第1話 取調室にて
薄暗い部屋で、いつの間にかスズナは眠ってしまっていたらしい。ドアの開く音がして、それで反射的に身を起こすと、椅子に固定された手足が引っかかり、既に山ほどある擦過傷の谷間を深くする。
「……いいご身分だな、ご機嫌よう」
入ってきた国民団結局の制服を着た初老の男は不愉快そうに目を細めスズナの向かいの席に座った。それから書類に目を通し、それを両者の間にある机の上に置くと、ニヤリと笑うのだった。
「よくもこんな環境で眠れるものだな。君たち自由恋愛主義者は我々一般市民より遺伝子上原始的存在だという仮説があるが、それはどうやら真であるらしい。私ならどれほど疲弊していようともこんな環境ではうとうとすることもできんよ。柔らかい布団がなくては」
「……そりゃ」スズナはまだ眠気の取れない頭を項垂れた姿勢から無理やり持ち上げて男を見下ろすようにした。身長にして二メートルに達する上目付きの鋭い彼女がそうすると、まるでライオンが崖の上から地面を睥睨するようになる。「アンタがお高く留まった『内閣』家の犬だからさ。犬小屋の中でしか寝れない奴は不憫だな? その上、どれだけ尻尾を振っても家の中に入れてもらえた試しはないんだろうが?」
「秩序の番犬たる我々にとっては、それは誇りなのだがね――雨に耐え、風と戦い、あらゆる艱難辛苦へ立ち向かう我々が小綺麗でいることは許されない。尤も、君たちの存在がなければ我々国民団結局も不要なのだが」
そう言うと、男は書類を片手に席から立ち上がり、スズナの後ろに回り込んでその記されているところのものを見えやすくした。
「これが何か分かるかね?」
「さあね、アンタの口座残高証明書か? へえ、俺にずっと付きっきりだった割に稼ぎは少ないんだな。ハハハッ」
男はスズナの後頭部を鷲掴みにするとそのまま机の上に叩きつけた。嫌な音が鼻から鳴り、そこに激痛が走る――が悲鳴は上げない。ギリ、と奥歯を噛み締めて、男を睨みつける。
「…………ッ!」
「いくら知能と知性の両方で劣る君たちといえども、読み書きぐらいは教わっているはずだ――見ての通り、君の死亡通知書だよ。君は拘留中移送時に抵抗したためやむなく射殺されることになっている。」
ほら、ここだ――と男は指差す。その上にスズナは覗き込む仕草をしてわざと鼻血を垂らしてやった。僅かな達成感の直後に横合いから拳が飛んでくる。歯が未だ折れていないのは普段の口腔ケアの為せる業か。
「そしてここからが重要だが――」その上で、男は何もなかったかのように続ける。「これが現実になるかどうかは私が権限を握っている。私がここの所長にこれが起きたことにしろと言えば彼は即座に実行するだろう。つまり君の命の灯火は私の胸先三寸で点滅できるということだ」
「……執行猶予を与えるなんて随分悠長なことを言ってるんだな。それとも腰抜けなのか? まあ偉そうなやつが一番ビビリなんてよくあることさ、気にすんなよ――」
「前にも言ったが、」男はスズナの言葉を遮って、言った。「私の使命は『聖母』の下に先人たちが作り上げてきたこの世界の秩序を守ることだ――世界大戦によって一度、欲望のままに世界を滅ぼしかけた我々咎人たる人類はその罪を繰り返してはならない。ならばそのためにどうするべきか?」
男はスズナの顔を覗き込むようにしてニヤリと笑う。出っ張った腹に似合った脂ぎった顔が加齢臭とともに近づいて、スズナを煽るようにする。
「私の考えはこうだ――そのために君たち自由恋愛主義者は殲滅されなければならない。君たちは世界の敵だ。人が誰かを深く愛することが野放図になれば、その愛する人を守るために誰かを殺さねばならない世界が来る。愛欲しさに誰かを殺して奪う世界が来る。誰かを愛するあまりそうでない誰かを愛さない世界が来る――君たちはそんな暗黒の時代へ我々を誘おうとしているのだから」
男はスズナの後頭部から手を離し、ゆっくりと席に戻る。余裕たっぷりに椅子を引き、そこに深く腰掛ける。鋭いスズナの視線がその彼を射殺そうとするが、それが視認することすら不可能の視線でしかない以上は果たせない。
「君は囮だ」それから真っすぐその彼女の反撃を、軽蔑の視線で捉えた。「私の推測では君はグループの中でも調整弁的な位置にあるようだ。彼らが取り返しに来なければ君たちの組織はまとまりを欠いて早晩自壊することになるだろう。尤も、来た場合は我々のようによく訓練された武装職員によって全員が死ぬか捕虜になって壊滅することになる。全て君が愚かにも捕らえられたせいだ。どうだ、少しは後悔しているかね」
しかし、男は口では愉快そうに言いながらも、内実は不愉快であった。確かに、自分はこの女を捕らえている。いくら国民団結局職員を素手で十人以上負傷させた怪力自慢といえども一度確保してしまえばいくらでも大人しくさせる方法はある。現に、この女の体力は限界に達している。この部屋に入るまで寝ていたというのがその証左だ――今まではその素振りすら見せなかった。
が、だというのにこの女の目はどうだ。
この爛々とした目。
大量のそばかすの上にある、ややツリ目気味のいかにも粗暴そうなそれ。
そこから炎のような光が消えないのだ。既に拘束されてから何日も経っているというのに、その結果体力も消灯しきっているというのに、だ。
(ふん、)しかし、男がその動揺を表に出すことはない。(この女の期待していることなど分かりきっている。またぞろ『あの男』が奇跡を起こすとでも思っているのだろう)
あの男。
ダイモン・オブ・ソクラテス=サン・マルクス――突如として現れた仮面姿の自由恋愛主義者。
だが、彼は。
(あの男は既に敗れた! 我々に散々に打ち負かされたのだ。だから彼女はここにいるのだし、第一ハト派の彼がどうやってここに来る? ここに来て何をすると言うのだ? ここは武装職員によって厳重に守られているというのに? ……哀れで愚かな自由恋愛主義者はこれだから困る。客観視するということができないのだな)
男は、すると憐れみすら感じた――感じてみせた。
みせた、というのは、実際には自覚がないだけであって、彼もまた焦燥感に駆られていたということだ。
ただ愚鈍であるが故に敗北を認められないというだけでは説明のつかない彼女の視線に――その奥にいる仮面の男に。
知らず知らず脅されていたのだった。
それに気づかぬ彼は、取調室を出る。それがスズナには、何かに追い立てられるように見えた。
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