第27話 そうだ、旅へ出よう
「……ということがありまして」
ナルシスがそう言うと、エーコはクスクスと笑った。金の髪がその度に揺れて、同じ色の睫毛に青い瞳が隠される。廊下の明かりと窓から射しこむ太陽光がそれを知りたがってきらきらと競うように求愛していた。
「それで、まだ髪の毛が濡れていらっしゃるのね。全く、ナルシスさんったら」
あはは、と笑うナルシスは、その実際のところはかなりぼかして言っていた。髪が濡れているのは、スズナにぶん投げられて件の水溜まりに全身を漬ける羽目になったからで、それでタオルが全滅したからなのだが、そういう自分に不都合になる情報を、彼は言わなかった。格好悪いから。
「しかし、不思議な話ですね」なので、エーコはそういう裏事情を知らない。その後二人仲良く登校してきたと思っている。「この辺りの制服ではなかったのでしょう?」
「ええ。今時珍しい、セーラー服でした――本当に先刻のことですから、今頃彼女は学園に着いていないと遅刻のはずです。なのに、あの服装――全く、どこの学園の生徒なのか」
「それに、彼女の言うことが正しければ、相当な地位のお方ということになりますよね。でもこの学園には入らなかった――とすれば、私立かしら?」
――とすれば、「内閣」家、ひいては「共和国」関係者ではない大金持ちということか。
ナルシスは、静かにそう分類していた。それは将来的な初恋革命党のスポンサー候補ではあった。既得権益とは別の手段で金銭を得ている企業は、信頼が置けるし利害も一致している。互いが互いに利用価値を見出している――
「ナルシスさん?」
「あ、いえ、何でも――」
ナルシスは首を横に振った。仮にそうだとしても、現状の彼らに資金提供をしてくれる企業などない。まずは往時の勢力を回復し、維持してみせなければならない。投資対象として魅力的にならなければいけない――のだ。
「全く、ナルシスさんったら」とはいえその沈黙を、エーコは都合よく解釈したようだった。「もう夏季休暇気分ですか? いくら今日が終業式だからって、そうやって怠けていては駄目ですよ? お休みだからって、課題はその分沢山出ているのですし、折角の休みを有効活用してこそ、でしょう」
「その通りです、姫君。シャルルにはまた勝てなかったわけですしね。この夏で追いつき、追い越してみせなければ」
ナルシスがそう言うと、エーコは堪え切れないようにふふと笑った。漏れるようなその吐息を引き出すことができて、ナルシスは嬉しがる一方で不思議がった。
「エーコさん?」
「ふふ、いえね、シャルル様も同じようなことを言っていたんです。それがおかしくって――」
「シャルルが?」
「ええ。ナルシスさんのような人がいてくれるから、負けられないような気持ちになるって――二人して言っているから、それがおかしくって」
彼女はもう一回吹き出した。それからけたけたと朗らかに笑った。ナルシスはどうしたらいいものか分からなくなって、後頭部を掻いた――一方で、どこかじくじくしたものを心に感じずにはいられなかった。
シャルル、である――結局、彼が笑わせたわけではない。この年相応の明るさと血筋故の上品さが入り混じった奇跡のカクテルは、ナルシスのものではなくシャルルによって引き起こされたものだったのだから。
だからナルシスには、後ろ向きな好奇心があった。彼はシャルルと、いつどこでそれを話したのか知りたかったし、一方でそれを知ることで自分は打ちのめされるだろうという予感に震えていた。それは自分がいると信じている陽だまりが、実は闇夜で切れかかっている街灯に過ぎないのではないかという疑いを試そうということだった。尤も、そうであったとして不思議はない。シャルルこそ、エーコの好意対象者に選ばれた男なのだから。
が、その猜疑心を彼は振り切る。今はまだ、その暖かな光を浴びていたかったのだ。
「それにしても、シャルルもよくやる――彼も忙しかったはずなのですが」
「ええ。『共和国前衛隊』……でしたっけ? あの組織の立て直しに躍起になっていたそうですよ」
「ああ、そういえば長官を罷免していましたね」僕の目の前で。「しかし、立て直しですか」
ナルシスは、しかし実のところ、それを知っていた。イカロスの所属が変わったという話は聞いていなかったし、そこから大凡推定はつくのだ。
「ナルシスさんとスズナさんは誤認逮捕された張本人ですものね。心中穏やかではないでしょうが……でも『共和国前衛隊』は過激派を取り締まるための組織ですから、なくてはならないということでしょうね」
「ですが、超法規的なのは困ります。僕はともかく、スズナはかなり厳しい尋問を受けたと聞いています。誤認逮捕だったというのに、酷い目に遭わされていたのですから」
「ええ、シャルル様はまさにそこを気にされているみたいです。本当は潰すぐらいのお気持ちだったようです。でも、行政官の皆様はそのぐらいの権限はあって然るべきだという考えのようで……なくすまではいかないようですよ?」
ナルシスは少し憮然とした様子を演じた。この証言が真実だとすれば、それは彼らに取って危険なことだ、という本心を隠して――彼の脳裏には、自らが敗北したあの同時多発演説事件の記憶があった。全くの警告なしにガス弾やゴム弾を使ってくるような強力にして凶悪な部隊である。首輪がつけば安心というものではない――あるいは、そうナルシスが思うからこそ、残されているのかもしれないが。
「しかし、ナルシスさん。」いずれにしてもエーコは、その演技を信じた。「ダイモンはともかく、近頃は彼に触発された自由恋愛主義者が跳梁跋扈していると聞きます。その対策は必要でしょう」
「ええ、それはそうでしょうね――対策はどうあれ、物騒な世の中になったという事実は変わらない」
「ええ、自由恋愛など、旧時代の宿痾に過ぎないというのに――人類がようやく次の段階に移行したというのに、どうしてああも求めるというのでしょうか? 私には理解ができない……」
――それは、好意対象者と好き合うことのできる人の意見だ。
ナルシスは、その言葉を前にして、この言葉を胸に秘めて、表情を変えないようにするのに苦労した。彼女の言った言葉は、自分がやはり彼女の視界に真の意味で入っているわけではないという意味だったし、それに対する自分の考えはそれを追認してしまっていた。その無意識な残酷さに、ナルシスは翻弄された。ぎゅう、と握った手を、そっと背中に回して隠した。
「……ところでナルシスさんは」しかし、そこで彼女は逸らしていた視線を不意に合わせた。「この夏は、何かご予定あるんですか?」
落ち込んでいたところに青い目に急に射止められて、ナルシスは一瞬しどろもどろになった。その視線の意図を掴みかねたのだ――というのは建前で、ただその丸さと大きさにどきどきしただけだ。
「ありま、せんけども」
「それならよかった。もしよかったらですけど、旅行にでも行きませんか? 丁度誰かについてきてもらいたくって」
世界が静止した。
鳥のさえずりは音の彼方。
車のエンジン音もタイヤがアスファルトを切りつける音も、街の雑踏も全て立ち消えになって、駅のアナウンスは言葉を失って立ち尽くす。ならば電車そのものも歩みを止め、その足音は沈黙という季節外れの雪に埋もれてしまう。夏の日差しすら一時は戸惑いを隠せずに右往左往して、熱さも暑さも襲い掛かるのを躊躇して竦んだ、
「? ……ナルシスさん?」
かのように固まったナルシスにエーコは首を傾げて、彼の顔を覗き込んだ。そのとき止まっていた拍動が再開したように、ナルシスの世界は色づきを取り戻して、あれやこれやの音も景色も元の通りに動き始める。
「それは、」そのバクバクとした音を本当は隠したかった。「一緒に旅行に行く、という意味でしょうか?」
「はい、そうですが……」
「僕と、アナタが……旅行に?」
「そうですよ? それが何か……?」
何か、というレベルではない。それは事件だと言えた。降って湧いたただの幸運と呼ぶにはあまりに巨大だった。
確かに、エーコから遊びに誘われるのはそれほど珍しいこととは言えない。中等部時代にしろ初等部時代にしろ、彼女は誰かを募って遊ぶのが好きだった。お泊り会だって一度や二度ではない。
エーコはどこかで寂しがりなのか、あるいは単に人といる方が楽しいという人間なのか――とにかく、ナルシスもその勧誘の対象となっていて、それにしばしば世話になっていた。
しかし、今度はただの遊びの誘いではない。
旅行である。
単なる、お泊りではない――ここやそこやあそこではないどこかという非日常が待っているわけである。見たこともない体験を前にして、彼女が一体どういう表情をするだろうかという興奮があった。
何より彼を掻き立てたのは、二人きりだという事実だ――前述の通り、彼女は誘いたがりの人間だ。そうであるからには、いつも誰か別の人間が彼女の傍にいて、ナルシスはもどかしい思いをすることを強いられていた。
が、今度はそうではないのである。
想いを告げることはできないまでも――少なからぬ時間を、一緒にいることができる。
それだけで充分だった。
「あの、ナルシスさ――」
「行きます」ナルシスは、ぐいとエーコに近づいた。「絶対に」
「え、ええ……?」
「何人たりとも私がアナタ様と旅行に行くことを妨げられはしません。たとえ明日世界が滅びてしまうとしても、たとえ世界中の人間が私を捕らえてそうさせまいとしても、私はアナタ様と旅に出ることでしょう。全ては姫君のためにあるべきでありますから」
「そ、そうですか……取り敢えず、その、肩から手を離していただけると……」
ナルシスは、そのとき初めて、エーコのそこをがっちりと掴んでいたことに気がついた。し、失礼しました、と自分の自制心のなさに戸惑いながら言いつつ、彼はすぐさま距離を取る。
「あまりの出来事に、自分自身を抑えきれませんでした。どうかご容赦いただきたく」
「えっと、いえ……と、とにかく、一緒に来てくださるってことでいいのですよね。ナルシスさんがこんなに旅行好きだったとは初めて知りましたけれども」
「…………」ナルシスは、その言葉に何も言わない努力をした。「ええ、そうなんです。なかなか行けるものでもないですが」
「それならよかった。」そのとき、チャイムが鳴り響いた。そろそろ、教師がやってくる頃だろう。「あ……それでは、詳細は後で伝えます。それでは」
「ええ、ではまた後で――」
それから、彼女は踵を返して小走りで去っていく。その小さい背中を見て、ナルシスは胸の内が燃え上がるようだった。
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