第34話 愚恋隊
(少々、大人気なかったか)
天井から雫が落ちてぽちゃんと湯船に落ちる。その波紋の先にいたスズナは、そう思いながらくしゃみをした。冷房で冷えた、というのは単なる嘘ではないらしい、とそのとき思った。口まで浸かり、ぶくぶくと音を立てた。
(とはいえ、その手の思い出がないというのは、強ち嘘ではない――ありもしない思い出を話すよりは、よっぽど誠実なはずだ)
彼女にとって、彼らというのはきらきらした存在であった。
彼らには、華がある。きらきらしたものを生まれながらに有している顔をして、実際に所有している。だから通じ合うものがあって、それで会話をすることができる。前提条件になっているのだ。
ナルシスですら、その一員である――彼の家庭事情は知っていたが、それでも彼は旅行に行ったことのある人間だったように、今の状況に陥る前は、持っている側の人間だった。
彼女は、そうではない。
五年前に両親を失う、ずっと前からそうだった。家は貧乏で、今もそうだが、いつ崩れたっておかしくないボロアパートの狭い一室で膝を突き合わせて生きていた。
生活していた――などという言い方はできない。
生きてはいても、活きてはいなかった。
慎ましいながらも賑やかな生活、というのは、この世に存在しない。
金がないというのは、余裕がないということだ。
潤いがないということでもある。
その状況下において両親の仲が良好だったのは、奇跡だろう。そして幸運でもあった。でなければ何一つ救いがない。
実家に頼る、なんてことは二人ともできなかった。駆け落ちだったのだ。母はこの行政区出身だったからともかく、父は西ユーラシア行政区からはるばる逃れてきた身である。
しかし――実家。
(……皮肉なものだ)
今の自分があるのは、その実家のおかげである――母の実家の支援があるから、何とか暮らしていけている。否、もらっている量を考えれば、もっと裕福に暮らすことができるのだ。それだけの密命を帯びているのだから。
だが、そんなことをするつもりはない。
実家の世話になり続けるつもりはない。
あんな人たちなんかに。
(…………)
また、口元をぶくぶくと沈めた。少し息苦しくなった辺りで一度浮上し、入ってくる空気の美味さでこんがらがった頭の中を漱いだ。
閑話休題。
話を戻そう――とはいえ問題は、金ではない。
金はきらきらしているが、きらきらしたものの正体ではない。
いくらそれを有していようと、今更、そのきらきらしたものを手に入れることはできないのだ――それは、経験であり、その積み重ねである。
差、なのだ。
厚み、と言い換えてもいい。
それがあるからエーコとナルシスはあれだけ友好的に喋ることができる。いや、それはどうでもいいが、そこにシャルルがいることがどうにも我慢ならなかった。
自分だけがいないことが、我慢ならなかった。
ただ一人取り残された――そのとき、スズナは、端的に言えば、拗ねたのだ。
(ふん、大人げなかったんじゃあないな。子供だったんだ、俺は)
自分だけがおもちゃを持っていないと泣くのと同じだ。
おもちゃなんて大きい今はいらないのに、それがなかったことが気に入らないと喚いていたのだ。
だから、今おもちゃがあっても何の足しにもならない。過去は変えられないし。
ただ、泣くのはみっともないから、中途半端に大人になっている彼女は立ち去ることを選んだのだ。
(うん――そうだな)
流石に、自分が悪いことぐらいは分かる。分かっている、最初から。
部屋は確か六〇四号室だったはず。今から戻って、謝ることにしよう――ナルシスに頭を下げるのは癪だが、奴だって、今度ばかりは被害者だ。
彼女は、そうして、湯船から上がった――誰もいないその表面に、波紋が立つ。
そのときだった。
「動くな」
銃を持ったセーラー服を着た人物が、ドアから銃を向けてきたのは。
「何だ」と、シャルルは言った。「君たちは」
同じことが、六〇四号室でも起きていた。部屋に着いて数分、セーラー服の上にタクティカルベストを着た女が、ライフルを片手にずいと迫ってきたのである。
「今すぐ部屋から出なさい。抵抗すれば撃ちます」
「どういうことなんですか、」エーコが狼狽えた様子でソファーから立ち上がった。「これは」
「喋るなと言っている。急な動きもしないで、すれば抵抗と見なす――壁に向かい合って手をつけて。ゆっくりと。身体検査をする」
女は若干低めの声でそう言うと、銃を持って更に一歩前進した。早く従わなければ撃たれることは明白だった。抵抗するべきか? ――近づいた彼女にナルシスは一瞬迷ったが、すぐに諦めた。自分以上に平和主義なシャルルが加わってくれるか分からなかったし、その場合でもエーコを巻き込む可能性があった。それに――周りの部屋を押さえていたであろう護衛も、今はいるかどうか分からない、部屋を移動してしまったから。
「言う通りにしよう、エーカー。それに……シャルロッテも」
咄嗟に、偽名を使うぐらいが精いっぱいだった。シャルルは一瞬戸惑ったようだが、すぐに「そうだ。シャルロッテ――指示に従うんだ」と言いながら目配せをして、エーコもその意味合いに気づいた。
そうして言われた通りの姿勢を取る――すると一人ずつ、女はポケットやら何やらあらゆるところをべたべた触って、その中にあるものを全て床に放り投げていった。当然、通信機となる国民携帯端末は抜き取られた。そして、銃床の縁を叩きつけて――ガシャンという音。画面が割れた、だけではあるまい。
それから彼女は、ナルシスが壁についていた手を乱暴に引っ掴むと、そのまま背中の後ろに回して、親指のところを何らかのタイで固定してしまった。言うまでもなく、抵抗されないよう拘束したわけである。シャルルもエーコも同じくその憂き目に遭い、銃を突きつけられて、廊下に押し出された。
そうして歩かされる――階段を上り、上の方へ。何か施設があったか? ……残念。存在する。宴会場があるのだ、各棟には。それをナルシスは記憶していた。
「入れ」
その言葉というより行動によって(銃の先端で押してきた)無理やり入らされたそこには、既に多くの客と係員たちが、その数、百人以上だろうか、一塊に座らされていた。その中に明らかに雰囲気の違う人物は――ナルシスは一縷の希望に縋って探した――残念ながら、いない。もちろん捕まっていない可能性も考えた。既に抵抗に成功し、潜伏している可能性。
「これで」が、その可能性は拳銃を持ったセーラー服姿の女に否定される。「全員か?」
「一人、行方不明ですが――それを除けば名簿の人数とも一致します」
名簿と一致するということは――宿泊客をどかしてまで護衛につくことは難しかったということだろう。夏といえばホテルは書き入れ時だ。それを無理にどうにかするというのはできなかったに違いない。
そしてそれを話しているということは恐らく、茶髪をボブカットにした彼女が指揮官であるに違いない。そして横にいるのは副官か。よく見るとその二人だけはスカーフの色が別であり、他が緑色なのに黄色をつけている。とはいえ、それが分かったからと言って――どうなるものでもない。ここにいるだけで十人近くは武装したセーラー服女子たちがいる。抵抗が無意味なことはすぐに分かる。
しかし――名簿。
ナルシスはふと嫌な予感がして、誘導に従いつつ座りながら、シャルルに耳打ちした。
「……そういえば、名簿には何て書いたんだ?」
本名を書いていたら、一大事だ――シャルルは「内閣」家の人間で、かつ一応行政官の一人でもある。行政区の要人であるのだから、相手の目的はどうあれ、バレればどうなることか分かったものではない。
「一応、」彼は答える。「偽名にしてある――護衛から傍から離れる条件として言い含められていてね。ホテルにも話は通してある。まさか本当に役に立つとは思わなかったが」
「ちなみに、その名前は?」
「エリックと、ミハル――とはいえ、僕たちの顔を知られていたら、終わりだがね」
それはそうだ――シャルルは主席行政官でこそないからその顔が報じられていた記憶はないが、それでも情報というのはどこかに必ずあるもので、だからこそ必ず漏れるものでもある。だとすれば、顔を知っている者もいるかもしれないのだ。
何より、ホテルに話が通っているということ――それは情報が渡っているということを意味する。だとすれば、何らかの事情により、原因により、それが外部に出る可能性は、充分にある。
「――そこ!」そして、ナルシスの懸念は、最大に達する。「何を話している!」
一人のセーラー服女子が近づいてくる。しまった。この状況で私語は軽率だったか? ……いずれにしても、身から出た錆だ。何とか誤魔化さねば――ナルシスは、口を開いた。
「べ、別に、ただの世間話ですよ。気にすることはない」
「何でこの状況で世間話なんてしている。金玉に毛でも生えているのか?」
しまった。余計に怪しまれた。
気が動転して、気が動転しなさすぎている発言をしてしまった。
あまりに堂々としすぎて、逆に褒められてしまっている……。
「もとい、アナタ方が誰で、何者なのか――それを話していたんです。まだ名乗ってもらってすらいない。テロリストなのに随分謙虚なものだと」
「それは我々のタイミングですること。アナタに決められる筋合いはなくってよ」
そう言って、彼女は銃口を向けた。ナルシスはずいと迫ってくるそれに、抵抗せず身を捩って一歩下がった。
「? あら?」そうしてシャルルとぶつかった――拍子に彼の顔が少し上がる。「そこのアナタ?」
それは軽率に過ぎた。そうナルシスは後悔した。シャルルはバレまいとして顔を伏せてくれていたというのに、その努力が水泡に帰すようなことをしてしまうとは!
「アナタ――」
ナルシスは、思わず顔を伏せた。それに意味がないことは明らかだった。それでもそうせずにはいられなかった――いくら憎い相手でも、友人は友人だった――のだが。
「すっげえイケメン~~~! 名前は?」
ナルシスは、思わず体勢を崩してすっ転びそうになった。もちろん、そんなことをすればどうなるか分からないから一瞬体を揺らした程度だが、結構な忍耐によってそれを成し遂げた。
シャルルは、すると、一瞬女の態度の変貌ぶりに混乱してから、若干目を伏し気味にして、言った。
「……エリック・ファウラーゼン」
「名前までイケメン~~~! やべ~~~! 恋しそ~~~!」
その反応はもうしているだろう、と、ナルシスは言いたいのを堪えるのにかなり苦労した。目をキラキラ輝かせてやいのやいのと叫ぶ女のエネルギーに耐えるので精一杯だったのもある。銃と装備と顔とが一致しなかった。
「貴様、」しかし、それも長くは続かない。「任務を忘れて男漁りか⁉ ここにいるのは人質なんだぞ! 情をかけるな!」
耳をつんざく大音声にナルシスもセーラー服女も震えた。先ほどの指揮官があの位置から怒鳴ったのだ。彼女もまたそれほど大柄には見えなかったが、しかしそれなのに随分な迫力であった。セーラー服女はそれに逆らえないらしく、名残惜しそうに手を振って元の立ち位置へ戻った。
「さて――」そして指揮官は一歩踏み出し、咳ばらいを一つしてから、始めた。「お聞きの通り、アナタ方は人質となった。以降一切の有形無形の抵抗には銃弾を以て応えさせていただくのでそのつもりで。何か質問は?」
そう言われても、挙手するための手は封じられているじゃないか。
ナルシスはそう言いそうになった口を何とか手を使わずに堪えるのに苦労した。
「そう言われても、挙手するための手は封じられているじゃないか」
苦労したけれど、できなかった。
意志が弱い。
「何だ、」ぎろ、とテロリストたちの目が向く。「貴様は?」
「あ、えっと……質問がある、という意味だ。決して抵抗しようとかそういう気持ちで言ったのではない」
「…………」
「いや、あの、でも実際にそうだろう。手を縛られた状態でどうやって質問をしたいという意志を示せばいいというのだ? すっくと立ち上がれば君たちは撃つだろうに」
「……縛るべきは手ではなく口だったかな、この場合?」
不穏な一言を言いつつも、指揮官は溜息を吐いた。それから、銃を握る手に籠っていた力を抜いて、ホルスターに仕舞う。
「それで、質問とは?」
「ん、ああ。」まさか乗ってくるとは。若干慌てつつも、ナルシスは立ち上がりながら言った。「まず一つ目は、君たちの目的について知りたい――身柄を拘束される以上、何のためにこんな目に遭うかぐらいは、知っておきたい。それぐらいの我儘は許してもらえるだろう?」
「……いいだろう。結論から言えば、我々の活動資金のためだ。諸君らを人質に、自由恋愛主義革命成就のための資金を手に入れる。世の中何かと物入りだからな」
――自由恋愛主義。
ナルシスがその言葉に息を呑んだのは、周りの人間とはまた違う意味合いからだった。
言うなれば、同志。
言い換えれば、同業者。
だが、それは――同床異夢。
手段が違う。
あまりにも。
「そ――れで、」ナルシスは、何とか動揺を隠した。「二つ目だ。君たちはいったい何者だ? 自由恋愛主義者というのは了解したが、だとして名前ぐらいはあるだろう。教えてくれないか」
「愚恋隊――そう名乗らせてもらう」
すると、今度は息を呑むどころの騒ぎではなかった。口々に、信じられない、とか、壊滅したはず、とか――そういうニュアンスのざわめきが広がっていった。泣き出す者すらいた。対照的に、自分の引き出した回答がどういう意味だったのか、ナルシスには理解できなかった。
愚恋隊?
何だ、それは?
ふと足元を見ると、シャルルは無言ながらに存在しないものを見たと言わんばかりの表情だった。一方のエーコも落ち着きがないが……しかしどちらかと言えば周りの空気に呑まれて共鳴しているだけであるようだった。きょろきょろと辺りを見回している。シャルルだけが、その意味するところを知っているようだった。
しかし、マズい。このままでは――
「騒ぐな。」銃声。「殺すぞ」
指揮官が素早く拳銃を抜き、撃ったのだ。その銃口が天井に向けられていたことは、奇跡だったと言えよう。彼女の機嫌が少しでも悪ければ、どうなっていたことか? ……全員が水を打ったように静かになった。撃ったのは銃だが。
「貴様らは今私の慈悲によって生かされているに過ぎない! 軽挙妄動は自分の命の蝋燭を吹き消す行為と知れ! ……それで、まだ質問があるのか⁉」
「――いや、満足した。ありがとう」
そうナルシスは言って、座る。強いて言えば、スズナの安否を知りたいぐらい――あくまでも安否確認としてである、ナルシスがスズナを本当に思いやることなどあり得ない――であったが、それは彼女らも知らないことらしいというのは漏れ聞こえた会話から明らかだった。
しかし――この場で一番好戦的な女が行方不明というのは、ナルシスにとって最も恐れる事態であった。一応、ここ最近は平和的な活動を続けてきたわけだが――「共和国前衛隊」隊員を何人も殴り倒した女である。銃を向けられて無抵抗で済ませるなどできるとは思えない。
最悪のシチュエーションとしては、抵抗して、撃たれて殺されてしまうことである――そうなると、既に人気低迷により瓦解寸前の党との連絡が立ち行かなくなる。未だに彼女こそが党の中核にあるのだ。
とはいえ、ピンチはチャンスである。
そう考えることにする――そうでなければ、やっていられない。
一つ、この状況をダイモン・オブ・ソクラテス=サン・マルクスとして交渉し、打破する。
一つ、それにより、党員からの信頼と民衆からの支持を取り戻す。
この二つをやってのけねばならない。そのためには、スズナがやらかす前に、全てを完結させる必要がある。あるいは、救出する必要が。
しかし――そのときだった。
「今の銃声は」宴会場に、その声が飛び込んできたのは。「何事です」
黒髪がしゃなりと揺れた、本当にそういう音がした。
それほどまでに、それは長かったし黒かった。
それと対照的な白い肌。エーコに優るとも劣らない――美しさ。
「お、オウカ様!」指揮官は、すぐさま姿勢を正すと、素早く礼をした。「どうして、こちらに……」
「前線の視察は頭領としての務めです。部下が粗相をしていないかどうかも確認せねばなりません。それにこれから殺すかもしれない人々の顔は見ておかねば無作法というもの。それ故」
「は、しかし――」
「私は質問をしました、フブキ。もう一度させるつもりですか?」
フブキ、と呼ばれた指揮官は、オウカの視線に射竦められたらしい。切れ長の瞳は刃物のようであったから、恐ろしく感じるのも当然と言えば当然のことだった。フブキは今までの態度が嘘のように竦んだ。
「人質が騒いだので、威嚇として射撃しました……一発も当ててはおりません……」
「そう。ならば結構。しかし、無意味に人質を傷つけることはくれぐれもしないよう。死んでしまえば交渉材料として使えなくなりますから」
そう言うと、オウカは踵を返した。黒い髪がふわりと揺れて――ナルシスは思い出す。
「……!」
銃が向く、ことでナルシスは自分が思わず立ち上がったことに気づいた。が、座り直すことも今更できそうもない。
制服の時点で気づくべきだった。
あの女とは、学園に向かう坂道で出会っているのだから。
「――何か?」オウカは、ゆっくりと振り向いた。「何もないなら、座ることが賢明であると思います。私は気が長い方ではない」
「あ、の――」が、何と言えばいい?「あのときの借りを返してもらっていない、と思いまして」
「あのとき? ……一体何のことか、分かりかねますが」
「…………」
いや、覚えているとは思っていなかったが、かと言って面と向かって覚えていないと言われると、それはそれで腹に据えかねる……。
「オウカ様」フブキが横合いから言った。「お気になさらない方がいい。あの男、何か腹に一物あるに違いない。その証拠に、この男の同室の女が行方不明になっております」
「……なるほど」
そう言った、瞬間だった。
ナルシスの喉元に短刀が突きつけられたのは。
「⁉」
それは、不可能なはずだ。
第一に、何メートルもの距離がある。
第二に、その間は平地ではなく同じ人質が座らされたままでいる。
そして第三に――刀を抜いたようには、見えなかった。
まるで前兆がなく、過程もなく、結果だけが残ったような、早業。
「アナタ」その上で、オウカは言った。「名前は?」
「ナ……ルシス・ポンペイア……」
「そう、初めましてナルシス。一つ忠告しておきます。アナタが何を企んでいるか知ったことではありませんが、妙な動きをすれば私は誰であろうと殺す用意があります。そのときアナタ方は抵抗できない。分かりましたね」
「は……い」
その言葉にオウカはにこりと微笑むと、短刀をゆっくり仕舞い、背を向けて人質の間を歩いていく。ナルシスはへたり込むように座ることしかできず――その背が宴会場を出ていくことを見るほかなかった。
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