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第32話 ホテル・灼熱

「……歩けますか?」エーコはナルシスに手を伸ばす。「ほら、こっちです……!」


 果たして、タクシーはホテルに着いた。満身創痍でナルシスは彼女の手を取って立ち上がり、何とか車から出る。背後では運転手が「これ返すときどう言い訳すればいいんだよ……すっかりゲロ臭くなっちゃったじゃないか……!」と嘆いていたが、気にしない。したってしょうがない。覆水は盆に返らない。吐瀉物が胃に戻らないように。


「まずは中に入りましょう。フロントに行かなければならないですし――椅子ぐらいあるでしょうから、荷物を下して座ることにしましょう」


 もらいゲロにもらい酔いをした頭にエーコの高い声は若干苦しいところがあったが……その提案自体は、有難かった。まだ頭の中がグルグルしていたし、鼻の奥にはあの忌々しい酸っぱい匂いが染みついているようだった。


 そうして、自動ドアの前へ行く――と、その背後から車のエンジン音が聞こえた。それが妙に大きく重苦しい気がして、ナルシスはふと振り返った。するとそこには数台のバスが所狭しと止まっていた。停車したドアからはセーラー服姿の少女たちが降りてくる。座席下の荷物入れががばっと開かれて、そこからそれぞれ彼女らの身の丈ほどの荷物を取り出していく。


「……?」


 するとナルシスはそこに何らかの違和感を覚えた。それは永遠に具現化しない。あるいは違和感というより既視感というか――とにかく何かが変だった。見たこともない変なことが起きているようだったし、どこかで見たことのあるようなことが起きている気がした。が、思い浮かばない。乗り物酔いのせいか?


「?」しかし彼は、シャルルに後ろから呼び止められた。「ナルシス? 置いていくぞ?」


「――ん、ああ」だから、気にしないことにした。「分かっている。すぐに行くよ」


 そうしてついていく――アレだけの匂いを浴びて無事なシャルルとエーコに手続きを任せることにして、ナルシスたちは脇にあるソファーに腰かけることにした。そうするとようやくぐらついていた世界の首が据わって、マシになった。


「あーしんどかった……スズナ、君のせいだぞ。君が嘔吐しなければ、僕はこうまで酔わなかった」


「落ち着いて最初にする会話がそれかよ。こっちはまだグルグルしてんだ。少し黙っていろ」


「そうか。それはいいことを聞いた。君が降参するまで話し続けることにしよう。鉄は熱いうちに打てだ」


「吐くぞ、お前のその減らず口の中に」


「一流ホテルのロビーで吐いたら、きっとこの旅は台無しだろうな。シャルルの好意を無駄にするつもりかい?」


「それでお前をぶちのめせるなら少しは考えの内に入る」


「そういうのを無鉄砲と……お」


 ナルシスが黙ったのは、シャルルたちがフロントから戻ってきたからだ。言語的な脛の蹴り合いはそろそろ抑えないと互いに損をする。


「お待たせ」そこには係員が一人ついてきていた。もちろん、屈強だ。「荷物は彼に預けてくれ。部屋まで運んでくれる」


 ナルシスとスズナは、こうまで露骨でも気づかない彼らに若干困惑と呆れを覚えながらもそれに従った。


 廊下を歩きクサナギ館、そのエレベーターに乗ってホテルの五階へ、その廊下へ。その一番奥に五一〇号室はあった。こちらです、とドアを開けた係員に従って、中へ入る。


「おおぅ……」


 まず目に入ったのは、部屋の奥にある大きな窓であった。それをキャンバスとして描かれ出された光景。そこには大きな湖がまず待ち構えていて、そこにもキャンバスがあってフジ山が映し出されている。当然そのモデルも上にあって、美しくポーズを取っていた。


「当ホテル自慢の絶景です。どの部屋からも見えるよう設計されておりまして、フロントで受付してくだされば遊覧船で周遊することも可能です」


 係員の説明も、暫時は聞こえてこないほどそれは美しかった。旧時代人がそれを神と崇めたのもむべなるかな。気の遠くなるほどの時間をかけて醸成された雄大さ、それこそが美。


「僕もいっそこれほど巨大になればいいのか……? それこそ時間をかけて食事量を増やし……いや、今の美しさを捨ててまで別の美しさに行きつこうというのは浅ましい行いではないか?」


「おい、何か変なこと言ってるぞ。戻ってこい」


 係員から荷物を受け取って、それから彼らは部屋を隅々まで見ることにした。内装が気になった――のではなく、護衛がいない(体になっている)ので、爆発物らしい怪しいものなどがないことを確認する必要があったのだ。まあ、若干二名は無駄だろうと分かっていたが……。


 かなり大きな部屋で、ツインベッドが置かれた寝室が二つもある。なるほど男女計四人で泊まるのならこれは一つの選択肢だろう。そこにリビングめいてテレビの置いてある部屋が一つと、ニホン様式の部屋が一つ。当然あるトイレと浴室を除けば計四部屋もある。その内装も落ち着きがありながら気品に満ち溢れており、埃の一つも落ちてはいない。そしてそれを当然の顔をして全てが整然としている。


「随分高そうな部屋だが、」ナルシスは、急に不安になった。「これ、一体いくらしたんだ、シャルル……? 僕もスズナもそんなに金を持っちゃいないんだぞ……?」


 一番怖かったのは到底払えない金額を要求されて兄のイカロスに泣きつく羽目になることだ。彼は仕事中でしばらく外すと言っていたし、そうでなくても迷惑はかけたくない。それに、よりによってシャルルに貸しを作るのも嫌だった。


 しかし、シャルルの返事はあっさりしていた。


「ああ、そう言うと思って僕が全部払っておいた」


「は……? ちなみにいくらほど……」


「別に気にすることはない。君がそうやって気を遣うと思って、いくらかグレードを下げたんだ。大丈夫、ポケットマネーで賄える範疇だよ。豪奢になりすぎても、僕の好みに合わないし……」


 ナルシスはパクパクと口を動かすばかりで何も言えなかった。知っているつもりだったが、身分の格というものが違う。その金も元々は税金だろうという嫌味すら、暫時は出てこなかった。


「ま、まあいい……」ナルシスは、だから、話題を変えようとした。「それより、いくら何でも暑くないか? クーラーを入れようと思うが、どうかな?」


「ん、いいんじゃないかな。エーコさん、スズナさん、構わないかい?」


 二人は荷物を整理していたが、その言葉に振り返って頷いた。それじゃあ、と言いながらホテルらしく床置きのそれに近づいていくシャルルを横目に、ナルシスはソファーへ腰かけた。


 そして数秒。何も音がしない。


「……シャルル、どうした? 普通の型じゃないとはいえ、つけ方ぐらいは分かるだろう?」


「うん。スイッチを押した」


「じゃあ、何で動かない?」ナルシスは立ち上がった。「見せてみろ」


 そうして彼はシャルルを押しのけてエアコンの前へ陣取った。少々古い型であろうことは外装から見て明らかだった(それでも汚いと思わせないのが凄いところだ)が、どこを押せばいいかは誰にでも分かるようになっている。しかしスイッチを押しても何をしても動きそうもなかった。コンセントに繋がっているかは分からない――それらしいコードが見当たらない――から、脱衣所にある分電盤を見に行った、のだが、やはりこれも正常だった。


「と、すると――やはり」ナルシスは汗を拭いた。「これは、壊れているな。風も吹かないんじゃ内部がイカレているに違いない」


「おいおい、じゃあ、どうすんだ」スズナがいかにも暑そうに入ってきた。「このクソ暑い中我慢大会でもするつもりじゃないだろうな」


「おいおいおいおい、近づくんじゃあない。このメンバーの中で君ほど暑苦しい見た目の人間は存在しない。僕を真っ先に脱落させるつもりなのか?」


「お前の苦しむ姿が見れるなら、いくらでも我慢するぜ」


「まあまあ、落ち着いてくれ、二人とも」シャルルが割って入った。「部屋は変えてもらえばいい話だ。フロントに電話するよ。荷物をまとめて準備しておいてくれ」


「そうですよ、暑いから苛々するのは分かりますが、」同じく、エーコも言った。「だからといって喧嘩は駄目です。お二人ともそういう形の愛情表現を取りがちなのは知っていますが……」


 …………。


 それは勘違いですよ、エーコさん……。


 とは言わなかった。そんなことを言って自由恋愛主義者か何かだと疑われるのは避けたかったのだ。スズナとアイコンタクトを取ると、粛々と荷物をまとめることにして、彼は脱衣所を出た。

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