第10話 ビギニング
――首根っこを掴まれ、文字通り締め上げられるナルシス。
それは当然のことだった。美的感覚の鋭く尖ったナルシスにとってはともかく、初対面の人間に美しくないなどという否定を山のようにぶつければ少なからず反撃が飛んでくるものだ。
彼の失策は、そうなることを予期しないばかりか、その場合致死的ですらあるスズナに対してその舌鋒を真っ直ぐぶつけることを選んだことだ。そのせいで、周囲の生徒すら、それに介入できない。
『お、おやめなさい!』
傍にいたエーコは勇気を振り絞り、金切り声を上げナルシスを下せと命令するが、スズナは全く聞かない。聞く必要はないのだ、この女は『内閣』家の生まれ。つまり敵だ。殺してもいいが、ノ・オオクラ家は今落ち目で、大した効果は見込めない。それにコイツ個人は何の役職もまだ有していない。殺すにしても誘拐するにしても、もっと大物を狙うべきだ。
そう、例えば――
『これは、』今、必然的に生じた人混みの中から抜け出してきた彼のような。『どうしたのかな?』
シャルル・オブ・プレジデント・キャビネッツ。
しかしスズナは、そのとき彼の甘いマスクにもとろけるような声色にも、少しも動かされなかった。むしろそれらは減点対象であった。それは彼女にとっては現状を肯定して甘ったれてだらけているということなのだから。
『どうもしない。コイツが俺を馬鹿にしたからシメてたらこの女が勝手に出しゃばってきただけのことだ。お前の邪魔をして悪いが、邪魔って意味ならお互い様だろうが?』
さっさと失せろ、と直接言わなかったのは、同じく人混みの中から抜け出てきたお付きの人間が過剰反応するのを嫌ったからだ。一人は懐に手を隠し、もう一人はどこかへ連絡しようとしている。一応バッグの中に拳銃はあるが――かといってここで今すぐ事を構えるのは得策ではない。そう彼女は判断した。
少なくとも、そのときまでは。
『だが――』近寄ってくる護衛を無言の内に手で制しながらシャルルは言った。『君が今吊るし上げている彼は僕の友人だし、それを庇っている彼女もまた同じだ。とすればこれは僕の問題だと思うのだけれど』
『おいおいおい、テメーさっきの説明聞いてたか? それとも理解できないほど頭脳がマヌケか? 因果関係が逆だぜ。コイツが俺に喧嘩を売ったんだ――そして俺はそれを買った。以上!』
『しかし僕は、』
『第一、俺はテメー自身がそもそも気に入らねー。コイツらがテメーの知り合いだと知ってて俺が戦争おっ始めたと思ってたのが気に入らねー。そういうとこ自意識過剰なんだよな、「内閣」家の連中ってのは。自分が世界で一番特別だと思ってて、周りの人間も同じ考えでいると思ってる。この女だってそうだ。テメーらって奴はいつだって……!』
そこまで言って、スズナはようやく少しだけ冷静になった。
というより、ヒヤリとした――流石に、口が滑った。取り囲む観衆の目つきが変わってようやく気づいたのだから遅すぎる。今の発言は、誰がどう見たって反「内閣」家的な言葉だ。場合によっては逮捕、そうでなくてもこれから先スズナは「内閣」家の人間との接触ができなくなるかもしれない。何をするにしても、それでは学園に潜り込んだ意味を失うということだ。
『……そうだね』が、シャルルはスズナの冷や汗を見つけられなかった。『確かに僕たちは恵まれた生まれ育ちをしている。そのせいで君に不満を抱かせてしまっていることは、僕たちの不徳の成すところのものだ。心からお詫びするよ、この通り……』
そう言って、彼は頭を下げる――
『⁉』
大地まで。
より正確にその動向を記述するならば、シャルルはまず膝を折り、更に手を地面に突いて、それのみならず額をそこに押し付けた。
舗装された路面とはいえそこには水溜りがまだ残っていたし、事実シャルルの足元にもかなり大きいそれがあった。
しかし、彼はそれを全く気にしない。
むしろそれがあることを好ましいとすら思っているようにすらスズナには見えた。
『な、何やってんだ、テメーは⁉』と、驚きのままにそう言って、彼女はそれから狼狽している自分に気がついて、咄嗟に取り繕おうとした。『……その程度のことで俺の気が収まると思っているのか⁉ そもそも、コイツのしたことをテメーに謝られたって困ると、俺は言ったはずだ!』
『困ってくれるのかい?』シャルルはそう言ってから目線を上げて、彼女に微笑んで答えた。『それならよかった。だとすれば君は優しい人だということだ』
『……何ッ?』
スズナは論理の飛躍によって更なる混乱に陥った。まして優しいという今まで言われたことのない単語が猶更それを助長した。
『だってそうだろう』しかし、シャルルは臆せず答えた。『君は、そこにいるナルシスがしたことの報復をしている……のだろう? 君が冷徹な女性ならば、その報復に対して僕がどのような阻止行動を取ろうとそれを完遂するはずだ。しかし君は本来計算に入れる必要のない無関係な僕の行動に困惑した。それは君が他人のそういった行動に見て見ぬふりはできない人間ということだ』
そして僕は僕で困っている、とシャルルは付け足した。
『さっきも言ったように、彼は僕の友人だ。彼より長い付き合いの人間もいくらかいるが、彼ほど僕を裏表なく信用してくれている者はそうはいない。故に、僕は彼を傷つけさせるわけにはいかないし、彼の信用に応えなければならない――つまり僕たちは、それぞれのこの行動が僕たちお互いにとって不利益であるという点で合意できるんじゃないかな?』
スズナは、チラリと、抵抗はしつつも手の中に収まっているナルシス(罵倒する直前そう名乗った)を見た。目の前で跪く男に比べてあまりにそれは矮小であるように彼女には感じられた――そして、それに対する淡々とした憎悪も、かなりの割合で小さくなっていた。この程度の男はかかずらうほどの価値もないという、普段なら安っぽく感じられてまず迎合しない論理がすんなりと頭の中に浮かんだ。そしてそのアイデアは、彼女の中にあるあらゆる判断基準の検閲をあっさり通過して、あっさり実行された。
『ゲベッ⁉』
全く美しくないカエルの断末魔のようなうめき声を上げてナルシスが地面に墜落すると、エーコがすぐさま彼の下へ駆け寄り、半分失われていた意識を取り戻させた。
『シャルル――とか言ったか?』それを横目で確認してから、スズナはそうせしめた彼の方を向いた。『一応はっきりさせておくが、俺はお前の言ったことに同意したわけじゃねー。これ以上コイツを痛めつけても何の意味もねーだろうという判断の元、俺の意思で解放してやった。それが偶然お前の利益と一致していただけだ……これで満足かな、『内閣』家の次期当主サマは?』
スズナはまだ残されていた目一杯の敵意をその言葉に込めた。最早切っ先を潰されたそれの総量自体はそれほど多くはなかったとはいえ、彼女は立場を明らかにさせておきたくなった。言いなりになったことで勝ったつもりになられたのではたまらないからだ。
しかし、それに対してシャルルはニコリと笑った。そして言った。
『ありがとう――僕は、君のその優しさを世界の誰より美しいと思うよ』
そのときスズナは、やはり面食らった。美しいなどという言葉は、彼女に対して使われたことがない。使われたとしてそれは常に否定形の対象としてである。実の親にすら、美しいとか可愛いなどとは言われたことがない。健康でありさえすればいいとか、そういう優しさだけはある誤魔化しが却って現実をはっきりさせたものだ。
だが、この男は違う。
現状を否定するおべっかでもなければ、実状を回避するお世辞でもない。
それらを見た上で、そこから美点を見出す。
文字通り美しい点を発見する。
発見してくれた――そしてそれをありありと彼女の前に差し出した。
それが理解できたとき、スズナは立ち去った。顔を見られたくなかった。どんな表情をしているのか自分自身では見えないからだ。
するとその試みは成功した――ある一点を除いて。
「あのとき僕はまだ」その一部であるナルシスは若干得意気になって言った。「まさに君の目の前にいた――だから、シャルルがああ言った瞬間の君の表情がいかなるものだったかも記憶している。尤も、あのときの僕にはそれが何であるのか分からなかったが……今ならば分かる。あれは恋だ。それ以外の何者でもない」
「そんなのテメーの匙加減じゃねーか! 勝手に人の感情を決めつけるな!」
「ではどうなのだ、『私はシャルル・オブ・プレジデントのことが嫌いです』とハッキリ言葉にして言えるのか?」
「テメー……! ぶち殺すぞ!」
スズナは銃を構え直す。絶対に外しようのない至近距離。あとたった一瞬ありさえすれば、ナルシスの脳漿は黴臭い床にぶちまけられることだろう。
「……チィッ!」
が、撃てない。
指を曲げる――たったそれだけのことが、できない。
心に想い人を思い浮かべてしまったからには。
「そう――君はシャルルの愛を通して理解したはずだ。自分の手段がもたらす結果というものがどういうものなのか。それだけじゃない。君はそのときご両親のことをも思い浮かべたはずだ。あれも、誤った手段の生み出した被害者だ。腐敗を増長させ、過剰な反応が引き出された結果、世界に取り殺された。そう理解できた君は、暴力そのものを無意識の内に嫌悪して、だから暗殺も誘拐もしなかった」
「だから何だってんだ、この……ッ……馬鹿、馬鹿たれが!」
「暴力を嫌悪する――」ナルシスは言い放つ。「その一点において、僕と君は同意ができる。取引といかないか、スズナ・ルーヴェスシュタット」
「何? 何だとッ?」
「僕が君の仲間になるのではなく――君が僕の仲間になる。僕が考えた非暴力的な手段を君と、君の組織が実行する。互いの初恋を叶えるために、世界を変えようじゃないか」
沈黙。
不意に手術を宣告された世界と同じようにスズナは凍りつき、ナルシスは向けられた銃口から何も飛び出さないことを確信したように押し黙っていた。その両者の間にあった余韻すらも消え失せると、動揺していた世界は次第に平静を取り戻したのか、それとも最初からびくともしていなかったのか、どこかの車のタイヤが古びた地下室を微かに揺らした。
「……いや、」その振動に動かされたように、スズナは口を開く。「やっぱりお前は生かしちゃおけねー」
「は?」ナルシスは突然の死刑宣告に目を見開いた。「いや何で⁉」
「馬鹿かテメーは。俺がシャルル様を好きなことはコイツらにも秘密だったんだ。そうでなくたって乙女の秘密をバラした奴はお月様にでもぶつかって死ぬべきだぜ。だが昼間だからな、代わりに俺がぶち殺してやる」
「ま、待て!」
「月に代わってお仕置きだぜ。待っていられねーな」
「アイツら――いなくなっていないか?」
あン?
スズナはふざけた時間稼ぎだと思いながらも、振り返った。彼らが彼女の命令を違えるはずはない。別段命令を変えたわけではないから、今もまだ奇妙なカタツムリの物真似をしているはずだ。何ならもう少し続けさせる必要があった、この五分間の記憶をカビやらバイ菌やらのアレコレによって消し飛ばすために。
が、彼女は見つけることができなかった。
アリグザンダーもキーンも、姿を消している。
「……あン?」
彼女が首を傾げたのは、階段の上から銃声が聞こえるまでの、ほんの一秒前だった。
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