるまでは止まるわけにはいかない。
しかしその先にあるものを、彼はまだ知らない。
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