第37話 今まで味わったことのない恐怖
「ここよ。さっさと済ませなさい」
そう言って案内されたのは、一つ下の階にあるトイレだった。宴会場の階にはトイレがないのである。階段を下りてすぐ。見張りは……数人といったところか。入口は一つ。中に入ってみると、何の変哲もない。小便器と個室が並んだ、綺麗なトイレである。
「案内ご苦労。それでは――ほら」
するとナルシスはそう言って、くるりとテロリストに背を向けた。正確には、背に回されている手を見せて、彼女が作業しやすくして見せたのである。ぴったり結ばれた結束バンドのうっ血感にいい加減嫌気が差してきたところでもあった。
「……」しかし、手洗い場にある鏡の中のテロリストは怪訝そうな顔をした。「はい?」
「いや、だから手の拘束……解くのだろう? ほら、早く」
そう言って、ナルシスは手の辺りをぴこぴこ動かした。実際のところ、早くしてもらう必要もあったのだ――最初はそれほどでもなかったのだが、いざトイレの中に入ると段々と防衛ラインに大物だとの情報が届き始めていた。急がねばならない。
の、だが――テロリストははてなマークを浮かべて、それからようやく何かに気づいたように溜息を吐いた。それは何も分かっていない子供に苛立ったときのようであった。
「……あの、そんなことしてもらえると思ったの? アンタの便意が嘘で、今にも反撃しようとしている可能性を私は考えなければならない立場なの」
「数分後には本当かどうか分かるだろう。いや、あの、そうなっては困るわけだが」
「分かっている。ケツにウンコ引っ付けた人間をあの中に戻せば、臭くなって仕方ない」
「う、ウンコと決まったわけではないだろう! 大体、ウンコだなどと、美しくない言葉を使うな!」
「ウンコじゃない? じゃあそのケツのもじもじした動きは何?」
…………。
ウンコだった。
「だ、だが、」ナルシスは、それでも、抗弁した。「拘束を解いてもらわなければ、その、ズボンが下ろせないではないか。ベルトだって……このままでは暴発するぞ、それは君にとっても困る事態なのだろう⁉」
「誰がウンコさせないなんて言ったのよ。ほら、さっさとこっちを向いて」
「?」
ナルシスには、彼女が何を企図してそんなことを言ったのか、分からなかった。何故前を向く必要がある? 拘束を解くわけではないということは承知した(承認したわけではない)が……?
すると彼女は、素早かった。
「ほい」
ベルトに手をかけた。
のだ。
「な……⁉」
ナルシスは、自分の内部にある圧力が高まるのも恐れずに一歩身を引いた。がんと手洗い場の縁に体をぶつけ、一瞬そのまま破裂するところだった。
「な、何をするんだ⁉ き、きき、君! いくら君が自由恋愛主義者だからって、見境ないぞ! 第一、僕にはこの人と決めた人がいるのだ。貞操は渡せん!」
「はあッ? 何言ってんのよ? 誰が好き好んでアンタのチン――」
「あー! あー! やめたまえ! そんな美しくない言葉を使うのは! 君、さっきからはしたないぞ! いや男性でも外聞もなくそんなことを言うものではないが!」
「ウンコしたいのかウンコしたくないのかどっちなのアンタは⁉」
「したいに決まっているだろう! 人類の大半の人間は漏らしたいと思ったことはないよ!」
「じゃあ言う通りにしろってのよ。大人しく立ってろ」
「君なんかに興奮するものか!」
「そっちの『たってろ』じゃないわよ!」
はああ、と目の前の彼女は深く溜息を吐いた。何も知らないと思った子供が、思ったより無知であったときのように。
「OKまずは状況を整理しよう――まずアンタはウンコがしたい。そうだよね?」
「表現に対して意見したいところがあるが、大体そうだ」
「お前のこだわりはどうでもいいんだよ。それで? ……要するにそのためには、何かするべきことがあるでしょう」
「手の拘束を解くこと」
「だからそれは無理だって言ってんでしょ。その状態で考えて」
その状態で?
ナルシスは頭を捻る――腹は捩れるほど痛みを放ち始めた。危機的状況だ。今すぐにズボンをパンツごと下ろし、便座へ――
「!」閃き。「ま、まさか?」
「そのまさかでしょうが――気づくのが遅いんだよ。それとも、パンツの上にクソをするつもりだったのか?」
ぞくぞくぞく、と寒気のようなものがナルシスの背筋を駆け上ったのは、単に便意がもたらしただけのことではない。
手の拘束を解かず、他人にパンツを下される――それは、ナルシスにとって屈辱であった。
というか、一般論として、抵抗感がある。秘所、という言葉は文字通りであろう。秘密にしなければならないと教え込まれる場所である。
「ままま、まさか、き、君は、僕が便を出すときも見ていようというのか? そうして、お尻を拭こうという?」
「そうするしかないでしょうね。手が使えないんだから」
「正気か君は⁉ 僕にだってプライバシーがある! 抵抗はしないと約束するから、手を自由にさせてくれ!」
「いい加減にしろ」彼女は、銃を向けた。「クソするか、漏らすか、どっちかに決めろ! さもなければ撃つぞ!」
冗談ではない。
そりゃ、排便はしたい。しなければならない。でなければ社会的に死ぬ。エーコもシャルルも優しい人間だからその程度のことで軽蔑もしないだろうが、世の中には軽蔑されないことによる苦しみというものもある。そしてナルシスはそれを人一倍感じる質の人間だった。
(だが、どうする――屈辱を味わってでも破滅を回避するべきか、糞便に塗れてでも尊厳を守るのか。しかしどちらを選んでも破滅だ、遅かれ早かれ……!)
それは、今まで感じたことのない類の恐怖であった。じきに腹痛の波が来る。それが訪れる前に決着をつけなければ時間切れとなり――彼は人間社会において疎外されることになる。ただでさえギリギリの学園内における政治的立地が根本的に崩れ去ることだろう。彼は排便コントロールもできない人間として後ろ指を指されることになるのだから。
では仮にここで、目の前にいる彼女に全てを委ねたとしよう――その場合、彼は正常とは言えないまでも、排便自体には成功する。今日履いてきた白いブリーフは清廉潔白のまま保たれ、それは彼の排便経歴との相似形を維持することになる。そして、彼の羞恥心が酷く傷つけられることを除けば、被害はない
(それは重大な事実を無視する行為ではあるのだが)。
それに、じき国民団結局が助けに来る――その際、目の前の彼女が生存できるかは不明だし、できなかった場合彼の股間を見た者は誰もいなくなる。それに、その状況であれば、パンツに何がついているかは非常に重要なことだ――同情の目線も避けたいナルシスにとっては。
だとすれば、避けるべきはどちらなのか?
一時の恥辱か。
一生の敗北か。
「分かった、」ナルシスは、苦渋の決断を下した。「お願いだから、優しく――」
「――何やってんだ、お前?」
え、とナルシスが顔を上げたのは、その声に聞き覚えがあったからだ。しかもそれが正面から聞こえたからだ。すると、その状況の異常さに先に気づいたのは、テロリストの方だった。彼女は急いで振り返り――それが致命的。後ろに立っていた人物の鉄槌を頭頂部に受けてしまう。そうしてよろけた、ところに横振りのもう一撃が直撃し、哀れ彼女は個室の壁にめりこんで、ぴくぴく痙攣した後、動かなくなる。
そして、その暴力の化身は、それを見届けた後、首をこきこき鳴らした――その巨大な肉体には、見覚えがある。
「す、スズナ……!」彼女だ、彼女が生きていたのだ。「君、生きていたのか」
「……何だァ? 人が慌てて様子を見にくりゃ、勝手に死んだことにしやがって。生きているに決まっているだろうが。俺を誰だと思っている」
「知っているさ。しかし君は人間だ。銃撃には勝てない……見張りはどうした?」
確か、この階にも何人かいたはずだ。
そして全員が銃を持っていた。ライフルを――それを、その巨体でどうやり過ごしたというのだ?
それに対して、スズナが出したのは、呆気ないものだった。
「全員ぶちのめした」
「…………は?」
「アイツら銃に頼りきりで全員喧嘩弱いわ。声出される前にさっと近づいちまえば、全員叩きのめせる。大したことのない奴らだ」
「……人間の発言とは思えん。君ゴリラ辺りに育てられた記憶はないか? それとも山奥で虎にでも?」
「ねえよ。お前も壁にめり込ませてやろうか? 向こう側から見たらだるま落としみてーだろうぜ」
「いや、君に負担をかけるわけにもいかない。遠慮するよ」
そう言いつつ、ナルシスはふう、と息を吐いた。そうして手洗い場に寄りかかると、一度顔を落としそれから天を見上げる。その後ふ、と笑い、鼻の下を擦りながら、言った。
「まあ、その、何だ、スズナ……色々言いたいことはあるが、一つ言わせてくれ」
「何だ」
「ウンコをさせてくれ――今もう、すぐそこまで来ている」
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