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五話目

次の日─────


まだ完全に朝日が昇りきっていない薄暗い冬の朝。

私は貴光さんと一緒に千年桜の前までやって来た。


誰もいない………

ここにいないからといって櫻子姉様が無事に帰ったという保証はない。

寒空の下、どこかで倒れていたらどうしよう……



柴田さんに川沿いの道を車で見て回ってもらい、私達は河原沿いを歩くことにした。

大小の石ころが転がる足場の悪さに、私は蹴つまずいてしまった。


「ヒヨコ、危ない。」


貴光さんは転ばないように私と手を繋いでくれた。

昨日は喋りながらいつの間にか寝てしまっていた。

起きたら貴光さんの腕枕で包まれるように寝ていたので驚いた。



「まだ歩けるか?あの橋を渡って向こう岸も見てみよう。」


貴光さん……今日も仕事があるはずなのに、櫻子姉様を探すのを手伝ってくれている……



なぜ私はこの優しさにすぐに気付けなかったのだろう……

なぜ貴光さんと結婚したら、櫻子姉様は幸せになれないと決めつけてしまったんだろう……




「貴光坊ちゃま!雛子様!」



橋を渡ろうとした時に柴田さんに車から呼び止められた。


「下流で…若い女の水死体が見つかったらしいですっ……」





──────櫻子姉様っ……?!




足元が真っ暗な空洞になってぐらりと揺れた。

そのまま気を失いそうになったところを貴光さんが支えてくれた。


「ヒヨコ、しっかりしろ。確かめに行くぞ。」






下流では朝早いというのに沢山の野次馬が集まっていた。

警察はまだ到着しておらず、それは川の真ん中辺りでぷかりと浮いていた。


遠目からでも顔が膨張し、腹がパンパンに膨らんでいるのが分かった。

肌の色も抜けるように白い……


「昨日櫻子姉様が着ていた服に似てる……」

水死体というのはたった一晩であんなにも見た目が変わってしまうものなのだろうか……

頭の中がグルグル回って立ってられず、その場にへたり込んだ。


「気を強くもてっ。くそっ警察はまだかっ!」



なぜ純粋に、櫻子姉様を助けてあげようと思えなかったんだろう……

なぜ自分の保身だけを考えてしまったんだろう……



「貴光さん…私……」



私は櫻子姉様を見捨ててしまった。


あの死体が本当に櫻子姉様だったら……

とても結婚なんて出来ない。



自分だけが幸せになんかなれないっ─────




「私はもう結婚は………」

「待てヒヨコ、その先は言うなっ。今さらおまえを手放したくない!」



貴光さん………



「あれが違うのであればいいのだろっ?!」



水しぶきが跳ねる大きな音がした。

「おいっ兄ちゃん無茶だ!戻って来いっ!!」

野次馬の悲鳴とも怒号ともつかぬ声でやっとなにが起きたのかが理解出来た。

貴光さんが上着と靴を脱ぎ捨て、冷たい川に飛び込んでいったのだ。

貴光さんが川を泳いでるっ──────


「たっ、貴光さんっ!!」


私も追いかけようとしたのだけれど、足首まで川の水に浸かったところで男の人に取り押さえられてしまった。

肌が切れそうなほど冷たい……

こんな氷のように冷たい水の中に貴光さんは全身浸かっているの?!



貴光さんは浮いた死体のところまで泳ぐと帯を掴み、今度は岸に向かって泳ぎ出した。

苦しそうに吐く息は真っ白で、寒さで顔面蒼白になり、唇も紫色になっている……

なんとか岸まで近付くと、野次馬達も川に入って引き上げるのを手伝ってくれた。

ガタガタと震える貴光さんに脱ぎ捨てたジャケットをかけてあげた。



「貴光さんっお身体は?!」

「俺は良い…早く、確認しろっ。」



仰向けの状態で寝かされたそれを近くで見てみると、目を背けたくなるほどの惨たらしい状態だった。

開いたままの瞳は濁り、体の破れた箇所には甲殻類が群がり食べていた。

なにより、鼻が曲がるほどの強烈な匂いがした……



「……あなたは櫻子姉様なの?」



姿形ではもうとても誰だかわからない。


うなじにあったホクロが頭に浮かんだ。

二つ並んだ特徴的なホクロ……

あのホクロのあるうなじを見る度に、櫻子姉様ってなんて色っぽいんだろうって思った。


おっとりとしていて誰にでも優しくって……

大好きな大好きな……自慢の姉だった。



うなじを見るためには寝転がさないといけない。

腕を握るとぶよぶよとしていて、強く引っ張ったら肉が削げ落ちそうな感触がしたので止めた。

周りで見ていた何人かが堪らず嘔吐している。

私は胴体にしがみついてそっと抱き起こした。



「……どうだヒヨコ…姉なのか?」


私の目から、大粒の涙がいくつも溢れた。





その死体のうなじに……───────






「……違います…櫻子姉様じゃない……」







─────ホクロは…なかった………




















暖炉の火が燃えている……

凄く温かい…私の心に、灯火をともしてくれる。


人が死んでいるところを見たのは初めてだった。

お風呂に入ったけれども、まだあの匂いがまとわりついている気がする……



私は小説をパラパラとめくった。


浮気、不倫、略奪………

恋愛小説にはその手の話が山ほどある。

あたかもそれが真実の愛かのように描かれていたりもする。


愛し合うことを全うした、美しい死──────



でも現実は、余りにも惨たらしいものだった……




「なにを沈んでいる?姉ではなかったのだろ?」


私のあとにお風呂に入った貴光さんが出てきた。

確かにあれは別人だったけれども…結局、櫻子姉様がどこにいるのかは分からずじまいだった。



「この小説…晴彦さんから借りたものなんです。」


貴光さんは黙って私の隣に腰を下ろした。



「純愛を押し通して駆け落ちしたまでは素敵なお話だったんですけど……」

ようやく結ばれた二人に待っていたのは、お金もなく頼る人もいない惨めな生活だった。

生活に疲れた二人はギスギスし始め、喧嘩が絶えなくなる。

結婚したことで純愛は終わったのだ─────


令嬢として何不自由なく育った女は耐えきれなくなり死を選ぶ。

それを知った男もこんなはずではなかったと嘆き悲しみ、後追い自殺をする……





貴光さんが、恋愛結婚をしたいなどと夢見ていた見知らぬ私をなじりたくなる気持ちが、今なら痛いほど身に染みた……


私はなにも分かっていなかったのだ。



「俺はこんな環境で育ったせいか、結婚に対してなんの期待もしていなかった。流行りだか知らんが、恋愛至上主義だとかほざく連中がムカついて仕方がなかった。」


きっと私は、知らぬ間に貴光さんを傷付けていたんだ……



「でも今なら、お前が恋愛結婚に憧れていた気持ちがわかる……」


貴光さんが私の手をそっと握った。





「俺の結婚相手が、ヒヨコで良かった。」





優しく細める淡い灰色の瞳に、温かな暖炉の火が灯る……

その目に見つめられるだけで、心の底から幸せが溢れてくる。



私はもう……


ずっと前から貴光さんに恋してる─────




「……私もです。もう離れたくありません……」

隣に座る貴光さんに、寄り添うようにくっ付いた。





────きっとお見合いでなければ………


貴光さんを好きになることはなかった─────






「この本…返せる日が来るのでしょうか?」

「ああ…返せるさ。きっと……」



少し小さくなった炎に、貴光さんは薪をくべた。





「ヒヨコ。まだちょっと臭うな……」

「す、すいませんっ。」


俺はあとで入ると貴光さんが言い張るもんだから早く出なきゃと慌てて洗ったんだ。

それに腐敗臭というものはなかなか簡単には取れないらしい。

臭い女だなんて…貴光さんに嫌われてしまう。




「ヒヨコ。一緒に風呂に入り直すか?」





………はい?


………今、なんと?




「俺が隅々まで綺麗に洗ってやろう。」

「……貴光さん…それは結婚してからも無理です……」


「絶対に手は出さない。あくまでも純真な……」

「無理ですっ!」


「見たかったんだがな。ヒヨコの裸。」

「貴光さんっ!!」



冗談かと思ったのだけれど、本気で悔しがっている。

知らなかった…貴光さんて………







貴光さんについて分かったこと、其ノ四。


………助平。




















寒さも和らぎ、澄み渡る空の下で今日のこの良き日を迎えることが出来た。



────卒業式。


5年間も通ったのに、過ぎてしまえばあっという間だった。



「貴光さん、どこに行かれるのですか?」

「着くまで秘密だ。」


卒業式が終わり、級友たちと別れを惜しんでいると貴光さんが急かすように私を車へと押し込んだ。

もうかれこれ一時間近く車を走らせているのだけれど、一体なんなのだろう……




着いたぞと言って貴光さんと一緒に降りた場所は山間にある宿場町だった。

狭い路地に面して木造の2階建がズラリと並んでいて、その家の前には山から湧き出る水路が流れていた。

 

「これを返して来い。」


貴光さんから渡されたのは晴彦さんから借りた小説だった。まさか……

「……晴彦さんがこの町に?」

「自分の目で見て確かめて来い。」


貴光さん…晴彦さんのことを探してくれたんだ……

櫻子姉様も一緒にいるのだろうか?

私は逸る気持ちで町に向かって走り出した。




しばらくすると池のような窪みに水を貯めた場所があって、そこには集落の人が集まっていた。

それぞれ洗濯をしたり、お米をといだり、野菜を洗ったりしながら楽しげに会話をしている。


「兄ちゃん関心やねえ。よう働くねえ。」

「これ沢山畑で取れたから持っていきぃ」

「わあ立派なカブだ。いつもありがとうございます。」


女性が家事をしている中で、一人だけ男の人が混じって炊事の下ごしらえをしていた。



もしかしてあれって……





「……晴彦さんっ……」


近づいていって後ろから声をかけた。

振り向いたその顔はやっぱり晴彦さんだった。


「えっ…雛子ちゃん?すっかりお姉さんになってるから一瞬分からなかった。」

私だって直ぐには分からなかった。

最後に会った時より日焼けしているし、ずっとたくましい体付きになっている。



「小説を?返しに来てくれたんだ…わざわざありがとう。嬉しいよ。」

和やかに笑うその顔は、私がよく知る晴彦さんだった。

良かった…晴彦さん、元気そうだ。


「あのっ…晴彦さん。櫻子姉様は……?」


晴彦さんは目尻を下げて微笑むとおいでと言って歩き出した。




行き交う町の人達と気軽に挨拶を交わす晴彦さんは、もうすっかり溶け込んでいる感じだった。

やがて晴彦さんは一件の長屋に入った。

そこは路地に面したところに土間の台所がある開放的な造りだった。

掃除が行き届いていて、簡素ながらも清潔な住まいだ。


「どうぞ。遠慮なく上がって。」

奥にある座敷に案内され、履物を脱いでいたら中から声が聞こえた。


「晴彦さんお帰り~。誰かお客様?」


この声は……

晴彦さんがただいま~と言って引き戸を開けた。


「まあっ、雛ちゃん?」

「……櫻子姉様……」


櫻子姉様は嬉しそうに笑うと上半身だけ布団から起こした。

こんな昼間に寝巻き姿で布団で横になっているだなんて…どこか悪いのだろうか……



「櫻子姉様、ご病気なの?」

「こんな格好でごめんなさいね。病気…というわけではないのよ。」


櫻子姉様と晴彦さんは照れたように顔を見合わせた。

なに?

この甘ったるい空気は……




「コホン、実はね雛子ちゃん。君のお姉さんのお腹にはね、いるのだよ。そのっ…新しい命が……」





お腹にいる新しい命?……それって………


ええ───────っ!!



「櫻子姉様っ赤ちゃんなの?!赤ちゃんが出来たのねっ!」

「そうなの。随分マシにはなったのだけど、つわりがひどくて。」


櫻子姉様、顔が真っ赤だ。

そっか……二人の間に子供が………



そっかあ……──────


二人は私が願ってた以上に、幸せに暮らしてたんだあ……






「そうだっ私雛ちゃんに渡したいものがあったの。」



櫻子姉様がよいしょと立ち上がろうとしたら、晴彦さんが僕が取ってくるからと言って代わりにタンスの引き出しを開けた。

それは櫻子姉様がいつも頭に付けていた一番お気に入りの桜の花の髪飾りだった。



「家から持ち出した売れそうなものは全部売ってしまったのだけれど、これだけは雛ちゃんに渡したくて……」



もしかしてこれを渡そうと思ってあの時千年桜の下にいたのだろうか……

辛かった身重の体で…こんな遠くからバスや電車を乗り継いで私に会いに来てくれたんだ。


なのに私はなんてことを───────




「やだあ雛ちゃんなに泣いてるの?泣かないで。」


櫻子姉様は昔のように私の頭を優しく撫でてくれた。

あの時はやつれていたけれど、今は幾分ふっくらとしていて血色も良くなっていた。



「雛ちゃん…貰ってくれる?」

「……うん。櫻子姉様ありがとう…宝物にする。」



晴彦さんは今は宮大工として真面目に働いていた。

そして小説家になることもまだ諦めてはいないらしい。

晴彦さんが本を出したら本屋に買いに行きますねと約束をした。


私からも沢山話したいことはあったけれど、貴光さんを待たせてしまっている。



「また来てもいい?」

「もちろん。」


櫻子姉様と晴彦さんが声を揃えてうなづいた。

今度来た時に、私と貴光さんのことを聞いてもらおう。

櫻子姉様のおかげで、私は運命の人に出会えたのだと……

私に好きな人がいるだなんて知ったら、櫻子姉様びっくりするだろうな。




「雛ちゃん。見違えるほど綺麗になったわね。」


……うん?




「きっと、素敵な恋をしているのね。」




櫻子姉様は私に向かって色っぽくウインクをした。

どうやら、お見通しみたいだ。



















貴光さんは車ではなく、私と別れた場所でずっと待っていてくれていた。

遠巻きに町の若い女性達が集まってきゃあきゃあ言いながら貴光さんを見ている……

どこに居ても目立つんだな。



「もういいのか?」

「はいっありがとうございます。」


櫻子姉様も晴彦さんもすっごく幸せそうだった。

貴光さんはそれもちゃんとわかっていて、私に一人で見に行かせたんだろうな……

貴光さんは私のことをじっと見ると、手を伸ばしてきた。


「可愛い髪飾りだな。ヒヨコにとても良く似合っている。」


貴光さんが触っているのは髪飾りなのに、すっごくこしょばく感じてしまった。




改めて言うのもなんだけど、貴光さんて本当に良い男だ。

見た目も中身も…素敵過ぎてクラクラする。

私、こんな人と数日後には結婚して夫婦になるんだ。

目と目が合うだけでまだこんなにも緊張してドキドキするって言うのに……

慣れる日が来るのかな。




「ヒヨコ…ちょっと力を抜け。」

「は、はいっ!」


今考えてたことが筒抜けだったのかな。

貴光さんはクスリと笑うと指先で私の顎を上に持ちあげ、唇を重ねてきた。





「俺からの卒業祝いだ。」






……………っ!!!



「急ごう。母がご馳走を用意して待っている。」






─────貴光さんっ……!!


卒業祝いが刺激的過ぎますっ………






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