第18話 「共和国前衛隊」
『聖母』週間最終日。
ナルシスはぱっちりと目を覚ますと、階下へ降りて行った。既に朝食の香気が階段にまで伝わってくる。恐らくソーセージを焼いただろう。昨日特売で安かったと言っていた。
「おはよう兄上。今日も早いんだね」
「早いのはそっちもだろう? おはようナルシス」
そうイカロスと挨拶を交わすと、やはり皿にはソーセージが盛られていた。例の如く食パンを手に取ったナルシスはそれをトースターに突っ込んでから――違和感に気づく。
「しかし、今日は祝日だよ? 何故制服を着ているんだい兄上?」
「緊急招集でね。休日返上というわけだ」
「そりゃ大変だけれど、何かあったかい?」
そうナルシスが言いながらソーセージを一口食べると、イカロスは怪訝そうな顔をして彼の方を見た。
「? 何だい?」
「知らないのか? 例の仮面の男――ダイモン・オブ・ソクラテス=サン・マルクスだよ。犯行予告があってね」
その名前を聞いて、ナルシスの寝ぼけた頭はようやく目覚めた。そうだった。予告状は今日送信されることになっていた。当然、国民団結局は動くはずである。ぼうっとしすぎた。
「ん? ああ、聞いたことがある名前だ」が、ナルシスは何も知らないフリをしなければならなかった。「しかし犯行予告? やり方を変えたのかな」
「そうみたいだ。前はコソコソ逃げ回るような方法しかしなかったのに、おかげで迷惑しているよ。こっちはただでさえ上司が変わったのに……」
「上司が変わった?」それは初耳だった。「本当かい?」
「そうなんだ。正確には上司の上司のそのまた上司の……とにかく滅茶苦茶上にいる人だけど。今日はその面接でね……」
緊急招集、と言っていたが、どうやら初恋革命党のあれこれとはまた別らしい。そのことにナルシスは安堵しつつ――それがどういう意味なのか彼は気づかなかった――しかしそれでも残った疑問を聞いた。
「そんな遠くなのに、面接を?」
「うん、何か今までと違うことをしようってことらしいけど……よくは知らないし、知っていたとしても言えないな。機密だと思う」
――今までと違うこと?
ナルシスは一瞬疑問に思ったが、すぐに推測通りの動きをしているのだと理解できた。臨時の統合司令部と機動部隊を作るのだろう。それで人員が必要――か。
「もしかして昇進だったりして。大抜擢だったり」
「ははは、ナルシス、それだけはないよ。僕の成績は平凡以下だ。この間も国民団結局の連中を逃がしてしまった。クビならあり得るかもしれないが……ね」
そう言うと、イカロスはマグカップに入ったコーヒーを飲み干して立ち上がる。それから手に持ったそれを流しに入れると、時計が鳴った。七時丁度である。
「おっと、もうこんな時間か。そろそろ行かないと」
「クビにならないよう祈っているよ」
「ははは、そうだな、行ってきます」
ナルシスに手を振られながら、イカロスはカバンを持って出発した。面接会場の本庁舎までは電車で一時間程度かかる。通勤ラッシュでないだけマシ――と思いながらも、同じく国民団結局の制服を着ている人影が多いことに若干緊張した。到着して面接を受ければ、彼らの内の誰かを蹴落とし、あるいは誰かに蹴落とされることになる。
(……クビは困るなあ)イカロスは、ふと、襟首の辺りを触った。(ナルシスを養えなくなる。職探しは苦手だし、円満退職ならともかく免職は世間体が悪い。それに……)
イカロスはぎゅ、と襟を掴んだ。絶対に、この面接で悪印象を与えるわけにはいかない。
決意と共に地下鉄の本庁舎前駅で降りる。受付に案内された部屋の前には、既に何人かの受験者たちがいた。空席があるのでどういうことかと思うと、どうやら名前順に並んでいるらしい。面接の順番は四人目だった。廊下で待つこと数十分――前の受験者が出ると、中から呼ばれた。
「イカロス・ポンペイア五中職、入ります」
緊張と共にドアを開けると、机を挟んだ向こう側に初老の男は座っていた。その顔には見覚えがあった。訓練学校時代の教科書に載っていたセバスティアーノ・コルシカン一上職だ──「大反動」を鎮圧した英雄。引退したと聞いていたが……しかし本物らしかった、思わず、敬礼にも力が入った。
「そう緊張せずともいい。まずはかけたまえ」
そう促されてようやく、イカロスは自分の椅子の存在を見出した。慌てたように座ろうとして、それがもう採点対象になっているのではないかという気がして、挙動不審になった挙句音を立てて座るハメになった。
「……失礼しました」
「別に作法のことはどうでもいい。採点はあくまで受け答え次第だ。気にすることはない」
「は……」
とはいうものの、目の前でペンを走らされると、それはそれで不安になるのが人情というものだった。若干の震えを上手く隠しながら、イカロスは姿勢を正した。
「それでポンペイア五中職。君の成績は拝見させてもらった」
「お恥ずかしい限りで、申し訳ありません」
「報告書通りなら、君の能力はかなり低いと言わざるを得ない。連中――初恋革命党とやり合った経験を持ちながら結局逮捕はできておらず、逃げ切られたと」
「は。弁解の余地もありません。処分は覚悟しております」
「が、」セバスティアーノは、しかし、にこやかに笑った。「アレは君の責任ではない」
「は……?」イカロスには、その理由が理解できなかった。「しかし、小官は現に三回連中を取り逃がしております。もう少し通報を受けてからの現着が早ければ、あるいは」
「連中の作戦からして、そこまで追いつける時点で君は優秀だし、それでも追いつかせない上層部は無能だ。既に君の直属の上司は左遷したよ。彼はことここに至っては能力不足だ」
まるで今日の朝の出来事を語るような気軽さで上司が罷免されていた。そのことにイカロスは若干恐れを抱いた。それを可能にする権限を、彼は握っている。
しかし、何のために?
すると内心の疑問を捉えたかのように、セバスティアーノは言った。
「さて、君をここに呼びつけたのは他でもない。初恋革命党の演説予告についてだ。彼らの言う通りならば、シンジュク、イケブクロ、シブヤ、トウキョウ――首都環状線の主要駅のいずれかにおいて演説を行うそうだ。教本通りならば、これに対して中央に自由に動かせる予備を持ち、状況に応じて投入する、というのが答えになるだろう」
「そうでありましょうな。しかし……」
「君の懸念する通りだ。これは、敵の予想する最も適切な対応ということになる。何かしらその裏を掻いてくるに違いない。とすれば単なる予備では足らないということになる」
求めるべきは数ではなく質。
選抜された優秀者のみを配置し、ありとあらゆる状況に対して臨機応変に応じる必要がある。
「私はこれを『共和国前衛隊』と呼ぶことにする――必要とあらば、全国どこへでも出動する特殊チームだ。私がその司令長官の座を拝命した。そして君を参謀の一人として採用したいと思っている」
「それは、光栄なことですが……コルシカン長官。私はまだ五中職です。訓練学校を出たばかりの人間ですよ?」
「それならば心配いらない。私が昇進させた。明日付で君は一等中級職員になる。給料等級もそれに応じて上昇する。君の心配している弟君のことは、これで解決というわけだ」
最後の一言――それにイカロスはぴく、と眉を震わせた。どこでそれを聞いたのかは恐らく同僚や上司にでも聞いたのだろう。あるいは昇給申請や昇進試験の履歴を見たに違いない。
「…………同情からですか、それは」
ふと、そんな考えが思い浮かぶ。その視線は幾度となく他人から掛けられてきたものだった。が、それらが掛けられる側の心理を考えて掛けられることはなかった。役に立ったことも、ない。彼らは結局、両親の遺産が欲しかったのだ、数少ないそれらが。
「いや違う。」が、セバスティアーノの視線は、また違うものだった。「君がここまで来られたのは君の実力からだ。多少なりと、私の独断と偏見はあるがね」
「独断? 偏見?」
「私の考えでは、国民団結局の職員になるには単なる訓練学校の教育では不完全だ。本来、我々は共和国民たる『市民』の団結を阻害する思想を粉砕する組織である。故に、思想に対しては思想を以て応えるべきである。それがどうだ、今や給料の高さに目が眩んだゴロツキ紛いの人間すら入り込んでいる。彼らには思想も何もない。ただ地位と金銭だけがその求むるところだ――だが、君は違う」
「大反動」。
多くの人々が自由恋愛主義者によって殺されたあの日――君は好意対象者を亡くしている。
「…………」
「すまないがこの面接に当たって調べさせてもらった。再割り当ての申請もしていない――君にとって、彼女はとても大切だったと見える。そうだろう?」
「……はい」
イカロスは瞼を閉じる。するといつだってそれは思い浮かぶ。浅黒い肌。黒い髪。そして蠱惑のアーモンド・アイ。その下に並ぶ雀斑も忘れてはいない。それに混じる涙ぼくろだって。
「未だに、夢に見ます――銃で撃たれた彼女が、段々と意識を薄れさせて、死んでいく様を。白いワンピースが真っ赤に染まって、どこが傷口だか分からなくって、安全なところに引きずったときにはもう、手遅れで」
「ポンペイア君……」セバスティアーノは目頭を押さえながら、言った。「私もそうだ。」
「! ……長官殿もでありますか」
「丁度、今の君の年頃にね。当時私は四中職だった。ある自由恋愛主義組織へ潜入捜査をしていたんだ。だが私も若かった。脇が甘かったんだよ。身元がバレ、私は無事だったが、見せしめとして彼女は殺された。遺体は自宅の前に捨てられていたよ――私は嘆いた。自分の弱さ。自分の未熟さ。嘆いて、嘆いて――一頻り嘆いた後、私は誓った。この世から自由恋愛主義者を全て消し去ると」
「長官殿……」
「君も同じはずだ――その目には、私と同じ火が灯っている。そう私は感じる。それは金や名誉や地位では動かない信頼となる。それはどれほど高い能力でも兌換できない――だから私は君を登用しようと考えている。応えてくれるな?」
ニコリ、と笑い、セバスティアーノは立ち上がって手を差し伸べる。その手はごつごつしているが、暖かそうに見えた。その温度が心の温度に反比例するなどまやかしだ。きっと彼の言う瞳の火が、心の火が、そこに乗り移っているに違いない。
「もちろん――全身全霊をかけて」
そして、それはやはり暖かかった。両手で握り込む。自らの火とそれは同調し、炎となる。
自由恋愛主義者を焼き殺す、復讐の炎に。
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