第2話 朝食、超ショック
朝というものが憂鬱に感じるようになったのは、つい先週からのことだった。
鳥のさえずりにも似た、いやそんなことはない国民携帯端末のスピーカーから流れるアラームの不愉快な電子音を、ナルシスは寝ぼけ眼で捉えたその画面上のアイコンをタップすることで鳴り止ませる。
それから、画面の中央に出る時刻表示を見る――七時一五分。確か七時にセットしていたはずだったのだが、疲れからか、最初のアラームは寝過ごしてしまったらしい。確かに、昨日最後に時計を見たときには既に夜中の二時であった。都合五時間ほどしか寝ていない――そう思うとこの頭と体の重さにも納得がいこうというものだ。
「…………」
が、納得がいったからといって動きたいかどうかはまた話が別だった――とはいえ、それはもちろん、動かねばならないかどうかも、だ。ナルシスは、一トンはあるように感じられる心と体を引きずって何とかベッドという眠気の水面から自らを掬い起こすと、鏡の前に立つ。
その脇に置かれた姿見には、やや筋肉質ながらさりとてその結果一六五センチメートルの身長において理想的な体のアウトラインを損なうほどではない彼の肉体が惜しげもなく映されていた――彼は眠るときに何も着ない人間であった、故にそれが露になっていたのは意図的なものであった。
が、彼はその自らの姿を見ようともしない――それは、目の下にクマがあってみすぼらしいから、とか、ここ最近引きこもってばかりいるから自慢の肉体美が若干損なわれているから、とか、そういうことではなかった。
そういういつもの彼らしい理由は、すっかり鳴りを潜めてしまっていた。
だから彼は、姿見の向こうにあるクローゼットへ一直線に向かった。その扉を無造作に開けると、中から収納ケースに入った下着の上下とハンガーにかかった制服たちを取り出す。いつもなら五分とかからない着替えにもどういうわけか時間がかかった。まるでボタン一つ一つが反乱しているようだった。従順になったかと思えば掛け違えている有様だった。
「ナルシス? 起きているか?」
そうして手間取っていると、単純に寝坊していると思ったのか、兄のイカロスが扉の向こうから声をかけてきた。ナルシスは瞬間的に苛立ち、しかしその原因は兄ではないことを知っていたからそれを治めて、放っておいてほしい内心を隠しながら答えた。
「大丈夫だよ、兄上。ついさっき起きたばかりだが、既に着替え終わるところだ。ところで僕の心配をしている場合なのかな、兄上は? 今日も仕事だろう?」
「ああ、だからそろそろ出ようかと思っていたんだけど、それなのにお前が起きてこないから何かあったのかと思ってな。準備が終わっているならいい。先に行くぞ」
「待って――」ナルシスはブレザーの一番下のボタンを締め終わると、急ぎ部屋から出た。「今、終わった。それで、朝食のメニューは何かな?」
「スクランブルエッグだが――少し待て」
イカロスは取り急ぎ出て来た弟のブレザーの襟元が裏返っているのを見つけると、それを直した。
「これでよし――全く、折角あんな大きな姿見があるのに、どうして気づかないかね」
「…………」ナルシスは、そのとき最初に浮かんだ言葉を飲み込んだ。「別に、後ろ側だったからね。それに、実のところ時間の余裕があるわけでもない。早く降りよう兄上。お互い急いだ方がいいのだろう?」
そうだった、と呟きながら階段を下りるイカロスの後ろをついていくと、リビングの方から朗らかな油と卵の匂いがする。素朴な朝の香り。それを嗅いでしまえば、いくらささくれだったナルシスの心理といえども幾何かは高揚せずにはいられなかった。
「あ、」それでいて、ナルシスは目敏くもあった。「兄上、上着を忘れている」
そう言って、彼は素早くリビングに入り込むと、イカロスの席にかけてあった白い詰襟を手に取って追ってきた兄に手渡した。
「ほら」
「おお、悪いなナルシス。よく気づいた」
「だって、これがなくしては国民団結局の職員さんは務まらないでしょう? 『自由・平等・平和』という明白な『原則』を維持するのが仕事だというのに、その象徴たる制服を忘れたのでは格好がつかない」
「全くその通りだ。気を付けるよ」
そう言いながらイカロスは受け取った制服に袖を通すと、テーブルの上に置いてあった自分の鞄を取ろうとした。が、その勢いが余ったのか、鞄は彼の指を弾いて一瞬奥に行き、そこに置いてあった写真立てを倒してしまう。イカロスはおっと、と言いながらそれを立て直す。
そこに写っているのは家族写真だ。両親とナルシス、そしてイカロスの隣にはもう一人女性がいる。撮られたのは五年前。日付はともかくその年数は間違いない。
何故ならこの場にいる二人以外は、既にこの世の人間でないから。
一度に死んだ。
殺されたのだ。
「それじゃ、行ってくるよナルシス。」その事実は一瞬イカロスの顔に影を落としたが、彼は何もせぬままにすぐそれを拭う。「食べ終わったら皿洗っとくんだぞ」
「分かってるよ、兄上」
「そう言って、こないだテーブルに置きっぱなしだったのは誰だ? 時間がなくても、せめて流しには入れとけ。それで帰ってきたら洗うこと。分かったな?」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
そう返事をしながら、ナルシスは食パンを一切れ袋から出してトースターに入れていた。が、ダイヤルを回して焼き時間を決める内心は、それがどのような焼き加減であろうがどうでもよかった。ようやく兄が出掛ける様子を見せているのだ、ナルシスは早く一人になりたかった。だからもう朝の準備に取り掛かっているから邪魔をするなという雰囲気を努めて出そうとした。
「あ、そうだ――」が、一度は背を向けてリビングを出た兄は、ふと立ち止まって振り返った。「こないだの話なんだが」
それに射竦められたように、ナルシスは丁度自分の席に行こうとしていたその動きを止める。
「…………」
目は合わせない。合わせられない。耐えられないから。
「上司に掛け合ってみたんだが、」そして、イカロスはナルシスの予想通りの言葉を発する。「やっぱり厳しそうだ。今の僕の成績じゃ、とても昇進させられないって……そういうことだから」
「…………」何故、今、という言葉をぐっとナルシスは飲み込む。「そうですか」
「ごめん、僕が不甲斐ないばっかりに」
「いいんだ。兄上が悪いわけではない。僕がワガママを言い過ぎただけだ。いつものように、兄上に甘えただけだ。それが叶えられなかったとしても、それは僕の責任だよ」
「……」ナルシスの耳朶の向こうで、イカロスが踵を返す。「すまない」
ドアが閉められる。パタン、という音の後に続いて足音と玄関のドアの開閉音。それは遠ざかって消えていく。恐らくどれほど追いかけてももう届かない。
そんな感覚が、ナルシスにはした。
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