一話目
人前で手を繋ぐだなんてはしたない。
親の知らぬところで男と文通するのは罪。
未婚の男女が親しく談笑するのでさえ、とがめられる……
これが世の常だった大正時代───────
結婚とは、親同士が決めた相手とのお見合いで決まる。
本人の意志より、家と家を結びつけるための機能が優先されるのである。
顔も知らないような相手に一生を捧げる決心をしなければならず、拒むことは許されない。
華族の娘に産まれた令嬢にとって、家のために結婚することは普通のことなのだ。
わかってる。わかってはいるのだけれど……
でも…私にとっての結婚って───────
いつの時代も女の子は甘いものが大好きである。
私は女学校の同級生らと共に、パフェなるものを食べにフルーツパーラーへとやって来た。
果物やアイスをガラスの器に盛った、なんともハイソな食べ物である。
「あの人、男爵の四男坊との縁談が決まったから中退するらしいわ。」
「相手の方ってこないだ学校にいらしてた方よね?随分お年を召した方でしたけど。」
「私、ハゲとデブは嫌だわ。受け付けない。」
「どこかに家柄も財もあって、若くてハンサムな殿方はいないのかしら~。」
この手の会話、はっきり言って聞き飽きた……
まあ学校なんて名ばかりで、女学校で実際してることと言ったら将来の嫁ぎ先で良妻賢母になるための花嫁修業だもんね。
女子の結婚適齢期は17~19歳。
20歳を超えたら行き遅れ、老嬢などと呼ばれるこの時代。
あと半年で卒業の私達はもう17歳。
焦る気持ちはわかるのだけど───────
「私…お見合いじゃなくて、恋愛結婚がしたいな。」
アイスを頬張りながら、思わず本音がポロリと出てしまった。
みんなが私に注目し、頬を赤らめた。
しまった…私ったらなんて大胆なことを……
「やだっ雛子さんたら、そんな殿方がいらっしゃるの?」
「そう言えばこないだ年上の方と歩いてるとこ見たわ!」
「それって確か近所に住む作家の卵よっ。」
「その方とはもう将来の約束はされましたの?!」
なにこの怒涛の質問攻撃……
全然事実と違っているのに、否定する隙すらない。
「あのっ…ちょっ……」
店内の客からもすっごく好奇な目で見られている。
ど、どうしよう……
「恋愛結婚だなんて、実にくだらない。」
…………はい?
それは私の後ろの席から聞こえた。
なんなの?人を馬鹿にしたようなこの物言いは……
背もたれから覗き込んで相手の姿を確認すると、背広と呼ばれる洋装を着こなした20代半ばの男性が座っていた。
「なんですか貴方は?いきなり女性に声をかけるなんて失礼ですっ。」
「こんな店で大声で騒ぐ方がよっぽど失礼だと思うがな。」
男は見ていた新聞を丁寧に折りたたむとむくりと立ち上がり、私のことを見下ろした。
でっ、でかい……6尺は優にある……
それに……──────
級友たちが男の顔を見てきゃあきゃあと沸き立った。
それもそのはず、男は白い肌に鼻筋の通った高い鼻、薄い唇、長くて鋭い涼し気な目をしていたのだ。
──────なんて綺麗な顔なんだろう……
着ている服もそうだけど、男はどこか異国の雰囲気を漂わせていた。
「そんな子供地味たものを食べて恋愛などとは笑わせる。」
見た目とは違い、性格の方はかなりねじ曲がっていて最悪そうだ。
「食べ物に大人や子供なんてものがあるんですか?貴方はさぞかしご立派なものを食べられてい……」
ふと男のテーブルに置かれていたものを見て言葉に詰まってしまった。
こ、これはもしや西洋の国で飲まれている珈琲とかいうものじゃないだろうか。
前にお父様が頂いてきたのを少し飲んだことがあったのだけれど、日本人の味覚とはあまりにもかけ離れたその味にすぐに口から吐き出してしまった。
「興味があるのか?飲ませてやるから口を開けてみろ。」
男はカップを手に持ち、私の口元へと近付けてきた。
匂いだけでゲッとなったが、今さら飲めませんとは言えない……
からかうように見つめてくる男の手からカップを奪った。
「自分で飲めますので。」
ぐっは…まっず──っ!!
男が飲んでいた珈琲には砂糖もミルクも入ってなかった。
なぜお金を出してこれを飲むのかが理解出来ない。
全部飲んでやろうかと思ったのだが一口で限界だ。
「ああ、美味しかった。」
顔が歪みそうになるのを必死に堪え、シレッと答えた。
早く私を子供扱いしたことを謝れ。
「どうでもいいが、わざわざ俺が口を付けたところで飲むんだな。」
…………えっ!!
黙って成り行きを見ていた級友たちから悲鳴が上がった。
私も動揺しすぎてカップをテーブルに落っことしてしまった。
散らばった珈琲が男の白いシャツにかかる……
「わっ大変!早くシミ抜きしないとっ……!」
私は男が着ていた上着を脱がせ、シャツに手をかけた。
珈琲の汚れって石けんで落ちるのだろうか……
にしてもなんなのこのボタンてやつは…ちっちゃくて硬いっ。これだから洋服って嫌いなのよっ!
「ちょっと雛子さん!!」
「なに?今取り込み中!」
「いやっだって雛子さんっ大胆すぎ!」
大胆と言われ我に返った。
私……見知らぬ殿方の服を脱がそうとしてる………
怪訝そうに見下ろす男と目が合った。
「ごごご、ごめんなさいっ!でもシミがっ……」
「これくらい良い。公然の場で脱がされるよりマシだ。」
自分でやっといてなんだけど、胸元がはだけてて凄くヤラシイぞ……
目線をどこに持っていけばいいのかがわからず、顔を真っ赤にしてうつむいた。
男はボタンを締め直して服装を整えると、顔を近付けてきてささやいた。
「さすが恋愛結婚をしたいと言うだけはある。まるで玄人だな。」
くろうと?
男は綺麗な顔で意地悪そうに笑うと、レジスターの方へと去っていった。
玄人ってなに……?
「同じ方向なのだから雛子さんも乗っていけばいいのに。」
「ありがとう。歩きたい気分だからいいの。」
ごきげんようと言って人力車に乗っていく級友たちと別れた。
私も昔は少しの距離でも人力車に乗ってたっけ……
今は多少遠くても歩いて移動している。
明治時代から始まった近代化の波は、大正に入りさらに進んだ。
それは街並みからも見てとれる。
19世紀に西洋で展開したロマン主義の影響を受けた日本の都市部は、石畳や洋館モダンな建物へと様変わりした。
煉瓦造りの壁にルネサンス調の外観、アーチ型の窓のステンドグラス……
提灯あんこう型の丸いガス燈から漏れる柔らかな光が、夜空や商店の店先を照らしていた。
昔ながらの文化とも相まって、和洋折衷でなんともロマンチックな雰囲気である。
「活気があっていいな……」
もう少しプラプラと見ていたいがもう夕暮れ時だ。
治安が余り宜しくないこのご時世、若い女子が暗闇を一人で歩いていたら、なにが起きてもおかしくは無い。
急ぎ足で歩いていると、詰襟のシャツの上に着物を着た青年の姿が見えた。
近所の家に下宿をしていて、師範学校に通いながら小説家を目指している書生の晴彦さんだ。
「やあ雛子ちゃん。今帰りかい?」
私の足音に気付いた晴彦さんは足を止め、追いつくのを待ってくれた。
隣に並んで歩く私に、いつものように和やかに微笑みかけてくれる……
私は晴彦さんが笑った時に下がる目尻が大好きだ。
「そうだ。これ、雛子ちゃんにと思って買って来たんだ。」
そう言って晴彦さんが渡してくれたのはガス焼煎餅だった。
「良かったら、櫻子さんにも渡しといてね。」
「……はい。」
櫻子とは私の二つ上の姉で、女学校を卒業してからは家で花嫁修業をしていて良い縁談がくるのを待っていた。
私と違って目鼻立ちがハッキリとした美人で、女学校時代の成績も優秀だった。
晴彦さんはちょうど読み終わった本があるのだと言って懐から取り出し、私に貸してくれた。
前々から私が読みたいと思っていた恋愛ものの小説で、主人公の二人は身分差の恋をし、純愛を押し通して駆け落ちをする話だ。
「良かったらそれも……」
「櫻子姉様にもですよね?わかってます。」
晴彦さんは照れたように笑った。
ホント…わかりやすい。
私を通して姉にアプローチをしているのだ。
あまりにもバレバレで早く気付けたのは良かったのかもしれない。
危うく恋をしてしまうところだった。
「あっそうだ晴彦さん、今日最悪な男に出会って……」
私は今日あったことを怒りも混じえて説明した。
「で、まるで玄人だなって言われたんですけど、なんのことだかわかります?」
「あー…その場合の玄人は芸者や女郎のことだね。」
それって確か遊客とかで枕をともにする女性のことよね。
…………って、私がっ?!
そりゃ確かに服を脱がそうとはしたけれど、高そうな白い布を汚しちゃったから焦っただけなのに…あんまりだっ!
「気にすることはないよ。世が世なら雛子ちゃんはお姫様なんだから。」
地面にコの字になって落ち込む私を、晴彦さんは優しく慰めてくれた。
「そんな…お姫様だなんて……」
私は代々続く公家華族の令嬢だ。
確かに、世が世なら私は一国のお姫様になれていたかもしれない……
「じゃあね、雛子ちゃん。風邪引かないように。」
家の前まで送ってくれた晴彦さんは、私が外門のドアを閉めるまで手を振ってくれた。
わかってはいるけれど、今でもあの和やかな笑顔に惹き込まれそうになる……
晴彦さんからもらったお土産を胸に抱いて、櫻子姉様の部屋をノックした。
「まあこれを晴彦さんが?美味しそうっ。」
お洒落な姉は流行に敏感だ。
洋花を抽象的に描いた着物を着て、長い髪を耳の横に流して毛先を後ろで固め、大きな桜の髪飾りを付けていた。
和風なのに、洋風みたいに最先端に見える。
うなじにある二つ並んだホクロがまた色っぽいんだよなあ……
妹の私でもうっとりするくらいの美人さんだ。
私なんて楽チンだからと学校が休みの今日も袴だ。
「櫻子姉様が全部食べちゃえば?晴彦さんもその方が喜ぶだろうし。」
「雛ちゃんたら、こんなに食べきれないわ。あとでみんなで頂きましょう。」
性格もおっとりとしていて、誰にだって優しい。
晴彦さんが櫻子姉様を選ぶのは必然的なことだ。
私も、櫻子姉様のことが大好きだからよくわかる。
続いて本も渡した。これは櫻子姉様も読みたいと言っていた。
「私は読むのが遅いから雛ちゃんが先に読んで。」
「晴彦さんが1ページ事にめくった本、先に私が触っちゃってもいいの?」
「雛ちゃんごめんっやっぱり先に読ませて!」
櫻子姉様は本をギュってして顔を擦り寄せた。
ああもう、可愛いんだから。
全く…晴彦さんを好きなことがバレバレだ。
この小説の二人、櫻子姉様と晴彦さんにそっくりだな。
「お姫様か……」
自分の部屋で横になり、思わずため息が漏れた。
華族といってもいろいろだ。
私の家のように江戸時代に公家だった公家華族や大名華族。
維新期の勲章華族や軍事華族。
そして大資産家によって構成される新興華族……
特権階級といえど、全部が全部裕福かといえばそうではない。
華族の中でも格差はある。
そして私の家は今や没落まっさかりだ。
本来なら器量良し性格良しの絵に描いたような良妻賢母の櫻子姉様の元には、縁談がたくさんくるはずだ。
結婚とは家と家との結び付きである。
誰もうちの家には魅力を感じないらしい……
まあそのおかげで、櫻子姉様には晴彦さんとめでたく結婚出来る可能性があるのだけれど。
晴彦さんが売れっ子小説家にでもなれればお父様だって喜んで嫁に出すだろう。
「やっぱりいいな~っ恋愛結婚っ!」
羨ましいっ!枕に顔を埋めて叫んでしまった。
私も縁談なんて待ってられない。
てか、櫻子姉様に来ないのに私のとこになんか来るわけがない。
早く恋愛結婚出来そうな相手を探さなきゃ。
「恋愛結婚だなんて、実にくだらない。」
なんでここであの男の顔が浮かぶかな……
見てなさいよ~6尺野郎っ。
私だって相思相愛で結婚してやるんだからっ!
ちなみに6尺とは約181.8cmのことだ。
男性の平均身長が162cmだったこの時代。6尺は優にあるあの男がどれだけデカく見えるかを想像して頂きたい。
女学校の勉強科目。
国語、算数、理科、社会、外国語等…高等専門教育は科目としてあるものの、必要とされていない向きがあった。
それよりも家事、裁縫、編み物等の科目が重要視されていて『家庭婦人』としての技芸教養の習得の場とされていた。
「五条さん。完成してないの貴女だけよ?」
「あとこれだけ縫えば仕上がりますので!」
特に裁縫は週四時間もある。
私はこの裁縫というものがどうも苦手だ。
いや、裁縫のみならず編み物も生花もお茶も、それ系のものが全般的に苦手なのだけれど……
良妻賢母の反対語に悪妻愚母という言葉があるとしたら、私は正しくそれだろう。
「縫い直し。」
完成した浴衣を見て、先生は一言そう言った。
どうやら下の布地も一緒に縫ってしまっていたようだ…誰か嘘だと言って欲しい……
結局お持ち帰りになってしまった。
夜通しやったとしても終わる気がしない……
だいたい今の時代に浴衣を手縫い出来たからってなんの役に立つというの?
女学校の袴だって、洋装のセーラー服なるものへと変わっていってる時代だというのに。
「はあ…つまんない。」
夕暮れ時の赤く染まっていく空に物悲しさを感じた。
「Though it is so wide, in the sky, my world will be what small.」
空はこんなに広いのに、私の世界はなんて狭いんだろう。
英語の授業は楽しいんだけどな……
週一しかない選択科目だなんて残念だ。
世の中は妻に教養を求めてはいないらしい。
家に帰って裁縫が得意な櫻子姉様に泣きついた。
さすが櫻子姉様だ。すいすいと縫い上げ、あっという間に仕上げてしまった。
「ありがとう櫻子姉様!私本当に裁縫がダメで……」
「誰にも向き不向きがあるわ。雛ちゃんは英語が堪能なんだし、卒業したら留学しなさいな。」
「はは…出来たらいいよね~。」
そういうことを考えたこともある。
女学校を卒業した先輩の中にも留学をした人が少数ながらいる。
でも…うちの経済状況じゃまず無理だ。
「雛ちゃん私ね、お見合いすることが決まったの。」
「へーっそうなんだ。櫻子姉様おめで……」
……お、おめでとうじゃな────いっ!!
櫻子姉様が余りにもにこやかに言うもんだから、普通にお祝いの言葉を言うところだった。
「ど、どういうこと櫻子姉様っ!なんで?!」
「私にもやっと縁談がきたのよ。凄く財のある方で、うちの家の援助もしてくれるそうよ。」
だって、だって晴彦さんは?
櫻子姉様は晴彦さんと結婚したいと思ってたんじゃないの?!
「写真あるのよ。雛ちゃんも見る?凄くハンサムなの。」
「なんでなの?だって櫻子姉様にはっ……」
「雛ちゃん。」
櫻子姉様はキッと前を見すえ、とても威圧感のこもった静かな声で告げた。
「もう決まったことなの。」
櫻子姉様───────……
父親の権威は絶対だ。
父の決めたことに私達は従うしかない……
櫻子姉様は机の引き出しから晴彦さんが貸してくれた本を取り出した。
「雛ちゃんが読んで…私はもう、いいわ……」
そう言って後ろを向いた櫻子姉様の背中が小刻みに揺れていた。
……かける言葉が見つからない。
晴彦さんはこのことを知ったらどう思うのだろうか?
晴彦さん以上に、櫻子姉様のことを幸せにしてくれる人なんているわけないのに……
私はお見合い相手である男の写真を手に取って見てみた。
「…………えっ…」
そこには、見知った男の顔があった。