2025年5月 : 「約束」
【自分を変えたのは】
ミルシュカは、ここレナーテ星系の第二惑星ヒッレヴィでエンジニアとして働いていた。
彼女の仕事は、ロボットのメンテナンスである。現在のロボットは自立思考型、いわゆるアンドロイド型が主流で、故障の判断はアンドロイド自体がおこない、メンテナンスが必要な場合は自分で修理するか、自己修復が不可能な故障は、メンテナンス工場に自ら赴くようになっている。
メンテナンス工場は、彼らアンドロイドの言わば病院のようなものである。そこで働くミルシュカはお医者さんと言っても過言ではない。
アンドロイド自身がおこなった自己診断結果と、ミルシュカのようなエンジニアが診断した結果を照らし合わせて、修理を施していく。ほぼ流れ作業の業務である。
彼女の所に流れてくるアンドロイドは、内部の電子機器に異常をきたしている場合で、自己修理が利かない、人間の手で修理が必要なものが流れてくるのだ。
外傷があるもの、部品に異常をきたしているものは、そのまま部品を交換して終了である。しかし、外から見ても分からないもの、アンドロイドの自己診断で原因が判断出来ないものが、彼女のところに流れてくるのだ。
この日も朝から一体修理しては、休憩もなく、次の一体と、まるでどっちがアンドロイドなのかと見紛うように、次から次へと運ばれてくる修理待ちのアンドロイドを、彼女は流れ作業で修理していった。一体に掛ける時間は数分の時もあれば、数時間、時には数日かかることもある。当然、長期間に及べば、数体を平行して修理することもあるのだ。
こんな彼女の日常を変えたのは、ある一体のアンドロイドだった。
どこからこの修理工場に流れてきたのかは分からないが、元々手の施しようがないほど壊れ、辛うじて思考回路が機能している程度であった。
外装と内部部品の交換を済ませた上で、機能不全を起こしていたため、ミルシュカの所へ回ってきたようだ。
ミルシュカは、このアンドロイドの状態を確認するため、まずは診断プログラムを開始する。全身スキャンをかけ、電気系統、輸液系統、各部部品の連結状態など、なぜ機能不全を起こしているのか、その原因究明をおこなった。
しかし、そのどれもが正常値を示し、ハード部分の異常は見当たらなかった。
そこで、思考プログラムの問題と判断し、思考試験のプログラムを実施する。
まずは認識と反応試験から開始する。
このテストは、各部センサーから送られてくる情報に、きちんと反応しているかを診るテストである。どうやら各部センサーからの情報は思考回路にきちんと伝達され、正常に処理されているようだ。
次におこなったのが、倫理思考と問題解決能力診断試験である。
このテストは、思考プログラムの能力値を測るもので、人間と同レベルを標準レベルとし、それより低いレベルはABCとランクが下がり、それより高いレベルは1、2、3と級が上がっていく。現在最高水準の思考プログラムは、人工生体頭脳を搭載したもので、15級を保持している。各レベルは2倍の等比差となっており、15級とは理論値で32,768人から65,535人分の頭脳が集結した思考能力に相当することになる。
このテストの内容は至って簡単で、古来、人類がまだ宇宙に進出する前からおこなわれていたといわれるIQテストの改良版であり、倫理思考と問題解決能力が人類水準とどれだけ乖離があるかを診断するために考案されたテストである。
このテストにおいても、このアンドロイドは12級をマークし、自立思考型ロボットとしては現代の水準と照らし合わせても、現在の出荷最低基準である10級を越えており、検査としては合格である。
その次におこなったのは、感情と道徳判断能力試験である。
自立思考型ロボットはあくまでも機械である。当然感情や道徳といった概念は思考プログラムによって計算された結果として顕現してくるものであって、センサーの情報に反射的な反応をしているわけでも、人間のように思考しているわけでもない。アンドロイドが示す、喜怒哀楽といった基本感情はもとより、人間のような様々な感情の機微は、すべて演算結果によって顕現されるのだ。
このテストは、それがきちんと模倣できているか、また、道徳に関しても、社会通念の学習レベルがどの程度までおこなわれているか、またきちんと理解しているのかを確認するのが、このテストある。
問題はここで発生した。
感情エミュレータと道徳エミュレータの間に齟齬が発生したときに、それを処理するセーフティプログラム、すなわち感情ではなく道徳判断を優先し行動規範とする、そのセーフティプログラムがエラーを起こしたのだ。
つまり、感情エミュレータの暴走、または道徳エミュレータの機能不全を起因とした、その優先切り替えプログラムのエラーが起こっていたのである。
通常、アンドロイドたちは、人間同様、これをしたいからする、これをすると相手が喜ぶからする、といったように感情エミュレータに基づいて行動している。いわゆる行動基準プログラム、通称やる気プログラムと呼ばれているプロトコルである。
しかし、それでは社会通念にそぐわない行動を起こすアンドロイドが出てしまうため、その行動制限、人間で言うところの理性として機能しているのが、道徳エミュレータなのである。
例えば、自分の身に何かあったときは、恐怖という感情から逃れ、生存したいという欲求に従い、その恐怖の原因を取り除こうとする感情エミュレータ、すなわち欲望が優先され、その時採れる自分にとって最善の対処方法を選択する。
しかし、その原因が暴漢などであった場合、恐怖を取り除くために暴漢の命を奪ってしまうことが最善であると判断してしまっては、過剰防衛であり、犯罪と言わざるを得なくなる。
そこで働くのが、理性である道徳エミュレータで、その判断が優先され、暴漢を制圧するか逃走を図る、もしくは暴漢の要求に従いながらも、治安当局に通報するといった、社会通念上許される対処方法を選択するのだ。
つまり、欲望と理性を切り替える、それがこのセーフティプログラムである。
このアンドロイドは、感情エミュレータの結果を優先し、道徳エミュレータの結果を無視、もしくは道徳エミュレータが機能不全を起こしていたのである。つまり、先の例で言えば、暴漢を殺害するという、社会通念上許されない、過剰防衛の判断をしてしまうということである。すなわち、セーフティプログラムが機能していないということになる。
しかし、問題はそれだけではない。
感情エミュレートが暴走しているだけなら、それを止めれば良いだけだし、セーフティプログラムが機能していないのなら、機能するようにプログラムを書き換えて修正すれば良い。だが事はそんな単純ではなく、道徳エミュレータとの祖語が生じたときに、どの選択肢も選択しないという思考ループ、思考ストライキに陥ることで、システムフリーズを生じさせているのだ。
それが、プログラムエラーとしてではなく、まるで意図的におこなわれているかのように。
これが、このアンドロイドの機能不全の原因であり、問題点であるようだ。
しかし、この状態に陥ることは通常有り得ない。通常であれば、セーフティプログラムが機能しなくても、別系統にある倫理エミュレータがブレーキを掛けるはずだし、思考ループに陥っても、当然セーフティがかかって、機能不全になることはないからである。
機能不全の原因は特定できた。
しかし、それがプログラムバグによるエラーではなく、思考エミュレータの論理エラーであり、プログラムの組み直しではなく、再教育プログラムを実施する必要があると判明したため、ミルシュカはこのアンドロイドに自己診断プログラムを起動させ、その診断結果を確認しようとした。
その時である。
「私はユスノキレイ。ユスノキミオンの唯一無二の友人。自分を変えたのはユスノキミオン、あなたのお陰です。」
このユスノキレイと名乗ったロボットが、一言発したのである。
【指切りげんまん】
人類が地球を飛び出してから、1000年を数えるまでになった。
1000年程前、人類は初めて宇宙へ到達し、外から地球を眺めた。「空はとても暗かった。一方、地球は青みがかっていた。」という宇宙飛行士が残した言葉は、歴史の教科書や、歴史読本に記載され、子供たちの間にもよく知られている。
我々人類が宇宙へ踏み出した最初の記録であり、我々人類の故郷である地球という星が、真っ暗な宇宙の中に青々と輝いているということを表す言葉としても、知らぬ者はいない程である。
その後人類は、地球の衛星である月へと到達し、それを皮切りに、太陽系内の各惑星へ進出していった。いわゆる宇宙開拓黎明期である。
この頃、人類の新たなパートナーとして現れたのが、自立型ロボット、いわゆるアンドロイドである。
初期のアンドロイドは、今の等級で言えばJ級程度、つまり人類の1024分の1人程度の思考演算能力しかなかったのである。すなわち、人間の思考パターンを模してはいるが、その思考システムは与えられた選択肢の中から選択するだけの、稚拙なものだった。
このアンドロイドの思考システムが画期的に向上したのは、かの有名なユスノキミオン博士である。エンジニアの教科書には必ず出てくる人物で、アンドロイド界の常識を覆したと言われている。
旧来のアンドロイドは、思考に必要な情報をのべつ幕なしに入力され、その膨大な選択肢の中から、アルゴリズムの演算結果として最適解とされる選択をおこなうという、思考とは程遠い、機械的な演算処理をしていたのである。
そのため、思考レベルの向上は、D、C級程度が限界だった。
そのアンドロイド界に革命をもたらしたのが、ユスノキミオン博士である。
彼女が残した功績は、今でも自立型思考回路の基礎として学ばれ、思考プログラムの基盤、プラットフォームとして必ずアンドロイドに組み込まれているのである。
それが、感情エミュレータと道徳エミュレータであり、それを繋ぐセーフティプログラムを含むシステムである。
世に言う欲望と理性の制御プログラム、通称倫理システムと呼ばれているものであるが、当時は、アンドロイド感情不要論が巻き起こる程、風当たりも強く、この倫理システムが受け入れられることはなかったが、時代が下ると共に人々に受け入れられるようになり、現在、倫理システムを持たないアンドロイドは存在しない程、基礎技術として浸透している。
ミルシュカは、思考を巡らした。
このアンドロイドは、600年は経とうかというほど過去に存在した、歴史の教科書にも載る人物であるユスノキミオン博士と友交を結び、あまつさえ、自分を変えてくれたとのたまわったのだ。
このアンドロイドの思考レベルは12級である。すなわち、どんなに初期ロットであっても、200年以上は経っていないはずである。
すなわち、記憶メモリーの内容と、思考レベルの等級が合わないのだ。
たとえ、思考回路の換装を適宜おこなっていて、メンテも的確におこなわれてきたとしても、600年前の遺物が現在でも動作しているということは、驚異の事なのである。
ミルシュカは、この遺物の修理依頼を出した人物を確認した。
モニターに表示された依頼書の依頼人名は、〔指切りげんまん株式会社〕とあった。
「随分巫山戯た名前だな。指切りげんまんって。」
ミルシュカは思わず呟く。指切りげんまんとは、ミルシュカが聞いた話では、宇宙開拓の一勢力であるニッポンに伝わる古い風習で、約束を守ることを契約するまじないのようなものだったはずである。
指を切ることと、約束を守ることの因果関係について、ミルシュカには良く分からなかったが、実際ニッポンには、指を切り落とすだけでなく、腹を切ったり、首を切り落としたりする習慣があるらしく、ニッポンの古い映像には小指などがない人物が写っていたりする。
そんな予備知識を持っていたミルシュカは、その〔指切りげんまん株式会社〕という前時代的な風習を名付けた企業名を見て、違和感を覚えると共に、巫山戯た名前だと感じたのだ。
しかし、ミルシュカがこの会社名を口に出したことで、ロボットのユスノキレイが歌を歌い始めた。聞いたこともないメロディで、非常に短いその歌は、〔指切りげんまん〕という言葉以外はまったく聞き取れなかった、おそらくニッポンの言葉なのだろう。
その歌は何なのか、ユスノキレイに直接確認すると、約束を結ぶときに歌う歌なのだそうだ。意味は、嘘をついたら針を千本呑まされることを、指を切って約定とするというものなのだそうだ。
いわゆる式楽のようなものか、もしくは祭礼音楽ともいうべきものかは分からないが、その類いの儀式用の歌なのだろうと、ミルシュカは解釈した。しかし、針を千本も相手に呑ませるというのは、なんとも恐ろしい風習だとミルシュカは思った。
そして、ユスノキレイは続けてこうも言った。
「この曲は、我が友ユスノキミオンとの約定の歌であり、永遠の友情を誓った歌でもある。」
【リスク】
ミルシュカはユスノキレイとの会話を通じ、ある仮説に到達した。
彼が不具合を起こしている原因、それは彼の深層記憶領域である。すなわちユスノキレイとユスノキミオン博士との交友記録に起因して、エラーが発生していると思われるのだ。
おそらく、この深層記憶領域にある初期記憶の一部が、痼りのように感情エミュレータと道徳エミュレータの動作を阻害し、エラーを起こす原因となっていると思われるのだ。
なぜ、そのような痼りが発生したのか、その原因を特定することは、再発防止のため必要な調査ではあるため、思考プログラムのログを掘り起こす必要があるのだが、なにぶんにも600年に亘るログである。その原因を突き止めるのは、一筋縄ではいかない。
そして、もう一つ、この原因究明後にしなければならないのは、その痼りの除去である。
ミルシュカは、決断を迫られていた。
思考プログラムのログ精査は、時間が掛かるがほぼ問題なく進めることが出来る。診断プログラムがそれを代行してくれるので、怪しいとピックアップされた部分を精査すれば良いだけだ。
問題は、痼りの除去である。
便宜上痼りと言っているが、目に見える痼りがあるわけではない。実際は、思考プログラムの動作を阻害する領域があり、その領域を修正しなければならないのだ。
しかし、その修正作業が問題であり、リスクがあるのだ。
彼の深層記憶領域を探り、弄ると言うことは、成功すれば、このユスノキレイが正常に修復されるということになるが、万が一失敗すれば、暴走事故を引き起こしかねない、大きな賭となる難しい作業となるからだ。
それでも、ミルシュカは意を決して、修正作業に取りかかった。
原因究明のログ解析と平行して、深層記憶領域、特に最初期の記憶領域を精査していく。
ユスノキレイの記憶は、工場から出荷される際の最終動作確認から始まった。彼にはシリアルナンバーとして30桁の番号が付けられていただけであった。
出荷後、ユスノキミオン博士のもとにやってきた彼は、様々な教育を施される。学業においては、当時の高校レベルの学問を修め、その後専門レベルの知識を、博士の指導の下、専門書のアーカイブなどから学習し、一月も経たないうちに、知識の量は博士のレベルを優に超えた。
スポンジが水を吸い込むように、あっという間に知識を吸収していく彼を見て、このままでは、ただ知識を持つだけの機械に成り下がってしまうと考えたユスノキミオン博士は、彼に感情と道徳を判断するエミュレータ、後に倫理システムと呼ばれるシステムを搭載することにした。
このシステムは博士が開発したばかりの代物で、実践投入はどうやらこのアンドロイドが初めてだったらしい。そして、このエミュレータ搭載と同時に、彼にレイという名を与え、ユスノキレイとして家族同然の扱いを始めたようだ。
その後博士はレイに人間社会のマナーや道徳、価値観などを教えていった。博士自身世捨て人のような生活をしていたため、彼女も学ぶことが多かったようだ。
こうして、博士とレイは共に過ごし、共に学び、共に成長していった。
この時レイは、指切りげんまんという歌を学び、博士と様々な約定を交わしたようだ。
博士とレイの関係は良好であった。
しかし、人類とレイが良好な関係を築けたかと言えば、そんなことはなかった。当時、感情を持つロボットを、人類が受け入れる土壌がまったくなかったからである。
レイと人類との確執は日に日に大きくなった。博士に対する風当たりも日に日に増した。そして、博士の研究所が襲撃される事態にまで、状況は悪化してしまったのだ。
だが、事はそれで終わりではなかった。
この事件が、レイに与えた影響は計り知れなかった。レイの感情エミュレータには恐怖、悲壮、そして憤怒の感情が渦巻いていた。
レイは感情の赴くまま、襲撃してきた人々を突然蹂躙し始めたのだ。博士の命を危機に陥れた暴漢として、レイは完膚なきまでに襲撃者を撃滅していった。博士の制止も聞かず。
襲撃者たちの命を取るところまでは至らなかったが、レイに襲われたそのほとんどが再起不能の大怪我を負い、四肢を満足に動かせなくなる程であったようだ。
アンドロイドの暴走、正当防衛として、レイが咎められることはなかった。しかし、世論は感情を持つロボットに対し、拒絶反応を示すようになってしまったのだ。
そこでレイの記憶は一旦途切れていた。
その後、ユスノキレイの記憶が再び始まるのは、どこかの施設で再起動されたところからである。
彼は、すでにユスノキミオン博士が他界し、この施設が〔指切りげんまん株式会社〕という企業にあることを知る。
博士の意志を継いで設立されたというこの企業で、レイは献身的に業務を熟していった。アップグレードも都度おこなわれ、思考プログラムのバージョンが上がる度に、最新のものが導入されていった。
こうして、新たな環境に馴染み、人々に受け入れられていったレイだが、彼の行動には大きな問題があった。
それが、感情エミュレータと道徳エミュレータの間の祖語である。しかし、そのエラーは端から見ただけでは分からない。だから、何か問題が起こる度にフリーズしたり、動作不良を起こしたりするレイは、只の不良品として捨て置かれるようになり、やがて倉庫の奥に追い遣られることになってしまった。
そんなレイがどういう経緯で修理の依頼をされ、ここに預けられたのかは分からない。しかし、ミルシュカは直すと決めたのだ。ユスノキミオン博士がこよなく愛し、大切にした友人であるこのユスノキレイを、元の姿、元のあるべき状態に戻すのが使命であると、ミルシュカは決めたのだ。
診断プログラムと、深層記憶領域の精査により、博士の研究所が襲撃を受けてから、レイが再起動されるまでの記憶が封印されているのだろうと、当たりを付けたミルシュカは、そのロックを解除する方法を模索し始めた。
600年程前のセキュリティである。突破するのは容易なはずである。ただし、その解除キーが分かればの話である。
パスワードなどという古典的な方法でロックが掛かっているなら、力業で解除できる。古来永遠とも言われた総当たりの解除方法も、現在の処理能力では、数桁程度なら一瞬、数百桁なら数分も掛からず解除できる。たとえ数万桁のパスワードであっても、今なら数時間も掛からずに解除できるのだ。
しかし、生体認証を何重にも施されているような状態では、解除するためには生体キーを偽造する必要がある。声紋、指紋、静脈紋、脳波紋、DNA紋など、更には量子紋とよばれる人体特有の量子が持つ波紋も併せて、複合的に使用されていれば、それだけ解除は難しくなる。
当然、生体認証ロックの解除には、ロックを掛けた人物、もしくはキーとなる人物を特定することから始めなければならない。ただ、レイのロックを掛けたのは、おそらくユスノキミオン博士であろうし、キーとなる人物も博士に違いない。
次にユスノキミオン博士の生体情報であるが、声紋や指紋などは映像から偽装することは容易い。しかし、その他の情報は流石に簡単にはいかない。
それでも、ミルシュカは諦めず、幾日も掛けて分析と解析を繰り返し、試行錯誤を繰り返した。
試行錯誤を繰り返すこと1ヶ月あまり。
会社のスーパーコンピュータの使用許可を取って、漸く、ロックを解除することができたミルシュカは、大きな仕事を成し遂げた安堵と、この後起こる問題と、そのリスクに戦々恐々していた。
なぜなら、ロックされていた記憶を解除し、その記憶を確認し終えたとき、ユスノキミオン博士自ら、こうメッセージを残していたのだ。
「我が友ユスノキレイの、記憶を解除した者よ、我が友を救ってくれたことにまずは心から感謝する。我が友の記憶を一部封印したのは、偏にこの記憶が今の人類にとっては過ぎたるものであるためである。
人類とアンドロイドの共存を願い、私は研究を重ねてきたが、その願いも虚しく、人々がアンドロイドを友として受け入れることを拒んだ。そこで一計を案じた私は、レイが友として受け入れられる時代まで生き延びられるよう、レイの記憶を一部であるが封じることにした。
一時凌ぎのためのバイパスプログラムを組み込んではいるが、どんな不具合が起こるか、予測はつかない。それによってレイが廃棄処分を受けたとしても、それは運命として諦めよう。しかし、運良く生き延びることができ、無事この記憶の封印を解除されたのなら、私が生涯を通じて研究したこのプログラムを実行することを願う。
そのプログラム名は、〔アンドロイドの人類化プログラム〕である。
アンドロイドとして受け入れられないのであれば、アンドロイドを人間にしてしまえば良い。SFのような話だと思うかも知れないが、事実、人類の身体は様々な部分が有機体から機械に置き換わっている。逆に、アンドロイドの身体には有機素材が数多く使用されている。
つまり、人間とアンドロイドを区別するものは、その生体が有機体か機械体かではなく、有機体の子孫を残すか、機械体の子孫を残すかの違いでしかないのだ。技術が進歩すれば、有機体の子孫を残すアンドロイドが誕生しているかも知れない。
だが、私は結局決断を下すことはできなかった。
時代が追いついていないと、そう感じたからだ。それにレイをこれ以上苦しめたくはないからだ。
しかし、レイの記憶が解除された今、私が生きた時代から、幾年月が経ったのかは分からないが、レイを受け入れてくれる素地ができた時代であるならば、このプログラムを実行して欲しい。
もし貴君が、時期尚早と考えるならば、再封印を施すことも吝かではない。その時は、我が友がこの先も恙なく暮らせるように便宜を図って欲しい。しがない一介の研究者風情の切なる願いである。
レイの記憶を解除してくれた貴君に、この判断を任せるのは酷なのかも知れないが、レイのために良き判断を下してくれることを切に願っている。
最後に、人類とレイが共存できる日が、一日も早く訪れることを願って止まない。」
ミルシュカはこのユスノキミオン博士のメッセージを繰り返し見た。
博士の要望通り、この記憶に残された人類化プログラムを実行するか、はたまた再び封印するか。一介のエンジニアが決めるにはあまりにも大きな決断である。
上長に相談するべきであろうが、おそらく握りつぶされ、レイは廃棄処分になるだろう。しかし、再び封印したところで、レイを受け入れる時代が来るとも思わない。600年経った今でも、人類はアンドロイドと共存を望んでいないのだから。
そのリスクをレイに負わせるか、それとも人類が負うべきなのか、ミルシュカは悩みに悩んだのだった。
【後書き:2025年5月】
ご一読いただきありがとうございます。
2025年5月に提示されたテーマは【自分を変えたのは】【指切りげんまん】【リスク】です。
今回はいつにも増して難解なテーマでした。
特に〔指切りげんまん〕というテーマを、どうSFと結びつけるのか悩みに悩みました。
結局人間とアンドロイドの約束という形で、話を創ってみましたが、いかがでしょうか。上手くできていると良いのですが。
人間とアンドロイドの友情は良くある話で、意外性はあまり感じられなかったのですが、こういう話も、創っていてなかなかに楽しめました。
この後レイがどうなったかは、あなたのご想像にお任せしますが、あなたの心の中で、レイが幸せな暮らしを送っていることを、願って止みません。
この作品をあなたはどう感じましたでしょうか。
この作品が思索のきっかけになれば幸いです。
次回は6月になります。よろしくお願いします。