第5話 その程度の人間
自由。
平等。
平和。
「三原則」――「聖母」が示したそれは、その名の通り原則でしかない。
つまり、ただ「聖母」があるだけでそれが実現されるというわけではないし――時にはそれを制限せずには、例外を設けずには、一度崩壊した社会を再構築するなど不可能だったということだ。
完全な自由では誰かの権利を侵すのだし。
一律な平等では自分の成果を奪われるし。
無欠の平和では破滅の狂気を防げない。
そのことは核戦争という過ちを犯した「旧社会」の政治家たちですら理解していた。国家体制によってまちまちとはいえ、大抵の国家には法が存在し、それによって罪を決め、刑を課していた。
「聖母」、ひいては「内閣」家と彼らとで相違していたのは、何をどこまで制限するかということだ――「旧社会」の先人たちが「何をするか・したか」によって権利を制限し行動を抑制しようとしたのに対し、「共和国」ではその行動をしようという根源から絶とうとしたのである。
では問おう、あらゆる罪の根源とは何か。
少なくとも「共和国」を建国した人々にとって、それは明白だった――愛である。
愛とは何か。
それはエゴである――誰かの愛する誰かは必ずしも他の誰かの愛する誰かとは限らないからには。
それは分断である――誰かを愛するとき別の誰かを必ず同時に愛せるわけでないからには。
それは差別である――愛する何かを定義するいうことがそれほどのことでもない何かをも逆説的に生み出すからには。
故に人は、愛する誰かを守るためならどんな残酷なことだってできるし。
誰かに愛されるためならば他人の愛する人を殺すことだって、平然とやる。
いや、何も人に限らない。動物ですら、縄張り争いや番探しで相争う。それを単に本能という言葉で片付けられるほどには、動物という有機的システムは単純ではない。そして人間も動物の一種であることは科学的事実である。
ともかく――愛とは、人類という本来賢く破滅を回避するはずのシステムを狂わせるバグとして認識されたのだ。バグは直されなければならない。一度それが致命的なクラッシュを引き起こしたからにはそれは尚更だった。
しかし、当然のことながら、愛なくしては人類は滅びる――効率の良い生殖には愛が必要だ。でなければとっくの昔に淘汰されているはずであろう。愛のいらない生殖――人工子宮による「生産」や適齢期の人間を一箇所に集める「人間牧場」といった方法が当時も考えられたにもかかわらずそのいずれも採用されなかったのは、単に技術上のあるいは意義上の問題以前にそれらが倫理や価値観として受け入れられなかったからだろう。そしてその根幹には愛がある。
愛が人類のものであるかはともかく、人類は最早愛のものだった。
だから「内閣」家は、それを否定するのではなく、受け入れて、利用した。
こうして生まれたのが、「好意対象者割当制度」。
「聖母」が政治を人の手に委ねた分余剰の生じた、その演算能力を利用し、「共和国」中に住む全ての人口にそれぞれのパートナーを割り当てるようにしたのである。最初の施行から制度やプログラムの改良を繰り返し、今では一六歳になる年度の初めに割当が行われる――そう。
始業式の日。
それはナルシスにとって、今までの献身が報われる日であるはずだった。初めて出会って、初めて姫と呼んで、色んな初めてを共に過ごしてきた彼にこそ、「聖母」は微笑むはずだったのだ。
そのはずだったのに。
「おい」その低い男のような声で、ナルシスは現実に引き戻される。「ホームルーム、終わったぜ」
男の「ような」声ということは、その主は男ではないということだった。その証拠に、目の前に見える制服の足元にはスカートが翻っている。返事をしながら顔を上げる――代わりにカバンを持って立ち上がる。とてもではないが、今彼女と会話する気にはならなかった。
「待てよ」しかし、それは当然彼女の感情を損ねる。ナルシスの肩にごつごつとした大きな手が置かれ、軽く乗せられているように見えてずっしりと重い。「礼もなしか? 学年次席様ってのは、随分お偉いんだなァ」
「『どうもありがとう』」ナルシスは努めて感情を殺した、主に負のそれを、背を向けたまま。「……これでいいかな? 僕は忙しいんだ。用があるならその一ヶ月前に申請を出しておいてくれ。一週間後に申請結果を出すから」
「今どき役所でももっとフットワーク軽いぜ? 大体、帰宅部のお前に一体何の急用があるっていうんだよ?」
「じゃあ君には用があるというのかッ?」苛立ちを隠そうともせず、ナルシスは腕を振り払いつつ振り返って、睨みつけるようにした。「いい加減にしろ、一々僕の邪魔をするな! 大体、君はッ……」
そこまで言って、一瞬言葉に詰まる。しかし、それは彼に特有の問題というわけではなかった。
彼女の風体を見れば、一〇人中九人がぎょっとするだろう。彼女の身長を表す単位にはメートルの前にセンチの接頭語を必要とせず、しかもそこに小数点を必要とする巨躯である。それでいて細身かといえばそうではなく、そこら辺の運動部男子よりも相対的な筋肉量は多いだろう。学園の制服の代わりに虎柄の毛皮を纏っていても違和感のないそのプリミティブな暴力を感じさせる胴体の上には、キャラクター饅頭を潰したような顔がくっついている。それがスズナ・ルーヴェスシュタットという女を表す、名とは似ても似つかない体であった。
「大体、何だ?」すると嘲笑するように彼女は、そばかす顔をぐねっと歪めた。「またぞろ、『美しくない』ってか?」
その意地の悪そうな、というより実際悪い視線に舐められてナルシスは一瞬バツの悪い顔をした。ファーストインプレッションで、第一声で、確かにナルシスはそう言ったのだ。何しろ素材がよくない――というと、少々ルッキズムのきらいがあるが、実際そうなのだから他に言いようがない。問題は世の中にごまんといるその手の人間と違って、何か改善しようという意志が毛頭感じられないという点にあった。
というようなことを長々と、原稿用紙一枚分程度にまで本人基準では圧縮して話してしまったのだが、それはその分量である程度意思を伝えることができたという意味ではなく、そこでスズナがコミュニケーション手段を「統一語」から肉体言語に切り替えてしまったという意味である。瞬間的に丸太のような腕が飛んできてナルシスの頭を引っ掴み、ぬいぐるみにでもそうするみたいに持ち上げた――居合わせたシャルルやエーコが懇願しなければ今頃どうなっていたのか見当もつかない。
「……そうだ。」が、そんなことはどうでもいいのだ。恥ずかしかろうが何だろうが全ては過去。向こうが冗談としてそれを振るうのなら尚更だ。「覚えているのなら、同じ話をもう一度する必要はないな?」
ナルシスはすぐさま踵を返して歩き出そうとした。それはここ一週間の通常のルーティンであった。少々出遅れたせいで、今世界で二番目に会いたくない人間に捕まってしまったが、だからといって逃げ出せないわけではない。級友は既に全て帰ったようだ、机たちの間を縫うように動いてナルシスは教室を――
「なあ、よお」
出ることはできなかった。スズナは、今度は腕を掴みぎゅっと握ってきた。当然、その巨体準拠のパワーであるから、簡単に振り切れるものではない。ナルシスの細腕には痛みすら感じるほどだった。
「ッ、何だよ!」
「お前さ、」そのときの視線には、呆れが間違いなく籠っていた。「いつまで駄々こねてんだ?」
カッとなって、殴りかかって、真正面から止められた。それどころか野球のグローブよろしく受け止めた手は、ボールにそうするように拳を包み込むと、そのまま勢いを生かしてグルリと体を入れ替えて床にねじ伏せてしまった。机が無造作にナルシスの体に当たり、そのいくつかは勢いよく床の上を滑って轟音を立てる。
「ッ……」
「大体よー、お前のリーチじゃ俺のどこを殴ろうとしても届かねーだろうがよ。ご自慢の頭脳じゃ、そういう素早い計算はできないもんなのかね。それとも一々数字が必要か?」
瞬間的な怒りで湯だった脳味噌には、言葉という複雑なコードは反応速度において著しく不適合であった。言語化不能な唸り声のようなものが出て、それが自身の美意識にそぐわないことが更にナルシスを苛立たせた。
「お前ッ」ギリギリ言語として成り立ったとしても、それは単語にしかならなかった。それと同様に、身動ぎしたところで少しも拘束は緩まない。「お前はッ」
「あのだな、これでも俺は話し合いに来たつもりだったんだぜ? こーしょーってやつだ、こーしょー。だがこの一週間お前は一切俺と関わりを持とうとしなかった――ま、理解できないでもない。俺だって嫌だからな、お前なんかが好意対象者だってのは」
好意対象者――という単語を聞いてナルシスは一層抵抗の力を強めたが、完全に極められた関節は少しも動くことはない。最早パワーによってではなく完全なテクニックによって固められてしまっていた。これ以上は動いたところで関節を痛めるばかりである。
だがそれはまさに現実というもののもたらす痛みを表しているようだった。割当の瞬間胸に感じたそれを丸っきり腕に移したような心持ちだった。その証拠に、何をしたところで意味がないというのはそっくりだった。
好意対象者割当をやり直すことは、原則できない。
例外というのは、相手が死ぬか、何らかの犯罪で捕まった場合のみだ。
その場合でも――今も好意対象者がいる相手は当然のことながら再割り当ての対象にはならない。
仮にその条件をクリアしたとして、再割り当ては抽選制だ。好きな相手を選べるわけではない。
つまり、ナルシスの望みが叶うことは、現状ほぼあり得ないのだから。
「……駄々を」だから、しかし、何だというのだ?「こねてなどいない。大体君は何だ? お互いの第一印象を思えば、急に僕と何らかの友好的関係を結ぼうというのは理解に苦しむところだ。君に一体何のメリットがある?」
「お前馬鹿か? 好意対象者同士ってのは、仲良くするもんだろ? でなきゃ国民団結局に疑われる。自由恋愛主義者じゃないかってな。それをお前のワガママのせいで痛くもない腹を探られるのが困るってのは、分からん理屈ってわけでもねーだろうが?」
――そうすることが理性的だというのにしないのは、単なるお前の好悪の問題だろ。
そう言いたげな目がナルシスを睥睨する。その鋭さに押し負けて、彼は思わず視線を逸らす。
「……理想と現実が乖離しているのは認めるさ。だが、それなら誰だって受け入れるまで時間がかかるに決まっているだろう。僕のように繊細で複雑な人間は特に――」
だから――そのときスズナの眉がピクリと動いたのに、彼は気づかなかった。
彼女が何の言葉に反応したのかも、だ。
「……お前、」だから、自分の言葉を遮るその絶対零度の一歩手前の声色を聞いて、ようやく何かが起きたらしいと彼は悟った。「その程度の人間だったのか?」
「何?」
「お前は、自分がどうしたいかとか、そのために何ができるとか、考えないのかと――そう聞いている」
――何だ?
思わず上げた視線の先には、彼をいたぶるのをどこか楽しんでいるような先程までの表情は消え失せ、吹雪の中に置いた分厚い鉄板のような冷然さを以てナルシスという異物を拒絶している。あるいはそれは槍衾でもあるようだった、その攻撃性は、それが静的なものに変わったというだけであって、その強さに関して言えば今までの比ではないのだから。
だが、一体何が彼女をそうさせたというのだ?
ナルシスに分からなかったのは、それだ。
だって、何も間違った事は言っていないはずだ。
好意対象者は変えられない。
変えられたところで、望み通りになるとは限らない。
もしそうしたいと望むのなら、世界そのものを変えなければならない――世界の全てを敵に回して戦わなければならない。
しかし、「共和国」の歴史上、自由恋愛主義者によって何度も繰り返されてきたその試みは、夥しい数の犠牲を出しても結局はただ平和を乱すだけだったのだから。
それを、ナルシスたちは身を以て知っているのだから。
「ない」だからナルシスは、そう答えた。「この身に何が起きようとも、この世界で何が起きようとも、それは『聖母』の思し召しなのだ。僕にもその全てが理解できているわけではないが、乗り越えられない試練を与えるはずがない。だから、時間はかかるだろうが……君のこともいずれは受け入れてみせるよ」
ナルシスは、内心、これでスズナを説得し得るものだと思った。機嫌を悪くした理由はまるで皆目見当もつかなかったが、その前に言っていたことから察するに、あまりに衝突しすぎて国民団結局の捜査対象にされるのは嫌だ、ということなのだろう。それは実際、ナルシスとしても嫌だった。お互いの妥協点としては、それほど悪いものとは思えなかった。
「…………あっそ」しかしスズナの表情は、何一つ変化しなかった。「だが一つだけ言っておく――今のお前は、畜産プラントでただエサをもらっているだけの豚みてえなもんだ。豚と婚姻関係を持ちたいか? 俺は嫌だね」
スズナはまるで触れるのも嫌になったようにナルシスを解放してすっくと立ち上がる。それから脇に置いていたらしいスクールバッグを手に取ると、それを片手で背負うようにしてそのまま教室から出る――瞬間。
「――何でお前ほどの人間が、」
スズナは、どこか寂しそうに目を細めて、そう言った。気がした。しかしナルシスが痛む腕を引きずって立ち上がりそれを確かめる前に、彼女はスライドドアをピシャリと閉めてしまった。単にそれを開ければよかったのかもしれないが、ナルシスにはその音が最後通牒であるかのように聞こえて、どうしても憚られた。
「…………」
だからナルシスは、渋々さっきまでいた場所に戻って、乱れた机と椅子の位置、そこからこぼれ落ちたあれこれを拾い集めて大体元のように戻していった。
それから、教室の隅まで飛んでいた自分のスクールバッグを拾い上げ、
「……?」
違和感を覚える。
明らかに、朝より重くなっているのだ――朝から重量が変わるようなことと言えば体操着が汗を吸ったことと昼時にコンビニ(学園内にはないので一時外出した)で買った五〇〇ミリリットルボトルに入ったお茶ぐらいだろうが、そんな程度の違いではない。明らかに、キログラム単位で重くなっている。その認識を以てもう一度見てみると、妙に新品臭いというか、中等部時代のそれを使いまわしているナルシスのものと比べて発色がよかった。
――取り違えたか? だとすると厄介な……。
ナルシスは溜息を吐いた。元々、このスクールバッグは、すぐ帰れるようホームルーム前にロッカーから取り出して自分の座席の下に置いていたものだ。大方、スズナが襲来したときに弾き飛ばされ、彼女は彼女でそこら辺に自分のを投げ捨て、位置があやふやになったのち、大雑把なスズナは手近にあったそれを手に取った、ということだろう。
「…………」
ナルシスは内心頭を抱えた。国民携帯端末をはじめとした所持品の大半がバッグの中にある以上それは取り戻さなければならないものの、流石に今さっきのやり取りがあったあとで彼女に事情を説明してというのは、その、有体に言って、嫌だった。何を言われるか分かったものではない。
かといって、この場で待つ――というのも、論外だ。そもそも手に取った瞬間にバッグを取り違えたことに気づかない人間が道中で気づくとは思えないし、ナルシスにとってスズナはそういう粗雑なことしかできない人間という認識だった。
(だから恐らくあの女は帰り着いてバッグを開けるまで事態に気づかないだろう)ナルシスは仕方なく、バッグを肩に掛けた。(幸い早期発見はできたわけだ――今から急いで追えば追いつけないことはあるまい)
ナルシスの知る限り、スズナが周りの級友たちよろしく運転手付きの自動車で通学しているという話は聞かない。それだけならナルシス同様自宅から徒歩でという可能性もあるが……どちらにせよ、駅までは歩きのはず。ならば追いつけないこともあるまい。行き先については聞き込みでもすればいいのだ。
これですべきことは明白になった、それをしたいかはともかく、しないよりはマシだというのが結論だった。ナルシスは出入口まで行き、ドアと向かい合わせになって。
『――今のお前は、畜産プラントでただエサをもらっているだけの豚みてえなもんだ』
幻聴を無視して、それを開ける。それから不用意に、あるいは不用心に――ドアを閉めた。
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