「さんま缶だってよ」
平成二十七年、八月。
流石に何日だったかは忘れたけど、その日は朝からずっと雨が降っていた。
ジメジメと暑苦しく、鬱屈とした夏の雨。
――まじで嫌いだ。
耐え難い雨の夜。
淡々とアルバイトを終えた俺は、堂々とビニール傘をさして自転車を漕ぎ、無心でアパートのある住宅街を目指していた。
「……。」
飽馬橋に差し掛かった時、ずぶ濡れの外人の女を見つけた。
雨に濡れたせいもあってか、幽霊のように白い長髪。
ナチュラルな印象の真っ白なワンピースが、その異様な雰囲気を助長させる。
橋の柵に手を掛けて、静かに飽馬川を見下ろす、外国人の女。
その女のうしろ姿は、酷く悲しげに思えた。
「……。」
一度はそのまま通り過ぎたものの、こんな夜雨に濡れたその後姿が、どうしても胸に引っかかった。
俺は自転車を脇に寄せてスタンドを掛け、未だ飽馬川を見つめるその女に、柄にもなく声を掛けた。
「あー。アーユー、オーケー。……。」
なにがアーユーオーケーだ。
今思い返しても、我ながら胡散臭い。
滅茶苦茶恥ずかしかったのを覚えている。
けれど俺にしてはフレンドリーにビニール傘を掛けてやると、女は目を細めて、寂しげに、けれど包み込むように、俺の目を覗き込むように見て、そっと笑った。
「キミにしようかな。」
――それが、セラだ。
***
「おーい、ハヤトくーんっ!」
――時は戻り、今は平成二十八年、四月四日。
いつものようにタバコを吸いながら兎白と飽馬川で話していると、土手の方から大きく手を振るセラに見つかった。
「またあの娘かい、キミも隅に置けないねぇ。」
「あぁ、まぁな。」
茶化すセラを生返事でテキトーに流しながら、律儀に携帯灰皿でタバコの火を消した。
コイツと出会って、えーと……。
まぁ半年以上の付き合いか。
そしてコイツは見た目こそ女神のような美しさだが、正真正銘、ただの悪魔だ。
いや、ほんとに。
「あそうだ、手でも繋いで見せつけちゃおうか。」
すかさずセラが俺の左腕に抱きつこうとする。
「触るな。まったく。」
セラを振り払い、俺はジーンズのポケットに両手を仕舞った。
コイツはこうして、なりふり構わず何処も彼処も彼女面をしようする。
傘を差したあの日以降、目をつけられ、がっつりマークされているという訳だ。
「ふふ、キミは可愛いなぁ。」
そうして悪女のように怪しく笑うセラから、一歩横に離れる。
あわよくば俺の命を食うつもりでいるらしい。
少しでも心を許せば、恐らく魂を持っていかれるのだろう。
油断はならない。
「あの娘、キミの事好きだぞ。」
横にズレた俺を見て、セラは薄ら笑いを浮かべながら踵を返し、後ろ歩きで俺の前に出た。
歩きづらい。
「あぁ、かもな。」
――邪魔くさい女。
「む、可愛くない。」
「ならさっさとどっか行け。」
「やだよ。」
セラは悪魔らしく悪戯に笑う。
そう、コイツの言動の一つ一つが悪女のそれとして、恐ろしく完成されている。
それは例えるなら、洋ファンタジー映画に出てくる悪役の魔女そのものだ。
「こんな美しい悪魔を捕まえて魔女呼ばわりとは、失礼だなぁキミは。」
「言ってねぇ、心を読むな。」
シューティングゲームのお邪魔キャラのように微妙な距離感で正面を歩くセラが、少しだけ眉をひそめた。
「ぷっ、変な例えだね。」
「うっせぇ、心を読むな。」
因みに先ほどの「失礼」というのは恐らく、下等なものに例えられたことに対する言葉だろう。
なにしろ悪魔だ、人間の魔女如きに例えられるなど屈辱以外の何でもない。
満開の飽馬川桜堤を家の方へ向かって歩きながら、俺はそんなことを思った。
「ところでハヤト君、今日の晩御飯は何にするんだい?」
「さんま缶。」
「さ!! さんま缶かぁ~!! ほほ~うっ! それは……いいなぁ〜ふぅっ!!」
コイツは、さんま缶が大好きだ。
熊は一度気に入ったらそればかり好んで食べるというが、その類だろう。
セラは目をキラキラと輝かせて喜んだが、悪魔のくせに安い野郎だなと俺は思う。
まぁ、さんま缶、俺の中では結構な高級食なんだが。
因みにさんま缶というのは、スーパーとかによく売っている「さんま蒲焼」の缶詰のことだ。
「お前、なんか毎日幸せそうだよな。」
「ふ、悪魔だからねっ?」
「言いたいだけだろ。」
そして隙あらば、この微妙でダサい決め台詞を言う。
これがまたとんでもない決め顔だ。
「さんまかっんっ、さんまかっんっ、おっいしっいぞぉ~。」
満開の桜並木の中、
今日もダラダラ飄々ヘラヘラと、この悪魔は俺に付き纏う。
まぁもういい加減、それも慣れたが。
しかしこうして飽馬の桜並木を歩いていると、嫌でも思い出す。
―― じゃあね、ハヤト。 ――
――あれからまだ、三年なのか。