第3話 「仮にないのだとすれば、あるべきだった」
結局、ナルシスが登校したのはそれから二〇分も経ってからだった。時間にして、七時五〇分。ゆっくり食べていたわけではない。単純に、一秒ごとに現実に打ちのめされていく自らを叱咤しながら行きたくもない学校に向かう準備をするというのには、激流に真っ直ぐ立ち向かって泳ぐかのごとき精神的カロリーが余分に必要になるということだった。もちろん、そんな余剰は存在しないので、その代わりとして現実の時間が消費されるというわけである。
普段の倍の時間を要しながらも、今やナルシスは何とか通学路を辿っていた――昨日降っていた雨がアスファルトの路面を至るところで侵食していたが、学園指定の革靴は高級品らしい撥水性でそれが靴下にまで染みこんでくることを防いでいた。
とはいえ、それに感動するのは彼ぐらいのものだろう――大半の生徒は、学園へ車で通う。揃いも揃ってまるでたった今工場から出荷されたかのように黒光りするそれらには世界の全ての道を知っているかのような顔の運転手がついていて、その乗客たる生徒はそれがさも当然のオプション――あるいは部品――であるかのように乗り降りしているのだ。
ナルシスは、その内の一台に追い抜かされながらも、環状線の高架下を抜け、そこからまるで別世界のように上品に舗装された坂道を上る。右手には同じく上品そうな塀が高くそびえていて、その上に除く木々は見合った格式のないものを全て跳ね除ける衛兵のようであった。
その向こう側にあるのが――共和国立第十三普通科学園。
小中高一貫。旧時代においてこの極東列島行政区を支配していた皇帝一族の教育施設の、その跡地に建設されたこの歴史ある学び舎は、今は「内閣」家やその関係者の子弟――つまるところ、将来政治に携わることを許されると生まれながらに決定されている――の教育施設として存在していた。
だが、ナルシスはそのどちらでもない。強いて言えば兄のイカロスが国民団結局――治安維持を主目的とする政府機関――に勤めているぐらいだが、それはナルシスが学園に入学してからの話だ。
そう。
彼は「一般枠受験者」だった。
当然、それは狭き門である――何しろ、入学者の九割は推薦で決まってしまうと言っても過言ではないのだ。推薦入試ならば合格点のボーダーラインに恩恵を受けることができるが、一般枠にはそれがない。更に後者には、全体の順位で一〇パーセント以内にいなければならないという制約も課せられていた。
その上、この学園は行政区立ではなく共和国立。
つまり「共和国」中から――第三次世界大戦終結以後、それは「世界中」と全くの同義語である――受験者が集まってくるのだ。能力は言わずもがな。
だがナルシスは――初等部入学試験においてライバル全てを蹴散らして、その頂点に立った。
それも推薦入試組を含め――である。
何のバックボーンもない「市民」が、ほぼ満点を取って首席合格。
が、それが過去の栄光ですらないことを彼は知っている。過去の栄光だってプライドにはなる――それをバネに立ち上がることだってできる。
しかし彼は一週間前に嫌というほど思い知らされたのだ。
高等部への進学式。
国民携帯端末に配布された番号。それは好意対象者の割り当て番号。その下にはその番号を持つのが誰なのかというのが顔写真付きで示されている。
しかし、そこに記されていたのは――びしゃあ。
と音がして、彼は顔に冷水をかけられたように現実に引き戻された。
というより、実際に水を浴びせられたのだ――すぐそばの車道を勢いよく上って行った高級車が、路肩の大きな水溜まりを蹴り上げていって、それがナルシスを横合いから襲ったのだ。思考の中に囚われていたナルシスは当然それを避けることなどできず、彼の制服は風呂上がりに使ったタオルより濡れていた。
「…………」
ナルシスは、するとほとんど泣きそうだった。頭の中で行き場を亡くした薄暗い感情がグルグルと旋回を続ける。その度に脳の何かしらが擦られて削れていく痛みは、頭痛というよりは閉塞感として感じられた。今すぐ頭の中を開け放ってしまいたい衝動。しかしそうすれば観念的にはともかく現実的には脳髄が飛び出すだけだ。
しかし、それすらも――そう思えてしまったナルシスが今のところ実現不可能な解決策を実行するために必要なことを考え出した、そのときだった。
「――ごめんなさい!」
正面から聞き慣れた声がして、ナルシスは思わず顔を上げる。すると、車道に先ほどの高級車が止まっていて、その後部ドアから一人の少女が降りてきたところだった。金色の長い髪を振り乱して、蒼色の瞳が駆けてくる。すらっとした体形には過不足ない程度の膨らみが備わっていて、翼や光輪が生えていないこと以外古代人たちが挙って彫刻に残そうとしたその理想通りの美貌はナルシスの予想通り彼女だった。
「エーコ様! ……」
エーコ・ノ・オオクラ=キャビネッツ。
七つ存在する「内閣」家の内の一つ、オオクラ家当主シュナウザー・ノ・オオクラ=キャビネッツのご令嬢にして、ナルシスと初等部時代から同級生であった彼女が、そこに立っていた。
ナルシスはそれが嬉しくて、自分がびしょ濡れになっていることも忘れて駆けだしていた。さっきまで頭の中を支配していた渦は瞬間的に動きを止め、前しか見ていないエーコが歩道にもある大きな水溜まりを踏み抜く前に止まれるよう接近した。
「ごめんなさい、ナルシスさん。」エーコはナルシスの受けた被害を見渡すように上から下まで彼を見た。「いつもの運転手が今日は急病で、見習いに運転させていたものだから避けられなかったんです――そのままでは風邪を引きます。今タオルと着替えを持ってこさせますから、」
「いえいえ、姫君」今にも車内へ戻ろうとするエーコを引き留めるように、ナルシスは言った。「これしきのこと何のことはありません。生まれてこの方ワタクシは風邪を引いたことがありませんし、それに制服は――ほら」
瞬間、ナルシスは小脇に抱えていたスクールバッグを上に放り投げた。しかし、その口は軽く開いている――彼は投げる瞬間自前のタオルを取り出していたのだ。塀の高さまで投げ上げられたバッグが落ちてくるまでの刹那――ナルシスはぐっしょりと濡れた左半身に素早くタオルを宛がって押し付けた。白いタオルが泥水を吸って汚れる度に別の面と交換、両手に持った二枚を全て使い切る――と同時に制服からは水滴が消滅した――と同時にバッグが手元に落ちてくる、のを、ナルシスは難なく捉える。
「この通り――何の痕跡も残していません。常に何が起ころうと対処できるよう備えておりますので」
嘘だ。本当は体育の授業の後に汗拭きとして持ってきたものを仕方なく流用したに過ぎない。しかしここで使ってしまったからには本来の目的ではもう使えない――少なくとも泥水まみれになったそれを使えばないよりも悪い事態になることが予想される。もちろん、水道で洗えば落ちる汚れだろうが、その場合どこかで干す必要がある――しかしこの第十三普通科学園にはタオルを干せるような場所はない。何故なら大半の生徒にとってタオルとは何枚でも用意があるものだからだ。使ったら、予備を持ってくればいい、なければ付き人に取りに行かせるまでだ。
それに、ナルシスの美意識として濡れたタオルを干しているのが自分であると誰かに分かるのは避けたかった――何というか、それは美しくない。どこかみみっちいというか、貧乏くさいというか……とにかくそういう形容詞と自分とが結び付けられないよう、工夫する必要があると彼は既に頭を巡らせていた。
「流石ですね、ナルシスさんは」そんな裏事情は当然知らないエーコは本気でナルシスに感心したような表情を見せた、が、すぐに膨れっ面になった。「でも、姫君はよしてくださいって何度も言っているでしょう? 私たち『内閣』家は――」
「『聖母』によって認められた、『市民』の中の第一人者。でしょう?」
「分かっているではないですか。人類は第三次世界大戦によって自らを滅ぼす一歩手前まで行ってしまった。それを救い出したのが『三賢者』の作り出したAIたる『聖母』。その『聖母』が示した『三原則』――自由・平等・平和――からすれば、私たちはアナタ方『市民』と何ら変わりはなく、ただ『聖母』から政治を委ねられただけなのです。ですから、姫などという封建的な言い回しはやめてください。私はただ、ナルシスさんと対等でありたいのです」
そう言って、それでいてエーコは少しはにかむ。その表情は、ナルシスに彼が彼女を始めて「姫」と呼んだときの感情を想起させる。初めてエーコと同じクラスになった初等部三年の頃。情操教育で訪れたシンジュクの美術館。その中にある一つのタペストリー――それはまさに「聖母」から初代「内閣」家の人々が大命を賜ったとき、画面外から射した光のもとに傅く七つの人影が印象的だった――に目を奪われる彼女。
するとショーケースの中の照明はそのとき本来の役目を外れていたようにナルシスには思えた。彼が彼女を見た一瞬だけ、それは見られる客体である作品ではなく見る主体であるエーコをこそ照らしているように見えた。ガラス細工の瞳が金細工の髪の向こうで一心不乱に、自身が今、世界を乗っ取ったことも忘れてかつての主を見つめている。
姫様――ナルシスはそう呟いた。
そしてそうしたことに自覚的ではなかった。
しかしそれ以外にどう呼べばいいのだろう?
ただそこにいるだけで周囲にある文物全ての配置を自分中心に作り変えてしまえるような人間を、それでいて自らはその登場人物表の末席にいると自認している存在を故障する言葉を、彼はそれから一一年経った今でも知らないのだ。
とはいえ呼んだ方が気づいていなければ、呼ばれた方も気づくのに遅れた――聞き慣れない単語に首を傾げながら、それでいて自分にそれが向けられたと振り向いてから気がついて、彼女は、やはり、ココアの上に浮かべたマシュマロのような温かみのある表情を浮かべていた。
『もう、ポンペイアさんったら』そのとき彼女はまだ彼を苗字で呼んでいた。『私がお姫様に見えるのですか、昔話のような?』
『はい』ナルシスは、そのときはっきりと答えた。『僕にとってアナタ様は、その、この世界の真ん中にいるように思えます。それでいて星みたいにどこからでも見えるみたいに光っていて、なのに今目の前にいる。それが、奇跡みたいで……ずっと、お傍にいたいと、思ってしまって』
そこまで言って、ナルシスは自分が随分と出しゃばったことを言ったのではないかという考えに襲われた。相手は「内閣」家の人間だ。そんな相手に今のようなことを言ってしまったならば、何が起きるのか想像できない歳ではなかった。不安に耐えるように、ぎゅっと初等部の制服を握り締める。世界がグルグルと回る。その下る螺旋の中に巻き込まれ、閉じ込められ、ネジ切れそうになる。
『……嬉しい』しかし、それに気づいて顔を真っ青にして俯いていたナルシスは、その一言で顔を上げた。『そこまで、私のことを大切に思ってくれる人は、きっとお父様とお母様ぐらいでしょう。二人以外にそれほどまで私のことを考えてくれる人がいるのは、心強いです――でも、いくつか訂正が必要ですね。私は世界の真ん中でもなければ、お星様でもない。それにね、私は、「アナタ様」なんて他人行儀な呼び方を私は好みません。それじゃまるで、私の方が偉いみたいになってしまうじゃないですか』
そう言いながら、彼女は一歩近づく。暗く見えない渦潮を横切って打ち消すと、そこから手を差し出した。
『…………!』
『ナルシスさん――私たち、友達ですよ。何があっても』
そして、そのときと重なるように、エーコは手を差し伸べる。その先には上り坂があって、その頂点を右に曲がれば学園の正門が待っている。
しかし、ナルシスには見えるようだった、その先に光があるようだった。
仮にないのだとすれば、あるべきだった。
すると、彼はその願望に幻惑された。咄嗟に、彼女の手を奪って駆けだしたい衝動に襲われた。そのまま、彼女と一生を過ごそうとすら考えた。どこでだっていい。下町の安アパートでもいいし、山奥にポツンとある一軒家でもいい。住む場所すらなくて、その日暮らしになったって、ナルシスにはどうだってよかった。ただ彼女さえいれば、どんな世界にだって耐えられる。世界を敵に回したって、生きていける。
だから――ナルシスは、両手でエーコの手を包んだ。本能的に、何も考えずに。
「姫様」エーコは小首を傾げる。一瞬の罪悪感。しかし、彼はそのときどこまでもエゴイスティックだった。「どうか、僕とこのまま――」
「――おや、」しかし、その言葉は、エーコの背後から発せられたその声に遮られた。「ナルシス君じゃないか」
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