第4話 幸せを願う、どれほど苦しくても
はっとして、ナルシスは視線をそちらの方へ向ける。さっきの車はまだ道の途上で止まっていて、ドアが開いている――その手前に、彼は当該人物を見つけた。今まさにマネキンと入れ替わったかのように乱れのない着こなしで高等部の制服を身に着けているその男は、その身のこなしに似合う甘いマスクと軽やかなスタイルをしていた。
「シャルル・オブ・プレジデント=キャビネッツ――!」
「内閣」家七家門が一つ、オブ・プレジデント家。
北米大陸行政区を源流に持つその家の、本家本筋の当主にして極東列島行政区主席行政官ルイ・オブ・プレジデント=キャビネッツ唯一の嫡子にして第十三普通科学園中等部元生徒会長にして――中等部編入以来、ナルシスから学年首席の座を奪った男。
「後ろ姿を見たときにもしかしたらと思ったが、やはり君だったとはね。」彼がゆっくりと片手を掲げながら歩いてくる。「ともあれ、おはよう。今朝は元気そうで何より……」
「……何故、君がここにいるんだ?」しかしナルシスは視線を尖らせる。エーコを追い抜くように彼女から離れつつ、まるで剣がそこにあるかのように拳を握り締める。「ナンバーからすれば、その車はエーコさんのもののはずだが」
「ああ、昨日は彼女の家に泊まらせてもらったんだ。父上の代理で、ノ・オオクラ家に用があってね。それで遅くなったのでせっかくだからと好意に甘えることにしたんだ」
「ほう?」ナルシスは、シャルルが彼女の家に宿泊したという事実に全身の血液を沸騰させながら、魔法瓶さながらにそれを内側に隠して言った。「それで?」
「? それで、とは?」
「どうせ君は寝泊まりしたというだけのことだろう。それぐらいのことならば僕にだってある。同じ釜の飯を食ったし同じ風呂にだって入った! ……その程度のこと、エーコさんの懐の深さを思えば驚くことでもないという意味だ」
そう、驚くようなことでもあるまい。初等部時代のことだがエーコはナルシスを含む友人何人かを招いてお泊り会をやったのだ(尤も、風呂は男女別だったが。流石の豪邸である)。その人数が十数人だろうがたった一人だろうが――その一人というのが少々特別な意味を持っていたとしても――経験があるかどうかという点でいえば同じなのだ。ナルシスはそう自分に言い聞かせて無理やり落ち着かせた、震える手と目線を、歯を食いしばるようにしてこらえながら。
「ああそうなのかい?」しかし、その次にシャルルが放った言葉は、ナルシスを凍りつかせるには十分だった。「なら、あのモニュメントも見たのかな?」
「モニュ、メント?」
――そんなものあったか?
ナルシスは訝しんで一瞬自分の眉根が上がるのを抑えられなかった。全く記憶にない、何分幼少期の記憶なのでそもそも信頼性が低いというのはあろうが、何か特段気になるようなオブジェクトは存在しなかったはずだ。あったらナルシスの美的センサーに引っかからないとは思えない。
「?」シャルルの表情はそのときナルシスの模造品のようだった、そこに首を傾げるオリジナリティはあったが。「ほら、エントランスを入ってすぐのところにある吹き抜けの真ん中にある……『聖母』と『三賢者』を模したものだよ。エレベーターに行くにも階段に行くにも見ずには通れないはずだが」
ディテールを聞いたところで、ナルシスは混乱を深めるばかりだった。そもそも、そんな大きなエントランスがあった記憶はない。第一、彼の記憶にあったのはニホン様式の屋敷だ。とてもではないが吹き抜けがある構造ではなかったはずだし、一階建てだったはずなので、階段もエレベーターも用がない。
――だとすれば。
だとすれば、その用がある建物にシャルルは案内されたということではないのか?
すると、その最低二階建て以上の建物といえば――?
「? ……! ああ!」ナルシスがその答えに辿り着いたのとエーコがぽんと手を叩いたのは同時だった。「覚えていないのも無理もありませんよ、ナルシスさんが前に来たときは、別館にご案内しましたから!」
「ああ、なるほど?」シャルルもその単語を聞いて得心がいったらしい。「あの敷地の端の方にあった建物のことかい?」
「そうです、シャルル様はまだいらしたことありませんでしたよね? 今度ご案内しますよ、奥の方には庭園があるんです! ウチの庭師が戦前の資料からニホン様式を再現したんですよ……」
それはいいね実のところ本館のあの装飾は華美に過ぎるような気がしてあまり好みではなかったんだ流石ノ・オオクラ家とも思ったけども次はニホン庭園の方に行ってみたいね、すみませんどうも父はノ・オオクラ家にまだ資金力があった時代のことが忘れられないみたいでアレも無理して骨董商から買ってきたようでして、「共和国」革命が成ってすぐの作品だろうあれは?ああいう貴重なものは管理のできる人間の手になければならないよだからノ・オオクラ家で持っているというのならそれは他の誰かよりもいいということさ――
ナルシスは、その二人の会話を聞くことはなかった。その音波はちゃんとナルシスの鼓膜に伝わり聴覚神経を通って脳に達してこそいたのだけれど、それが言語情報として処理されることはなかったのだ。水底から外の音を聞いているかのようにそれはくぐもっていて、そして実際そうであるかのように声が出せず、息苦しい。
(だって――そうだろう?)
出会ったのは自分が先で。
シャルルは後からやってきたというのに。
それなのに彼が中心に招かれ、自分は端っこに追いやられている。シャルルはナルシスの知らないことも知っている。知らされているのだ。エーコにとって特別な存在であることが許されている。
その現実を厳然たる事実として改めて認識すると、ナルシスの中に感情の奔流が生まれた。それを表出させるのは醜いと知っていたから、彼は奥歯を噛み締めて耐えようとする。しかしそうすればするほど顔に表出するシワは増え、その間に間に澱が溜まっていく。それはまるで傷口のようだった、傷んで、痛んで、しかし異端なのは自分で、耐えきれずにナルシスは叫ぶ。
「シャルル! 君はッ――」
が、それ以上の言葉が繋げなかった。驚いたような表情で二人が振り向く――エーコが振り向く。そのどこか不安を感じた瞳が、彼の口に見えない布を突っ込んで黙らせてしまった。
そして何より、シャルルの不思議そうな顔。
彼は、何も知らないのだ――何も分かっていない。自分が特別だということを理解していない。ナルシスはそれが許せないのだ、許せないのだけれど――その怒りのままに暴れてしまうことはできない。
何故なら、シャルルは許されていて。
何故なら、ナルシスはそうではないから。
そう定められている――「聖母」によって。
その定めを破るというのは特級の犯罪だ。国民団結局によって逮捕され、思想矯正収容所へ連れて行かれることになる。
そうなれば、両親が身を挺して守ってくれた意味が消え去ってしまうことになる。
そうなれば、兄が身を粉にして働いてきた全てが無に帰すことになる。
そうなれば、自分が自分自身を許せなくなるから。
「君は、幸せ者だ」そうであるからには――ナルシスは俯くしかない。受け入れるしかない、どれほど辛く苦しくても。「エーコさんが君の『好意対象者』に選ばれたというのは、君自身が掴んだ幸運だと僕は思う。君は善人だ。少なくとも僕なんかよりずっと」
「? その……ありがとう? だが、君も――」
「だからこそ」ナルシスはシャルルの言葉を遮って視線を上げる。そこに相手が読み取れてしまうほどの敵意が含まれていないことを彼は祈る。「自分が幸運で、それ故幸福だという自覚ぐらいは……していてほしい。それは幸せな人間の最低限のマナーであると僕は思う。そうでなくては、不幸せな人間は耐えられないんだッ」
そこまで言うと、ナルシスは返事も聞かずに歩き出す。まだ微かな希望を残すように隙間を開けているシャルルのエーコの間を割るようにしたのは、せめてもの抵抗だった。何もしなければそれは埋まってしまって、二度とそうすることができないような気がしたから。
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