第31話 旅程
車窓の風景は、次第に都市部から住宅地へ、住宅地から食料生産プラント群へ、食料生産プラント群から森林へと姿を変える。時折トンネルという断絶が入り、その度にシャッターが切られたように光景が変わるのだ。
そして、それが見えたのは、その断絶を幾度か経験した後だった。
「おお……」
「あれが……」
相変わらず妙に屈強な乗客以外に誰も乗っていない車内で、四人はその青い山麓へ口々に感嘆の声を漏らした。それは法外な大きさであった。山とは概してそういうものであるという知識は、この際役に立たなかった。目の前のそれが張りぼてでなく、土と溶岩とその他あれやこれやで構成される巨大質量であり、そこに足を踏み入れることすらできるという事実は、言葉というフォーマットに収まるものではないのだ。
その山は、名を、フジ山と言った。
極東列島行政区で最も高い山である。
「かつて、」シャルルは、不意に言った。「フジ山は信仰の対象であったと聞く。こうして見ると、理解できない話ではないね」
「信仰?」
「エーコさん。」今度はナルシスが口を開いた。「旧時代においては、神という形而上の存在が世界を創造し、不可視の力によって支配していると考えられていたのです」
すると、大きな欠伸が彼の背後から聞こえた。ナルシスはすぐにその方を向き、若干の反感を以て睨む。それを、当のスズナは、直前まで寝ていたらしく、伸びをして無視した。
「そんぐらい、俺でも知ってるぜ。アレだろ? 『八百万』ってやつだ……ふああ」
「ヤオヨロズ? 何だ? それは?」
「主に極東列島行政区にあった国家で信じられていた神の概念だよ。丁度話そうと思っていた。ありとあらゆる物体には神が宿っているという考えで、ツクモガミとかも似たような概念だね」
「あ、それなら聞いたことあります! ノ・オオクラ家の蔵にある旧時代の壺にはそれがいるとかって……お婆様がよくそう言っていました!」
「知らねーのはお前だけみてーだな、ナルシス?」
スズナにそう言われた瞬間に湧いた怒りを、ナルシスは深く息を吸い込んで何とか打ち消した。目の前にはエーコがいる。恥ずかしい姿を見せるわけにはいかない……。
「上ばっか見てっから見えてる落とし穴に落ちんだよ。そんなんだからいつまで経っても二番手なんじゃないのか?」
「君は今一線を越えたな⁉ 法廷で会おう!」
思わず立ち上がった……瞬間、ナルシスはハッとなって振り返る。しまった。つい売り言葉に買い言葉で反応してしまった……!
が、当のエーコはと言えば――完全に目の前で繰り広げられているのがコメディアンのショーか何かだと感じているように、クスクスと笑っていた。
「……」スズナは、どこか得意げな表情をいつもの仏頂面に戻した。「何か面白いか」
「い、いえ……その、相変わらず、お互いのことをよく理解されているんだな、と思いまして」
「………………」
「そうだね、しかしスズナ君。あまり彼をいじめないでくれよ? 彼の成績は素晴らしいものだし、確かに順序はつくけれど、それを勝ち負けとして考えるのはあまりいいことではない。そして彼は僕の友人だ。かけがえのない、ね」
「……さいですか」
二人からの純粋無垢な集中砲火を浴びて、スズナはいかにも横柄な態度でふんぞり返った。ナルシスはその様子に溜飲を下げたが、かと言って何も言う気になれなかった。シャルルの優しさという毒は、彼にとっても有効だったからだ。
そうして、最寄り駅で降りると、今度はタクシー(運転手の体格は、言わずもがな)に乗り換え、それからホテルへと向かう。街並みはいかにも観光地という感じでにぎやかそうな雰囲気だったが、タクシーの前後を自然な形で固める黒塗りの車だけがどこか場違いだった。
「運転手さん」そんなときに限って、エーコは口を開いた。「前の車も後ろの車も、随分高級そうな車ですね」
ぴく、とその場にいたナルシスとスズナの耳が動く。余計なことに気づきやがったという認識が二人の間にあって、それは後部座席で視線を合わせることで共有された。
「そ、そうですねェ。何かお偉いさんでも来てるんでしょうかねェ」
「お偉いさん……そうなんですか?」
「い、いえ、私は知りませんけれども……」
……何でもっと気の利いた返事ができないんだ、この護衛は⁉
それじゃ、実際に来ている「お偉いさん」の二人に気づかれるだろう⁉
ナルシスたちは思わずそう言いたい気持ちを何とか堪えた。生殺しにも程がある。大声で叫んでしまえばすっきりするのだろうが、そんなことをすれば、恐らく、彼らの気遣いを無下にすることになる。何となく、それは気が引けた。
「エーコさん。運転手さんをあまり困らせてはいけないよ。すみません、普段は自家用車でタクシーには乗り慣れていないものですから……」
「そっか、そうですよね。ごめんなさい」
(い、いいぞシャルル!)ナルシスは手に汗握った。(でももう少し庶民のフリをしろ! 普通の庶民はどっちかと言えば自家用車よりタクシーに乗っているぞ!)
「い、いえいえ。こっちも知らなくってすみません。何分、新人なもんで、お客さん方を乗せるの初めてで……」
(……オメーはもう少し演技する努力をしろ! 折角のカバーが無駄になっちまうだろうが!)
スズナは窓をバンンバン叩きたい衝動に襲われたが、生憎、ナルシスを挟んだ向こう側にいるエーコが小首を傾げて彼女の方を見ていたので、我慢する他なかった。怪しまれて感づかれたらそれこそお終いだ。
「そ、それよりお客さん!」窮していると感じた運転手は、自分から話題を出すことでその危機から脱しようとした。「ホテル! もう少しで着きますよ! フジ山の見えるいいところですよね、本当に!」
「そうなんですか? よく知ってますね!」
「あ、え? ――ああ、そう、なんですよ! あの……ハイ」
…………。
(そこは普通に泊まったことがあるとかでいいだろ!)
(誤魔化すのが一々下手なんだよ!)
「あの……ほら、大きい……ですよね? 三つも棟があって……クサナギ・ヤサカニ・ヤタノカガミ……でしたっけ?」
(何でホテルの話を続けるんだよ!)
(墓穴掘るんじゃねーよ!)
「不思議な名前ですね」シャルルが聞いた。「由来は何なんですか?」
「えっと、それは……」
(そこは知らねーのかよ!)
(じゃあ何で出したんだ話題に! そこは小粋な豆知識を披露して難を逃れる場面じゃないのか⁉)
くッ、とナルシスは歯噛みをした。マズい――このままでは何かの拍子に運転手が密かに(全然密かではないが)配置された護衛であることがバレてしまう。何しろ相手はシャルルだ。ちょっと世間ずれしているけれど頭脳という点に関しては超一流と言えるシャルルだ! ……何としても話題を逸らさねば……!
「クサナギ・ヤサカニ・ヤタノカガミ――」が、口を開いたのは、彼ではなくスズナだった。「いずれも、ニホン神話から来た名前、だったと思うが。三種の神器と呼ばれ……王朝の正統性を担保するものだったと言われている」
な、に――ナルシスは思わず声を出しそうになった。馬鹿な、何故今このタイミングでその言葉を発したというのだ。確かに運転手の知らないことを補足したくなるのは分かる! しかしとはいえ放っておけば違う話題に逸れて――あるいは逸らして――事なきを得ることができたはず。それはつまり明らかに放っておけば消えたボヤに向かって油を注ぐが如き所業。何を考えて――
(――まさか)
ナルシスの高速回転する頭脳は、一つの答えを導き出した。それは電撃的な解決法であった。
話を終わらせようというのである――敢えて先んじて問いに対する答えを発することで、別の話題に転化しようという試みである……に違いない。放っておけば却って話が続いてしまうかもしれない、先の例えで言えばボヤが大火事に発展するかもしれない。それよりは燃えにくい重油をかけることで鎮火しようというのだ。
(スズナ……前々から馬鹿で学がない割に鋭いところのある女だと思っていたが……いやニホン神話というのは僕も知らない話だったが……ここにきて今日一番の閃きを見せるとは)
ナルシスは素直に感心した。いけ好かない女ではあるが、いざというときは頼りになるようだ。彼は今までの彼女に対する態度を見直すことすら考えた。今までこれほどの女に対して、一体どれほどの仕打ちをしてしまったのだろう、自分は⁉
「…………」
しかし、だ。
「…………」
「…………」
「…………」ナルシスは、思わず言った。「え、それだけ?」
どういうことだ? 話題は確かに終わったが……それだけ?
ニホン神話についての話でもすればよかろうものを、どうして打ち切った?
(そして何だその表情は? 何でそんなに鼻の穴をひくひくさせてソワソワしているんだ⁉)
まさか――それを見てナルシスの頭脳はやはり一つの結論に達する。
まさか、語りたかった、だけ⁉
(じょ、)彼は、引きつった笑いすらした。(冗談ではない……! 危機感を共有していたはずじゃないのか⁉ それを、こう、何らかの反応を待っているようにこっちを見られても……?)
いや。
何かが変だ。
いや、この状況では大半のものが変ではあるのだが……スズナの表情が、妙なのだ。先ほどまで落ち着きなくあちらこちらを見て、それからナルシスの方を見ていたそれが、急に大人しくなって車の隅の一点を睨んでいた。そして何かを耐えるように固まっている。どことなく、顔色も悪い。
(……違う、)ナルシスは、瞬間、手荷物の中から袋を取り出した。(語りたかった、からそうしたのでは、ない!)
そしてそれをスズナに手渡した瞬間――堤防は決壊した。
スズナの口から昼にヨコスカで食べたものが未消化のまま吐き出されていく。ナルシスはその濁流を避けつつ腕を伸ばし、そっと、窓を開けた。
乗り物酔い――である。
スズナは今まさに話題を逸らそうとした瞬間に、その限界が来て、喋ることができなくなったのだ、それが彼女の沈黙の理由だった。すると、次いでナルシスも袋をゆっくり取り出した。窓を開けたとき、タクシーの席の真ん中にいた彼は、臭気という余波を満遍なく食らっていたのだ。おかげでエーコまでは届かないが――しかし、それは彼という防壁を隔てていたからで。
要するに。
もらいゲロである。
「――オボロろろろろろッ⁉」
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