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ケープゼレット(Képzelet) ~SF短編小説集~  作者: 劉白雨
2026年2月 : 別れの理由

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2026年2月 : 別れの理由


【とっくに枯れていた】


「神の罰が下ったぞ!」

 男の叫び声が、石畳の目抜き通りに響き渡った。

 それはまるで、死の使者が現れたことを告げる合図のようだった。

 瞬く間に、露店の果物も、広場に干された洗濯物も、すべてが打ち捨てられ、人々は蜘蛛の子を散らすように家へと逃げ込んだ。

 軋む扉の音、鍵のかかる音、祈りの声……。

 通りには、さっきまで遊んでいた子供の木製の人形だけが転がり、風に押されてカラカラと音を立てていた。

 固く扉を閉ざされた町は、一挙にゴーストタウンのように人っ子一人いない、死が訪れた町へと変貌していた。


「いよいよこの町にも、死の病が訪れたか。」

 エリアス・フォン・グリムは一人ブツクサ言いながら、町の外れにある診療所へ向けて歩いていた。

 町へ薬品の仕入れに行き、その帰りに先程の騒ぎに巻き込まれたのだ。


 死の病の噂が流れてきたのは、もう三年以上前。

 アジアの方で不治の病が流行りだしたという話を聞いたのが最初だ。その時は遠い国の話だと思っていたが、その後、南ヨーロッパの方でも流行しているらしいという話が伝わってきて、それでもまだ遠い国の話だと思っていたら、去年とうとう国内でも発症例が報告された。

 それが、とうとうこの町にも患者が現れたのだ。人々が不安になるのも当然である。


 エリアスは、不治の病の噂話について思い出していた。

 14世紀のヨーロッパは、未曾有の恐怖に包まれていた。後に黒死病と名付けられた、死の病の蔓延である。

 黒死病に罹患すると、発熱に見舞われ、全身に麻痺が広がる。そして、リンパ節や鼠径部そけいぶに腫瘍が出来、心肺機能が低下すると、全身の皮膚に紫や黒の出血斑が広がり、そこから血や膿が垂れ流され、罹患から二、三日、遅くても七日程で死に到る。人々にとっては為す術もなく、死を待つだけの、不治の病であった。


 エリアスが、町外れを流れる川に架かる橋の袂に着いた時、教会の鐘が鳴った。住民に危険を知らせる鐘である。黒死病に注意しろと言うことなのだろう。

 しかし、エリアスは、そんな鐘の音に、憤りを感じていた。

 頼りになるはずの教会は、この病を神の怒りとして、人々に神への祈りを強要し、多額の寄付金を巻き上げていたが、黒死病が終息する気配はまったくなく、逆に神の怒りを増長しているのではないかと思える程、黒死病の蔓延地域が拡大していく一方だったからだ。

 この町の教会も、教会が運営する聖堂病院も、おそらく他の地域同様、患者たちを見捨てることになるだろう。


「あの鐘の音は、ただの警告ではない。神への祈りすら拒まれ、見捨てられた者たちへの葬送曲だ。」

 エリアスは、そんな不遜なことを考え、自分はそうはならないと、決意を新たにした。

 見上げた空には、冷たい灰色の雲が、まるでこの町全体を覆い尽くすかのように広がっていた。


 エリアスは、町医者として、この片田舎の町外れで医術を施していた。

 医術といえば、教会が運営する聖堂病院での医術が主流の時代、最先端の医術として、ヒポクラテス医学に基づいた、投薬、食事制限、運動連隊が主な治療法で、その処方は夢のお告げによるものだった。また、治療には祈りと犠牲が必要であるとされ、多額の寄付を要求された。庶民が病気を治すことなど、夢のまた夢だったのだ。


 しかし、エリアスは違った。藪医者のレッテルを貼られながらも、彼は、人々のために彼のなし得る医術を施していった。禁忌だった患部を切除するという手術も、技術は拙いながらも、患者のためとあらば、躊躇無く施した。


 病気の原因は、運命、罪、星辰の影響といわれ、得体の知れない病は、ミアズマと呼ばれる毒素や瘴気しょうきがその原因と考えられていたこの時代に、エリアスは病気の原因は病気を起こす極小の虫、〔|ヴィンツィゲス・インゼクト《winziges Insekt》〕が体内にいるためだと公言していた。

 本来なら、異端審問会に掛けられ、火炙りに処せられることになるはずだが、こんな片田舎の、小さな町医者の妄言に耳を貸す者は無く、教会も見て見ぬ振りをしていた。


 そんなエリアスが住むこのクラインブルクにも、とうとう黒死病が発生したのだ。

 患者は聖堂病院に担ぎ込まれたが、聖堂の医者たちは、祈りを捧げるだけで、為す術もないだろう。


「病の原因は、神罰でもミアズマでもない。人間の目には見えぬ小さな虫が、身体を蝕んでいるのだ。なぜ、それを連中は分かろうとしないのだ。祈りを捧げただけで病が治るなら、この世に病という言葉は存在するはずないのだ。」

 エリアスは、怒りにまかせ独りごちた。

 幸い周囲に耳目はなく、咎められることはなかったが、以前、彼のこの考えを披露した時は、罵倒され、石を投げられたこともあった。

 それでも、エリアスは考えを改めることはしなかった。「たとえ呪われようとも、救える命があるならば。」そう信念を胸に日々医術を施していたからだ。医者としての矜恃と言っても良い。


 町外れに来れば、長閑な田園風景が広がる田舎町だが、死の影は確実にこの町へと覆いかぶさろうとしていたのだ。

 エリアスは、嫌な予感を感じながらも、自宅兼診療所へと戻っていった。


 数日後。

「エリアスさん!」

 診療所のドアを叩く音がした。エリアスが表に出ると、そこには隣家のレーマンが子供を抱えて立っていた。

「ルイーゼが、娘が大変なんだ。」

 良く見ると、レーマンが抱える子供は、熱を出し、息を切らしていた。そして、顔には黒死病の特徴である黒い斑点が浮かび上がり、手には大きな腫瘍が出来ていた。

 エリアスは、すぐに処置服に着替えて、虫が飛び移らないようにし、処置台に子供を寝かせるようレーマンに指示を出した。


 エリアスは、ルイーゼの患部を一つ一つ診ていくが、彼の知識の中に、同様の症状を持つ病は存在しなかったため、どう対処して良いか分からなかった。

 レンズを使って患部を拡大してみても、虫の存在はなく、エリアスは途方に暮れた。

「やはりミアズマなのか。」

 そんなはずはないと思いながらも、エリアスはできる限りの処置を施していく。

 ルイーゼの全身をアルコールで消毒し、腫瘍と、黒く変色した患部をいくつか切除していき、ガラス瓶に入れた。


 しかし、全身に斑点が出てしまった現状では、すべてを取り除くのは不可能で、下手をすると逆に命を奪いかねない。

 エリアスは悲痛な面持ちで、レーマンに告げた。

「すまない。この子はもう助からない。もし、この斑点をすべて切除したとしても、これだけの量を切除してしまっては、死を早めることにしかならない。」


「……そうか。お前でも助けられないのか。どうしてうちの子がこんなことに……。」

 レーマンはその場で泣き崩れてしまった。

「レーマン、一つだけ忠告をしておく。体内に決して虫を取り込むな。虫は不浄を好む。この子をまずは、綺麗にしてあげることだ。そしてレーマン、君自身も清潔を保ってくれ。でなければ、この子に取り憑いた虫が、君やアンナさんにも取り憑く可能性がある。くれぐれも注意して欲しい。」

 エリアスはそう警告した。

「また、虫の話か。でも、分かった。君の言うことを信じよう。虫だろうとミアズマだろうと、取り憑かれないようにするよ。清潔にすれば良いんだな。」

 レーマンは、虫の話には半信半疑だったが、エリアスの言葉は信じたようだ。

「ああ、そうだ。力になれず申し訳ない。それと、これをこの子に飲ませてやってくれ。治る保障はできないが、栄養剤と、虫下しの薬だ。」

 エリアスはそう言って、レーマンに謝罪し、処方薬を手渡した。


 レーマンがルイーゼを連れて帰宅したあと、ルイーゼの患部から切除したものを、エリアスは詳細に観察した。

 この黒死病にも絶対に虫がいるはずだ。エリアスはレンズを翳し、隅々までその黒ずんだ皮膚の残骸を調べ上げようとした。


 昔から、病気とは、本当に神の怒りなのか、それとも罰なのか、エリアスは何度も何度も自問自答した。しかし、その答えはすべて〔否〕だ。神を冒涜していると言われても、真実を覆すことは出来ないと、エリアスは考えていた。


 エリアスがこのように考え出したのは、井戸の水の中に、小さな生物を発見したことに端を発する。一見綺麗な水なのだが、水の中で何かが動いた気がしたのだ。

 好奇心と、観察欲が、その奇妙な違和感に答えを見付けるべく、高価なレンズを購入して、日夜観察することに駆り立てたのだ。

 そして、目に見えない、小さな生物の存在をエリアスは発見したのだ。

 エリアスは、この小さな生物を虫と呼び、昆虫と区別するために、極小の虫、ヴィンツィゲス・インゼクトと名付けたのだ。


 エリアスは、他にも小さな虫の存在を探した。

 その過程で、ワインやパンの発酵にも、黴や死骸の腐敗にも、目に見えない小さな生物が関わっていることを突き止めた。

 レンズでその虫を見ることはできなかったが、エリアスは仮説を立てた。この世のすべての現象は、このヴィンツィゲス・インゼクトの仕業であると。それならば、すべてが納得出来るのだ。


 たとえば人間は食事をする。歯を使って食べ物を細かく砕いて飲み込む。そして生きるための栄養を取り出し、不要なものを排泄する。しかし、食べたものと出てくるものの形状、形態がまったく異なり、おまけに臭気まで付いてくるのだ。おかしいと考えない方がおかしい。

 そこでエリアスはこう考えた。これは、身体の中にいる虫が、発酵させたり、腐敗させたりすることで、人間が必要な栄養を取り出し、その虫の死骸が不要物と一緒に排泄されてくるのだと。


 エリアスはこの考えに思い至った時、病気というものも、体内の虫のせいなのではないかと考えた。腹を下したりするのは、栄養を取り出すための虫が正常に働いていないためであり、年寄りが身体のあちこちに痛みを感じるのも、虫の死骸が上手く排泄されず、身体の隅々に残っているためであると考えた。

 病気には必ず原因となる虫がいて、その虫が何らかの悪さを人体に及ぼしているためであると、エリアスは考えたのだ。


 しかし、エリアスのこの考えに理解を示す者は、妻のメアリーを置いて他にはいなかった。

 協会の神父も表だって非難はしてこないが、遠回しに神の冒涜であるからと、その考えを改めるよう忠告をしてきたし、町の連中も、エリアスを医者としての腕は良いが、奇妙な思想を持った異端者であると考えていた。中には、面と向かって非難をし、石を投げ付けてくる者もいたが、それは極一部の狂信者だけだった。


 だが、そんな人々の目も気にせず、エリアスは研究を止めなかった。病気を治すためには必要な研究であり、この真実に辿り着ければ、町で困っている多くの病人たちを救うことが出来る。町だけではない、国や、世界中の人々の病気を根絶することが出来るかも知れないのだ。


 エリアスはとっくに信仰心が枯れ果てていた。

 神を信じる心は既に無く、自分が信じるのはこの世の真理だけであると考えた。異端者だとそしられようとも、神を信じる心が無いのだから、今更そんなことに頓着する気はなく。むしろ、大事なのは真実の探求であると考えていた。

 だからこそ、この研究に生涯を掛けて取り組もうと考えていたし、取り組むことが出来たのかも知れない。



【顔色】


 エリアスは、ルイーゼを診てから、取り憑かれたように黒死病の原因探求に勤しんだ。次々に駆け込んでくる患者の対応に追われながらも、アルコールで消毒し、患部をできるだけ切除し、栄養剤と虫下しを処方し、清潔を保つように患者と家族に言い含める。


 クラインブルクは小さな町である。罹患する者は、アッという間に町全体に及んだ。重症になった者は聖堂病院に担ぎ込まれたが、教会の医者がやることといったら、ミアズマを周囲にまき散らさないよう、患者を隔離し、祈りを捧げ、死を待つだけの状態であった。

 つまり、何もしていないに等しかった。


 貧しい者は、エリアスを頼った。

 エリアスは来る者を拒まず、出来得る限りの措置を施した。小さな診療所は患者で溢れ、妻のメアリーも献身的に手伝ってくれた。

 しかし、二人の奮闘も虚しく、教会には毎日のように死人が運び込まれ、悲しみの声が止むことは無く、墓標が増えていくだけだった。


「あなた。顔色が悪いわよ。あまり無理をなさらないで。」

 メアリーが、一息つくために用意したパンを、診療室の机に置きながら、エリアスに声を掛ける。

「ああ。立て続けだからね。致し方ない。患者を診ることもそうだが、もう少しで黒死病の原因が分かりそうなんだ。」

 疲労の色を隠すことが出来ないほど、疲弊していたエリアスは、そう言ってパンを囓り、スープを流し込んだ。


「あなたは何が原因だと考えているの。やっぱり虫?」

 メアリーもパンを囓りながら、エリアスに尋ねた。

「そうだね。虫であることは間違いないはずなんだ。以前動物の皮膚に取り憑く小さな虫を見せたことあるだろ。」

「ええ。あの人間の血を吸う生き物ですよね。」

「そう。犬に良く取り憑いてるあの虫より、もっともっと小さい虫がいるはずなんだ。おそらく、そいつが悪さをしていると思うんだ。

 切除した患部をよく観察すると、そこには何かが蠢いているんだ。おそらくそれが虫だと思うんだが、別の物質の可能性も捨てきれないんだ。

 もう一つ、怪しいのは、鼠の繁殖と死骸の量なんだ。鼠が繁殖することは今までも何度かあったが、これほど死骸が目に付くことはなかったんだ。

 町の目抜き通りには、鼠の死骸が其処此処にあって、異臭を放っていたんだが、黒死病の虫に犯されているのではないかとも考えている。」

「鼠ですか。確かに、お隣のアンナさんが、以前鼠が増えて困るって話をしていたわ。庭にも時々鼠の死骸があるのは、野良猫の仕業だと思っていたのだけど、あなたの言うとおり、黒死病の可能性もあるのね。」

「ああ。鼠だけでなく、猫も虫に取り憑かれている可能性があるから、充分気を付けてくれよ。」

 エリアスは、そう言ってメアリーに注意を促す。

「はい。分かりました。でも、何を注意したら良いのかしら。」

 メアリーは素直に返事をしながらも、どうすれば良いか尋ねた。


「重要なのは、近寄らないことだ。特に死骸をむやみに触ってはいけないよ。

 原因の虫は目に見えない極小さな虫なんだからね。とにかくその虫に取り憑かれないことなんだ。出来れば死骸は焼却処分をした方が良いかもしれない。

 聖堂病院がしてるように患者を隔離するだけじゃ駄目なんだ。清潔にするのはもちろん、虫を撲滅しなければ、意味が無いんだよ。」

 エリアスは確信を持ったように言う。

「あなた、あまり聖堂病院のことを悪く言うのは止めてくださいね。ただでさえ睨まれてるんですから、無用ないさかいを起こさないでくださいね。もし、異端審問会にでも掛けられたらと思うと気が気ではないんですから。」

 メアリーはエリアスの身の上を心配して言う。

「そうだな。気を付けるとするよ。教会の連中の顔色を伺うのは不本意だが、私にはやり遂げなければならないことがあるからね。」

 エリアスはそう言って、黒死病の撲滅に決意を新たにしたのだった。



【だからサヨナラを言おう】


 ヨーロッパ全域に広まった黒死病は、徐々に収束の兆しが現れた。

 結局、人々がしたことは、患者を隔離したことだけだった。教会が主導して隔離を先導し、地域ごと、町ごと、患者が出たと聞くとすぐに隔離措置がおこなわれた。

 ただし、領主によっては、交易停止による損失を考え、隔離することなく、「神に任せる」と豪語し、蔓延するに任せた者もいて、その死者数は莫大なものとなった。


 もう一つ問題なのは、ファナティシズム、いわゆる狂信である。一部の人ではあるが、差別の対象となる集団を、黒死病の原因として標的にし、気が狂ったように彼らを迫害し、殺害して廻った。特にハンセン病や乾癬かんせんなどの皮膚疾患の患者や、時にはニキビを患っただけの人まで酷い迫害を受けていた。


 エリアスが住んでいるこの町、クラインブルクは、エリアスと妻メアリーの奮闘もあり、黒死病を克服しようとしていた。

 怪しい動物の死骸は、片っ端から焼却処分し、患者の遺体を焼却することは流石にできなかったが、それでも、エリアスの指導の下、虫を洗い流すように、遺体を綺麗に洗浄してから埋葬された。


 そして、エリアスの功績が讃えられたのは、もっと別のところにあった。

 エリアスが探し出したのは、虫を殺す毒である。虫は殺すが人間には無害である毒物を見付けたのだ。

 その発見は、ただの偶然であったのだが、その効果たるや筆舌に尽くしがたいほどのもので、息も絶え絶えだった患者が、息を吹き返す程であった。

 まるで神の奇跡を見ているようだと、町の人々は彼の御業を称賛した。


 しかし、彼のやったことは、黴の生えたパンを患者に与えただけだった。

 その治療法に到ったのは、本当に偶然だった。

 たまたま黴の生えたパンを患者が口にしたことで、症状がよくなっていっただけだったのだが、エリアスはその要因を見逃すことはなかった。

 その事実を知ったエリアスは、患者に黴の生えたパンと、生えていないパンをそれぞれ与え、症状に変化が出るかを観察した。

 すると、やはり黴が生えたパンを与えた患者の中には、症状が治まり、快方に向かう者が現れたのだ。全員ではなかったが、快方に向かう者が出たと言うことが、明るい兆しとして、この黴を増やし、パンと一緒に患者に与える方法を、エリアスは見出したのだ。

 漸く、長い暗黒の時代に、光を灯すことが出来たのである。


 この黴は、後に抗生物質と呼ばれる物質を分泌する黴だったのだが、エリアスは、それを偶然にも発見したのだ。

 エリアスはこの黴を〔|デア・ベツヴィンガー・デス・シュヴァルツェン・トーデス《Der Bezwinger des Schwarzen Todes》〕、すなわち黒死病征服者と名付けた。名前は厳ついが、頼もしい黴である。


 町は、エリアスの黒死病征服者によって患者を減らし、多くの命を救うことが出来た。

 町は大いに盛り上がった。それまでエリアスを煙たい人間だと考えていた人々も、その功績を讃えないわけにはいかなかったのだ。


 しかし、どんなに称賛されようとも、エリアスの悲願である虫は、いまだに見付けることが出来ていなかった。虫を見付けることが出来れば、黴の効能を特定することが出来るのだが、終息に向かっている現在でも、いまだ発見するには到っていなかったのだ。


「エリアス・フォン・グリムさん!」

 大きな声で診療所のドアを乱暴に叩く声がした。

「はい。」

 エリアスは、表に出ると、そこには教会から来たと思われる、カソックを着た人物が立っていた。

「エリアス・フォン・グリムさんですね。司教様がお呼びです。至急教会までご足労願います。」

 その男は、有無を言わさない威圧的な態度で、エリアスにそう告げた。

「分かりました。準備をしますので、暫くお待ちください。」


 そう言って男を外に待たせ、エリアスは一旦室内に戻り、診療所の手伝いをしてくれていたメアリーに声を掛けた。

「どうやら、時が来たようだ。」

 エリアスは、自分に訪れた運命を悟ったように、そう告げた。覚悟を決めていたとはいえ、やはり、その時が来ると、恐怖に苛まれるものである。手の指が、痺れ、震えが止まらない。


「あなた……。」

 メアリーは言葉もなく、涙を流した。

「良いんだ。こうなることは、分かっていたことなんだ。教会の連中は自分の保身しか考えてないからね。甘んじて受け入れるよ。」

 エリアスが努めて笑顔でそう言うと、

「あなたは、多くの人を救いました。見殺しにした教会の連中よりも、何万倍もご立派です。」

 メアリーは涙を拭いながら言った。

「おいおい、日頃からそんなこと言うなと私を窘めていた君の言葉とは、とても思えないな。」そう言って、エリアスは微笑むと。「……すまない。これも、神を蔑ろにした報いなのだろう。君を幸せにする約束は、道半ばとなってしまった。」


 エリアスの脳裏には、3年前、教会で式を挙げたことを思い出していた。質素ではあるが幸せな式だった。神父の前で誓った永遠の愛と、幸せにすると言う約束は、果たせずじまいだったことが悔やまれる。


「いいえ、私は充分に幸せです。」

 メアリーはそう言ってエリアスに抱きついた。

「そう言ってくれると嬉しいよ。」

 エリアスはそう答えて、メアリーの唇に自分の唇を重ねた。

「あなた……。」

「メアリー、すまないが後のことは頼んだ。最後にニーナの顔を見ていくよ。」


 エリアスは、そう言って、奥の扉を開け、小さなベビーベッドで寝ている愛娘のニーナの顔を覗き込んだ。

「ごめんな。パパは遠くに行くことになってしまったんだ。君の成長を見届けてあげられないパパを許しておくれ。」

 そう言って、エリアスは愛娘のニーナの頬をそっと撫でた。


「それじゃ、そろそろ行くよ。」

 そう言って、エリアスはもう一度メアリーを抱きしめキスをした。


 こうしてエリアスは二度とこの診療所に戻ってくることはなかった。

 司祭に呼び出されたエリアスは、その後異端審問会に掛けられ、魔術を使って人々を洗脳し、社会を不安に陥れたとして、火炙りの刑に処せられることとなったのだ。


 処刑の日、メアリーはニーナを抱いて、処刑場に足を運んだ。

「あなたのパパが、立派に仕事をしたのに、神という悪魔に殺されてしまうのです。だから、最後にサヨナラを言いましょうね。」

 メアリーは腕の中で自分を見つめ返すニーナにそう言って、磔にされたエリアスの方に向けてニーナの視線を向けてやった。

 ニーナは何も分からず、炎が巻き上がる処刑台に向かって、両手を大きく伸ばしていた。


 メアリーはポツリと「さようなら、あなた。」と呟いた。


<完>



【後書き:2026年2月】


 ご一読いただきありがとうございます。

 2026年2月に提示されたテーマは【とっくに枯れていた】【顔色】【だからサヨナラを言おう】です。

 【とっくに枯れていた】と【顔色】はそれぞれ二度目の登場です。

 【とっくに枯れていた】の方は、乱開発された惑星を再生させようと奮闘する青年を描きました。【顔色】は顔色によって人物を判断するという話で描きました。

 そのため、今回は趣向を変えて、未来ではなく、過去のSF短編小説として中世を舞台にプロットを考えてみました。

 科学的な観点から、歴史的な出来事を色々と探していた結果、黒死病に行き当たりました。1346年から1353年に起こったこのパンデミックは、当時のヨーロッパの人口を三分の一にまで減少させたとも言われ、現在ではペストではなく、炭疽菌たんそきんやエボラウイルスだったのでは、などという新説も現れているようですが、原因の如何に依らず、人々がこの得体の知れない病に、パニックを起こしていたことは事実であったことでしょう。

 その黒死病を背景に、伝統的な迷信や信仰を大切にする人々に対し、科学的見地から世界を変えようと奮闘する人物が存在したことを知り、その人物に焦点を当てた物語を書きたいと思いました。

 この物語では主人公のエリアスが、偶然にも抗生物質のようなものを発見しますが、史実では、1928年にアレクサンダー・フレミングが世界初の抗生物質であるペニシリンを発見するまで待たなければなりません。

 14世紀当時、様々な科学的、化学的アプローチが、宗教の経典に合わないとして、闇に葬られてきました。

 そんな、迷信や宗教に抗って、歴史の裏舞台に消えていった人物の姿が、上手く描けていたら良いのですが。


 この作品をあなたはどう感じましたでしょうか。

 この作品が思索のきっかけになれば幸いです。

 次回は3月になります。よろしくお願いします。



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