第33話 ヤタノカガミ館六〇四号室まで(行かない)
新しい部屋は、ヤタノカガミ館の六〇四号室であった。本館から湖を見て一番左にあるクサナギ館の隣、三つの館の真ん中にあるのがそれである。
では、渡り廊下か何かを使って隣に移ればいい――とナルシスも考えていたのだが、そうもいかないようだった。このホテルの構造は、本館から三つに分館が分かれる形状になっているらしい。つまり彼らは一度本館に戻って、それからヤタノカガミ館に行く必要があった。かなりの遠回りである。
「前にも、」ふと、エーコが言った。「こんなこと、ありましたよね。ナルシスさん?」
そうして覗き込んでくる――そのまだ幼さの残る表情を見て、ナルシスはすぐにそれに思い至った。
「初等部のときのことですね。あのときは大変でした」
「ほう?」シャルルは前へ歩きながら振り返る。「何かあったのかい、そんな愉快なことが?」
「ええ。初等部の林間学校のとき、私たちの部屋のエアコンが壊れたんです。それで先生たちの部屋とそっくり入れ替えになって……今より暑い夏のことでしたから」
「皆、朝になるとげっそりしていたんだ、シャルル。流石に悪いことをしたと思ったがあまりに面白くって」
「ちょ、ちょっと、ナルシスさん……! 面白いなんて言っちゃ駄目ですよ? 肩代わりしてもらったんだから……」
「そういうエーコさんも、思い出し笑いしているじゃないですか」
そう言うと、エーコはハッとなって口元を両手で押さえた。それから息を止め、頬を膨らませたが……堪え切れなくなったのか、噴き出していた。
それを見つつ、シャルルは何かに感心した様子だった。
「へえ、こっちにはそういう行事があるのだね。林間学校か……」
「シャルル様は、中等部からですものね。初等部までは、確か、」
「うん、北米大陸行政区にいた。向こうじゃ学校で旅行に行くなんてことはないからね。そういう思い出話はあんまりない……」
「そうなのか、意外だ。こういう話こそ、君の得意分野と思っていたが」
「いや、学校に限らなければ、それなりに話せることもある。叔父の別荘に行ったときだ。アラスカにある」
「その話、初めて聞きます」
「僕も初めてだな」
「そうだったかな? まあ、大した話じゃないんだが……別荘と言っても、森の中にある木でできた小さいものだったしね」
別荘って大きいのが前提なのか、とナルシスは言いそうになったが、何とか堪えた。
「雪深い地域でね。まだ秋ぐらいだったのにもう雪が降っていた。当時の私は針葉樹の上にそれが降り積もっているのを見るのが好きでね。護衛に無理を言ってついてきてもらったものだ」
「何となく、分からんではない趣味だ。緑と白が絡み合っているのがいいのだろう?」
「うん。当時の僕もそういう感情だったと思うんだ。それで見に行って……すると、何か声が聞こえた気がした。遠くの方だったが、助けてと言っているような、とにかく叫んでいるような……不明瞭だったが、そう聞こえた」
エーコは、腕を抱えた。何か怖い話が始まる予感に震えたに違いないとナルシスは思った。
「僕は護衛にすぐさまそれを伝えた。誰かがいるなら助けなければならないと思ったんだ。当然だね? ……しかし彼らは首を縦には振らなかった。それが危険だと思ったに違いない。と、当時の僕は考えた。だが子供だったからね。何があろうと誰かを助けることが優先だと考えたんだ」
「それで、」ナルシスは首を突っ込んだ。「護衛を説得した?」
「いや、普通に気を抜いた瞬間に走って逃げた」
…………。
シャルル少年は随分な腕白坊主だったらしい。
護衛も護衛で振り切られるなよ。
小学生にさ。
「そして僕は森の中に入っていった。声はそっちから聞こえていた。僕は警戒もせずに入っていった。一刻も早くその人を助け出さねばならないと思ったからだ。すると、草むらが動いた。そっちの方にいると思った僕はすぐにその草むらへ走っていった……だけれども、そこにいたのは一匹の子熊だった。それはゴロゴロと転がって、僕が聞いたような低い声を出すばかり。なるほど、僕はそれを人の声だと聞き間違えたらしい。子熊はこちらに気づくと、草むらの向こうに消えていった――そして、親熊が姿を現した」
それはそうであろう。
子熊がたった一匹で行動しているはずはない。
必ずその傍には親が見張っているものだ。
「子供心にも、彼女が怒っているのがすぐに分かった。ぴく、と何か動き出さんとした瞬間、僕は思わず身を屈めた――それが逆効果だと知ったのは、後のことだった。その大袈裟な動きに熊は反応して、僕に飛びかかってきた! ……、…………」
「……そ、それで、」エーコが、恐る恐る聞いた。「どうなったのです?」
「エーコさん、どうにかなっていたらシャルルはここにいませんよ」
「そうとも、ナルシス。僕は寸でのところで助かった。一発の銃声が、その熊を一撃の下に昏倒させ、倒した。びっくりして子熊も逃げ出した。何が起きたのか――それはしばらく僕には分からなかったけれど、何のことはない、護衛はしっかりついてきていたのだ。逃げ切ったと思ったのは、銃を取りに行っていただけのことで、彼らは徒歩の僕にスキーであっさり追いついていた。子熊の傍に親熊が常にいるように、彼らは常に僕を見張っていた、というわけさ」
「…………」
「? ……どうしたナルシス。顔色が悪いぞ?」
「い、いや、何でもない……気にしないでくれ、ちょっと冷房に当たりすぎたかもしれない。この廊下、かなり涼しいだろう?」
「そうか。部屋に着いたら温度には気を付けるよ――ところで、スズナ君。」シャルルは彼女の方を向いた。「君はどうなんだい?」
「……? 何がだ?」
「君は何か、そういう面白い話――持ってはいないかい? 僕は君の話が聞きたいな」
シャルルにしては、珍しい態度だとナルシスは思った。彼は優しい人間で、誰に対しても平等であるが、そうであるが故に全員の話をも聞こうとしてどこか受け身の姿勢になりがちだ――だから、「共和国前衛隊」のような輩の言うことも聞いてしまう――のだが、それが話を他人に求めるなどというのは、少々軽率ですらあった。
だから、スズナの答えも、一つに定まった。
「ない」
「ない、のかい?」
「俺は……俺には、そういう金持ちのしそうなことは、何一つない。生憎と、下々の人間なものでね」
彼女は、そのとき平生以上にぶっきらぼうであった。その印象は、行動からも滲み出る、否、溢れ出た。彼女はさっと歩くスピードを上げると、係員の転がすカートから荷物をもぎ取り、すたすたと先を急いだ。
「どこへ行く」
「風呂だ。お前の言う通り、ここは寒くていけねえや」
ナルシスはそれでも、待て、と言ったが、彼女は手をひらひらと振るばかりで、言うことを聞かなかった。むしろ、歩く速度を上げて、あっという間にロビーの向こう側へ消えていった。係員がどうするべきかあたふたして足を止めたのに合わせて、三人も足を止めた。
「悪いことをしたかな、スズナ君に……何か埋め合わせをしなくては」
「そうですね……」
そう呟く二人を一瞥しつつナルシスは、一瞬何か、スズナの態度に彼女らしからぬものを感じたけれど――それだけであった。
そして、三人は歩き出す。
そして、事件は起こる。
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