第22話 リブート
ナルシスは定刻通りに起床した。それから姿見の前を通り過ぎて、クローゼットへアクセスする。そこで制服に着替えて、リビングに降りた。
「おはよう! 兄上!」
ドアを開けて、努めて大声で挨拶をする。兄はやはりもう食事を済ませていた。が、その卓上にコーヒーはない。それどころか反応を見せずに口を横に引き結んでいる。
「……兄上?」
「ん、ああ、」覗き込むようにするとイカロスはようやく反応した。「おはよう、ナルシス。……」
が、そう言ったきり、また口を噤む。その様子にナルシスは何も言わない。朝食を片付けなければならないからだ。とはいえ沈黙の中では食べづらかったのでテレビをつける。朝の時間と言えばニュースだ――
「待て、ナルシス」イカロスはそのとき顔を上げた。「やめろ」
「何故だい? さっきから変だよ」
キャスターは何てことはないニュースを読み上げている。まるで昨日何もなかったかのように。奇妙な歪みがそこにあった。
「では、次のニュースです」しかしその歪みは、あっさり崩れる。「昨夜、シンジュク駅近郊で起きた事件に関わったとして、十代の女が逮捕されました。逮捕されたのは――」
「消すんだナルシス」
スズナ・ルーヴェスシュタット。
名前が読み上げられると同時に、顔写真まで映し出された。実名が出るのは、自由恋愛主義者に対しては少年法が適用されないから。つまり言い逃れの余地もなく、逮捕されたのは彼女だったということだ。
「……だから、言ったんだ!」イカロスは急に立ち上がった。「ナルシス、落ち着いて聞いてくれ。これは事実だ、残念ながら。昨日演説事件があって――それで逮捕したと聞いている。本人は否定しているが、状況証拠からすれば彼女が事件に関与していたのは間違いない。お前にとっては酷なことだろうが――」
「――何がだい?」
イカロスは面食らった。目の前にある済んだ瞳からは理解したのかしていないのか読み取れなかった。何もそこにはない。部屋の照明とテレビ画面の反射だけが表面にあって邪魔だった。
「ナルシス、まだ分かっていないのか。アレはお前の好意対象者で――」
「分かっている。分かった上で、分からないんだ、兄上が何を言っているのか」
ナルシスはもうほとんど食べ終わっていた。最後の一口を放り込んで、噛んで飲み込んで、それから言った。
「だって彼女は自由恋愛主義者だったわけだろう。ならもう逮捕時点で好意対象者じゃないよ。ああ、正確には有罪になってからだけど、相応の証拠があるからそうなったのは、兄上が言った通りなのだろう? なら信じるよ」
――あのときと同じだ。
そのときイカロスには思い返すものがあった。両親が死んだ瞬間の彼と、今の彼は似ている。丸っきり自分の殻に籠って、それらに愛着がないかのように振舞うのだ。感傷ごと、対象を切り離すというか――切り替える。だがそれは無理なのだ。手首を怪我したからと腕を切り落とすような行為が、健康的と言えるはずがない。しかもこの場合怪我したのは頭なのだ。首を斬り落とせば――その先を言う必要があるだろうか?
「ナルシス」イカロスには、だから、何も言えなかった。「その――不埒なことは考えるなよ。いつだって、僕はお前の味方だ。だから、何もかも滅茶苦茶にしてしまう前に、まずは何か相談してくれ」
「? よく分からないが……分かっているよ。それじゃあ、準備したら出発するけど?」
「ああ――行ってらっしゃい。片付けはやっておく」
「うん、お願いするよ」
ナルシスはそう言って席を立つ。荷物を取りに階段を上り、自分の部屋へ――行き、ドアを閉めて、
「――――」
無表情。彼は既に能力を使用していた。それは――単に、外に出る準備の一環だった。しかしそれはほとんど無意識に行われた。鞄を持って外に出るぐらい意識的に、それでいてその間の呼吸ぐらい無意識に。
(だが、必要なことだ。)ナルシスは、しかし外に出ながら、溜息を吐く。(初恋革命党からすれば、僕はお尋ね者だ。学園に着くまで能力を使い続けなければならないじゃないか。全く、厄介なことになった――)
学園に来ることが分かっている彼らにとって待ち伏せは容易だ。その周辺に党員をバラまいて、それらしい人間を見つけ次第、囲んでしまえばよい。通学路には見通しの悪いところや人通りの少ないところも少なからずあるから、それは容易だろう。逆に、学園の中では彼らは手が出せない。学園の警備体制は万全だからだ。
尤も、彼らが全滅するのはそう遠くないことだろうけれど――とナルシスは独り言ちる。それはそうだ、ナルシスが全力を尽くして勝てない相手に、あの烏合の衆が勝てるとは思えない。またぞろ、救出のために兵力を動かして、待ち受けている敵に突っ込んでいくことだろう。それが滅びの道だと知りながら。
(だがもう僕には関係ない――縁を切らねばならない。そうしなければ僕まで逮捕される。それは勘弁だ)
一番の恐怖は、捕らえられた彼らがナルシスを告発することだが――証拠は何もないはずだ。移動時には能力を使っていたし、それは自宅に帰るときまで継続していた。兄すら、いつの間にか帰ってきているという認識でいたはずだ。そう簡単に捕まることはあるまい。
(その点、スズナがバラすのも心配だが――彼女は、口を割るまい。死ぬまで――)
ナルシスは、そう思いかけて、すぐに止めた。それが何故かは分からなかった。
あるいは、学園に着いたから、考える必要がなくなったから、か――ナルシスは雑踏の中に紛れるのを止めて、ナルシスとして歩き出した。もう後戻りはできないのだ。アレは一度の過ちとして、忘れるしかない。
「あら、」その声は、教室に入るためドアノブに手をかけた瞬間に聞こえた。「ナルシス……さん?」
「我が姫君! 気づきませんで申し訳ありませんでした」
笑顔で振り返る。努めてそうしたつもりだった。そうして、演技がかった礼を一つする。これで全ていつも通り。
が、エーコの表情は優れなかった。それがナルシスを不安にさせた。
「……? どうしました、姫様?」
「いえ……その、大丈夫ですか?」
「報道をご覧になったのですね」
「ええ……それで、ナルシスさんが落ち込んでいるのではないかと思いまして」
「落ち込んでいる? どうして?」
「だって、いつも一緒にいたでしょう。帰り道さえ一緒で……」
他人から見ると、そう見えるのか、とナルシスは少しだけ反省した。もしかすればそれを元に告発されるかもしれない、と一瞬怯えたが、好意対象者同士だと言い逃れることに決めた。
「何もありませんよ。彼女は自由恋愛主義者だった。それだけのことです」
「それは……その、」
「私は自由恋愛主義者に恋をするとでも? 冗談ではない。もう再割り当ての準備もしていますよ。ご心配なく……」
「ですからそれは、」エーコは、ぎゅうと拳を握り締めた。「アナタらしくない、と言っているのです」
それは彼女にしては大きな声で、珍しい態度だった。いつだって優しい彼女がそうしたのは、最近ではスズナがナルシスを文字通り吊るし上げたときだけだ。
しかし、それで終わらない。
彼女はつかりと一歩距離を詰めると、彼女の細腕を振るった。
「ッ」頬を叩かれた、と気づくのは遅れた。「エーコさん……?」
「無礼をお詫びします。でも私には我慢ならない。いつものアナタなら絶対に言わないことをアナタは言った。人が死ぬかどうかのときに、そんな冷たいことを言うなんて……!」
「死ぬかもしれない――?」
ナルシスがそう聞き返すと、エーコははっとして視線を逸らした。それは逡巡――一瞬のそれの後、辺りを見回して、聞くなという視線で遠ざけてから、耳打ちした。
「彼女は、殺されるでしょう」
「⁉ まだ有罪になったとは聞いていませんが……?」
「あくまで、デ・ラ・フスティシア家にいる友人から聞いた話ですが……どうやら、『共和国前衛隊』の指揮官は、彼らを介さない決着を望んでいるそうなのです。彼らの持つ捜査機関が掴みました。恐らく、利用価値がなくなったら処分するつもりなのでしょう。移送中の事故を装って」
「そんな――」
ナルシスは、胃の辺りに締め付けられる思いがした。彼女が死ぬ? いや、予想はついていた。恐らく、死刑にはなるだろうと。武力行使はほとんどしていないとはいえ、これだけ社会を揺るがしたのだ。そうなるに決まっている。
だが、死刑にすらならない。
なるかどうかの審理すら受けられないというのは、ダメだ。
そんなものは、自由でも平等でも平和でもない。ナルシスの理想に反している。
そんな死に方をさせるつもりになっていた自分が、何より受け入れられない。
「どうにか、止められないのですか。アナタ様の力なら、それが可能ではないのですか」
ナルシスは、エーコに縋る。両肩を掴んで、跪く。彼女は一瞬たじろいだが、すぐに下唇を噛んで、視線を逸らすばかりだった。
「エーコ様ッ」
「ごめんなさい――私には、何もできない。デ・ラ・フスティシア家にすら、何もできていないのです。門外漢のノ・オオクラ家の、更にその継承者に過ぎない私には尚更――」
「なら、せめてシャルルに取り次いでください! 彼は今どこに? ご一緒ではないのですか?」
ドアの窓から、教室の中を見る――が彼はいない。まだ登校してきていないのか――あるいは。
「ごめんなさい。私からも連絡しているのですが――恐らく、公務かと」
――策略だ。
そうナルシスは直感した。シャルルの平生の感覚からすれば、このような卑怯な手は好むまいし知ったら阻止する。だから、「処分」するまでの時間、別の仕事を割り振って多忙にしておこうというのだろう。
だが、その先にあるのは――流血だ。初恋革命党員と『共和国前衛隊』員の武力衝突。結果は火を見るよりも明らかであろう。が、双方に被害が出る。
それを止められるのは、自分だけだ。
「姫様」ナルシスは、立ち上がる。「今日は休みます」
「は、はい?」
「自分は、何としてもそれを止めなければならないのです。故に、学園にいる時間はない――先生にはそうお伝えいただけますか」
「わ、分かりました――あの、」
「ありがとう。行ってきます!」
返事も聞かずに、走り出す。どこへ行くべきかは、それから考えることだった。
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