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 佳乃(よしの)は、瞳の少女だった。

「瞳のキレイな女の子ね」

 初めて佳乃と会う人は、みんな決まってこう言った。

 小さな顔の中に収まっている彼女の瞳は、いつも濡れたように黒く光っていて、人を()き付ける怪しげな魔力を宿(やど)していた。対面すれば、花の(みつ)に吸い寄せられる(ちょう)のように、自然と意識が持っていかれてしまい、瞳にとらわれすぎて会話の内容をほとんど記憶していないということすらまれにあった。

 しかし、魔力とは言っても、ミステリアスな雰囲気などは全くなくて、むしろ人懐っこさを感じさせる爛々(らんらん)とした光だった。

 なので、佳乃の周囲にはいつも人がいた。

 公園に遊びに行けば、いつの間にか知らない子たちと鬼ごっこをしていたし、親戚の集まりでも子どもたちの中心にいることが多かった。

 どちらかといえば内気で人見知りだった僕とは対称的に、彼女は小さな頃から、その社交的な性格を存分に発揮し、大人相手にも物怖(ものお)じせず話しかけていった。愛嬌(あいきょう)があって可愛がられやすかったので、よくお菓子などをもらっていたし、お年玉の金額も僕より高かった。

『素直で明るくて優しい子』

 それが、僕のふたつ年の離れた妹である佳乃の、子どものころから一貫して変わらない世間での評価だった。


 僕と佳乃の関係性はどうだったのかというと、別に悪いものではなかった。いや、むしろ良い方だったろう。少なくとも、第三者から見れば、仲良しなきょうだいに映っていたことは間違いない。

 実際、妹からは(なつ)かれていた。

 僕はこれっぽっちも記憶していないが、母に言わせれば、「それこそ赤ん坊のころから、お母さんよりもお兄ちゃんの方が好きだった」らしい。

 佳乃がまだ自分の足で立つことすらできなかった年齢のころ、近くに僕の姿が見えないとすぐに泣き出してしまい、抱っこをしてなだめすかしても全然泣き止まず、僕の姿を認めてようやくおとなしくなったという。

「子守唄を歌ってあげるより、お兄ちゃんの隣に寝かせてあげた方がずっと効果があったわよ」

 と、母はよく笑っていた。

 たぶん、大げさに言っていたのだろう。まだ分別のつかない赤子が、兄の存在をしっかりと認識していたのかは怪しいし、仮に認識していたとしても、母親の腕の中よりも優先されるとは到底(とうてい)おもえない。

 眉唾物(まゆつばもの)だと切って捨てるべきではあるが、あながち嘘とも言いきれないものがあった。

 記憶が次第に色彩を持ち始める幼少期を振り返ってみると、たしかに、佳乃はいつも僕のそばにいた。

 遊んでいる時も、ベッドで寝る時も、ごはんを食べる時も、幼少期のどの場面を切り取っても、その絵の中には必ず佳乃の姿があった。

 幼稚園の迎えのバスに僕が乗り込む時、彼女が決まってべそをかいていたの思い返せば、母の話にもある程度は信ぴょう性があるといえよう。

 兄の目から見ても、妹は思いやりのある子に映った。

 自分の欲望を優先しがちな幼児のころから、兄にはとても尽してくれていた。

 いつもテレビのチャンネルを(ゆず)ってくれたし、午後のおやつも分けてくれたし、男の子の遊びにもつきあってくれた。

 僕は、佳乃に訊いたことがある。

「本当は観たい番組があるんじゃないのか、お腹がいっぱいだなんて嘘じゃないのか、ヒーローごっこよりオママゴトがしたいんじゃないか」

 佳乃は笑って、僕に答えた。

「そんなことないよ。ぜんぶね、わたしがそうしたいから、そうしているんだよ」

 彼女の声には、暗に見返りを求めるようなずる賢い響きはなかったから、僕は鵜呑(うの)みにしてしまい、「本当のことを言っているんだな」と終わりにしてしまった。

 深くは考えなかった。

 彼女がとても寛容(かんよう)な心の持ち主だったのはわかりきっていたから。

 佳乃の寛容さを示す、こんなエピソードがある。

 彼女が幼稚園の年長になった時だったか。

 ある日、僕は、佳乃の大切にしていたドールを(あやま)って踏みつぶしてしまった。足の裏を通して伝わってきた確実な感触に、「ああ、やってしまったな」と苦々しく思ったのをおぼえている。プラスチック製の細い首は無残に折れてしまい、接着剤などで修復するのも困難な状態となっていた。

 当然、佳乃はわんわんと大泣きした。

 首のないドールの人形を抱え、「いたくしてごめんね」と謝り続けた。

 ひたすら悲しんだ後にやってくるのは、いつだって怒りの感情だ。そして、怒りの矛先(ほこさき)を向けるべき相手は、大切なものをめちゃくちゃにしてしまった兄だろう。

 が、佳乃は最後まで僕を責めることはなかった。単に、ドールを失った悲しみに打ちひしがれていただけで、「お兄ちゃんのせいだ」とは一度も言わなかった。それどころか、落ち着きを取り戻すと、僕の足が傷ついていないか心配する優しさまで見せた。

 以上の出来事を(かんが)みれば、よくわかるだろう。

 佳乃は良い子だ。

 とても良い子だ。

 だから……そんな良い子をきらいだとおもうのは間違っている。

 普通、これだけ兄を(した)ってくれている妹をきらうだなんてありえようか。

 いや、ありえるはずがない……。

 たしかに、冷えきった関係性のきょうだいというのは存在する。けれど、そういうきょうだいは、互いに敵対していたり、極度に無関心だったりすることが大半だ。つまり、原因となる種がなくしては、破綻(はたん)には至らない。

 佳乃をきらいになる要素なんてひとつもなかった。なら、妹とは友好的な関係性を(きず)く他考えられない。

 なのに、なぜなのだろう。

 僕は、彼女に対して複雑な感情を抱えていた。

 強いて例えるなら……絡まりすぎてほどけなくなった電源コード、のどに刺さった骨、服の中に入り込んだ虫、気づかずに踏んだ水たまり、ぬるくなった牛乳、靴の中に入った小石。

 ……いや、そのどれもが適当な例ではない。この感情を言語化するのは到底不可能なように思えた。赤子が自身の感情を伝える手段を十分に有していないように、この感情を伝え切るには、僕はあまりに未熟なのだろう。

 だから、不本意ではあるが、『きらい』という言葉を用いるしかない。

 僕は、佳乃がきらいだった。

 太陽のように暖かな笑顔も、枝毛のない長く伸びた黒髪も、初雪をおもわせる真っ白な肌も、お兄ちゃんと呼びかける柔らかな声も。

 ぜんぶ、ぜんぶ、きらいだった。

 そして、何よりもあの瞳……。

 みんなが()(たた)える、宝石のように輝くあの瞳が、たまらなく嫌なのだった。何度、あの眼球をくりぬきたい衝動に襲われただろう。ふと視線を感じて振り向き、そこに佳乃の形のよい瞳があった時、僕は……僕は……。

 いつからなのかはわからない。

 それこそ、佳乃が生まれてから、ずっとなのかもしれない。

 僕は生来(せいらい)、この説明不可能な感情に悩まされている。

 もし、このマグマのように煮えたぎる『きらい』を素直に表すことが出来たのなら、ここまで苦しまずに済んだだろう。

 だけど、僕には、兄は妹に優しくしなければならないという古風(こふう)な価値観があった。

 己を犠牲(ぎせい)にしてでも妹を助けなくてはならない、とまではさすがにいかないが、『兄らしい生き方をする』というハードルが、他のきょうだいたちよりも高かったのは間違いないだろう。

 だから、僕は内側からせりあがろうとする感情を乱暴に抑え込み、少なくとも表面上は良き兄としてふるまっていた。佳乃を怒鳴りつけたこともないし、手を上げたこともない。優しい妹にふさわしい、優しい兄としてあり続けた。

 妹がきらいだという気持ちと、妹に優しくしなければならないという気持ち。

 このせめぎあいの中で、関係性を築いていった。

 けれど、押し付けたバネが、その力の分だけ反動力を持つように、いつまでもこの関係性が継続できるとは考えていなかった。

 それこそ、一度ヒビが入ってしまえば、完全に修復することなんてできやしないのだ。


 僕が初めて、兄らしさを維持できなくなった出来事があった。

 詳しい日時は忘れてしまったが、佳乃が小学校に入学してまだ日が浅いころ。

 当時、彼女は日曜の朝に放映している魔法少女のアニメに夢中だった。

 そのアニメの主人公が、腰まで届く長髪だったことに影響されて、「今日から、わたしも髪をのばす」と宣言して以降、髪を伸ばし始めていた。

 腰までには届かないものの、十分に長いといえる黒髪は、妹なりに気に入っていたようで、髪を(くし)でとかすなど、日常的に手入れすることが多くなっていた。

 跳ねっ返りのない、糸のように真っすぐな髪は、佳乃の特徴的な瞳に負けず劣らず、みんなの注目を引いた。

 人に褒められても得意げになることがない妹の、数少ない自慢の種だったらしく、よく僕にもその評価を求めてきた。

「ねぇ、お兄ちゃんは、わたしの髪、どうおもう?」

 身をよじらせながら、おずおずと訊いてくると、僕は決まって同じ笑顔をつくり、

「佳乃の髪は、きれいだよ」

 と、答えていた。

 そして、ニマニマと照れたような笑みを浮かべ、サッと自室へ戻ってしまうのがお決まりの流れだった。

 僕は良き兄だった。

「そんなの、ぜんぜん興味ないよ」

 とは、口が裂けても言わなかったからだ。

 だから、僕はこの時までは良き兄だった。


「お兄ちゃん!」

 お風呂上りの佳乃が、じゃれて僕の背中におぶさってきた。

 まだシャンプーの香りを残す長い黒髪が、さらりと僕の体に流れ込んでくる。

 僕は、やめろよと苦笑しつつも、兄らしく妹とのじゃれあいに付き合ってあげた。

 佳乃が、僕の耳元で、今日の学校の出来事を話し始める。

 まだ小学校に入ったばかりの妹にとっては、学生生活の全てが新鮮らしく、やや興奮したような口調だった。

 給食で好きなデザートが出たことや、ウサギ小屋のウサギに初めてエサをあげたこと、放課後、クラスメイトたちとおしゃべりをしたことが、とても楽しかったと語った。

 いつもの僕なら、「それはよかったね」と無難に相槌(あいづち)を打っていたはずだった。

 けれど、それどころじゃなくなっていた。途中から、話が耳に入らなくなっていた。

 僕の首をつたって胸元にまで流れ込んでくる黒髪が、異様なまでに気になってしまった。

 まるで、その一本一本が個別的に生命を持っており、明確な意思をもって僕の首にからみついてくるような、えもいわれぬ想像に襲われた。

 バカげたイメージだとは承知していたが、一度、思ってしまうと、もうダメだった。耳元で羽音がうろついている時のように、全身が粟立(あわだ)つのを覚えた。

 僕の頭の中は、佳乃の髪のことでいっぱいになってしまい、あえぐような声が喉から漏れ始める。苦笑いを続けていた顔が徐々に崩れ始め、頬が痙攣(けいれん)を起こしたように小刻みにひきつく。

 何かに背中を押されるように、僕はポツリとつぶやいていた。

「その髪、ジャマじゃないのか」

 おもっていたより、冷たい声だった。

 対話する気のない、一方的にぶつけるような言葉に、佳乃は過敏に反応した。

 パッと体を離し、僕と向かい合うような位置に座ると、おびえた小動物のように上目遣いでこちらをうかがってくる。

 風呂上がりで血色の良いはずの顔は真っ青になり、落ち着きなく視線をさまよわせている。まるで、突如、異国に放り込まれてしまったような不安を感じさせる表情だった。途中、思い出したように口角を上げたが、それは笑顔と呼びうるものではなかった。

「お、お兄ちゃんは、ジャマだとおもうのかな……?」

 僕の感情を()(はか)るような瞳とともに問いかけてくる。

「うん。僕は、うっとうしいとおもう」

 なんの躊躇(ちゅうちょ)もなかった。

 するりと飛び出してきた言葉が、ナイフと化して彼女の胸に突き刺さっていくのがわかった。

 トドメを刺された佳乃が一気に転落していく様は、外見上に表れた。

 なんとか吊り上げていた口角は下がり、眉はハの字に寄り、口元がわなわなと震え始める。幼い子が泣きわめく前兆(ぜんちょう)だったが、すんでのところで(こら)えているのはいかにも彼女らしかった。

 やってしまったな、とおもった。

 辛うじて保持していた兄としての矜持(きょうじ)に傷がついてしまったのが、子ども心ながらにわかった。

 今からでも挽回(ばんかい)する(すべ)があったかもしれないが、僕の胸は不思議なほどに()いでおり、なんら呵責(かしゃく)を感じていなかった。仮に佳乃が号泣していたとしても、今と変わらぬ平静さであったことは容易に予測できた。

 そして、その事実に最も狼狽(ろうばい)していたのは自分自身だった。

 ……僕はなぜ、こんなにも冷静なんだ。

 今まで苦労して積み上げてきた『兄らしさ』をこうも簡単に突き崩しておいて、他人事のように自分を客観視していることに驚いた。

 たしかに、今まで妹に対しておもうことが何もなかったといえば嘘になる。だが、それにしたってあまりに血の通っていない態度ではないか。顔も知らない第三者と相対しているわけではなく、血の繋がったきょうだいだというのに……。

 と、足元からじわりと侵食してきた当惑(とうわく)に意識が向いていたせいか、いつの間にか佳乃が目の前からいなくなっていることに気づかなかった。

 どこに行ったのだろう。

 辺りを見回していると、控えめにリビングのドアが開いた。

 どうやら自室で髪型を直していたらしく、長い黒髪を器用にお団子状態にまとめあげた佳乃が現れた。

 不器用な笑みをつくって近くに寄ってきたが、それでも僕の表情が変わらないのが不安だったのか、泣きそうな顔をしてソワソワと体を揺らしていた。

「あら、どうしたの。その髪型」

 続けて、風呂からあがったばかりで事情を知らない母が、「かわいくなったじゃないの」と手を合わせて喜んでいたが、妹の表情は晴れなかった。

 僕は、先ほどの発言を訂正(ていせい)すべきだと強く感じていた。

 お前をからかっていただけだよ、と笑いかけて、すべてを冗談のカゴの中に放り込んでしまうのが正解だとおもった。

 だけど、できなかった。

 正解はわかっているのに、答案用紙に何も書き込まない。

 そんな愚行(ぐこう)を犯しているのは嫌というほど理解しているのに、僕は動かなかった。動く気すらなかった。

 妹を傷つける言葉を吐き出したというのに、なぜ……。

 釈然(しゃくぜん)としない、曖昧さからくる苛立(いらだ)ちで、おもわず舌打ちが飛び出そうになる。

 そして何より――その苛立ちの全てを妹に押し付けようとしている自分自身に対して、最も苛立っていたのだった。

 

 結局、すべてを先送りにしてしまった。

 就寝前、佳乃は「ごめんね、ごめんね」と何度も謝ってきたが、彼女自身、謝罪する理由は判然としていなかっただろう。

 無理もない。僕自身だってわかっていないのだ。

 だから寝たふりをして、謝罪には応えなかった。

 暗闇の中、僕の顔を覗き込もうと佳乃が体を動かすのがわかった。だが、これ以上、不機嫌にさせたくなかったのか、途中で体を横にしてしまった。

 まどろみはなかなか訪れなかった。

 なので、僕は長い間、隣で眠る妹の体温を感じながら、()に落ちない感情と戦わざるを得なかった。


 翌日、睡眠不足による眠気で、脳内は(きり)がかかったようにぼやけていた。

 登校してからずっとそんな調子だったので、体調不良のまま授業を受けざるを得ず、五時間目の途中、見かねた担任の教師に保健室へ行くよう(うなが)され、僕は級友たちのせせら笑いを背に受けながら退室する羽目となった。

 足元をふらつかせながら保健室まで辿り着くと、養護教諭(きょうゆ)に「少し休めば良くなるはずです」と説明し、すぐにベッドに飛び込んだ。

 しかし、真っ白いベッドは妙に固くて寝心地が悪く、僕は半分意識を保ったまま、中途半端な眠りについていた。

 もし、今日がなんでもない日だったら、きっと最悪な一日だったと(とら)えていたかもしれない。

 けれど、昨夜の佳乃とのやり取りを一時的に忘却できる利点を考えれば、この体調不良も決して悪いものだといえない。現に、今日はほとんど妹のことを考えずに済んでいる。

 大丈夫……この後、家に帰れば、僕らはいつも通りになっている。仲の良いきょうだいに、戻っているはず……。

 そんなことを考えているうちに、まぶたは重くなり、意識は落ちていった。


 夕方、帰り道をひとりで歩く。

 道路に標示されている『スクールゾーン』の文字の上を慎重になぞりながら進んでいく。普段はこんなことはしない。なんとなく、今日はゆっくりと時間をかけて帰宅したかった。

 十分に休養をとったおかげか、気分はいくらか晴れやかになっていた。

 今なら、フラットな気持ちで佳乃と接することができるだろう。昨日のことを、すべてチャラにできる言い訳はすでに考え付いていたし、彼女もそれを受け入れることはわかっていた。

 つまり、すべて元通りになるのだ。

 多少、脇道に逸れたものの、本道にさえ戻れれば仔細(しさい)ない。反発することなんてほとんどなかったから、お互い混乱していたに過ぎない。そもそも、ふつうのきょうだいならば、この程度のいざこざは日常茶飯事(さはんじ)だろう。

 街灯に光が灯るころ、自宅に到着した。

 ずいぶんと遅くなってしまったな、とおもいながら、カギを開けて中に入る。

 子供部屋にランドセルを置き、乾いた喉をうるおそうとリビングへ向かう途中、

 ……シャキリ、シャキリ、シャキリ。

 刃物を()り合わせるような音が、扉の向こうから聞こえてきた。

 足を止め、ドアの中部に設けられたすりガラス越しに、中の様子を確認する。

 モザイク状でわかりにくいうえに、電気がつけられていないので薄暗く、いまいち判別がつきにくい。差し込む夕陽のおかげで、ようやく小さなシルエットが認められた。

 中に誰かいるらしい。

 いや、考えるまでもなく、佳乃以外にありえない。

 それならさっさとリビングに入ればいいのに、妙な心理的抵抗がドアノブを掴むことを拒否していた。手のひらがじんわりと汗ばみ、喉がさらに水分を失っていく。

 ……シャキリ、シャキリ、シャキリ。

 どの場所よりも長く過ごした自宅だというのに、まるで知らない人の家に無断で入ってしまったかのような緊張感があった。下腹部がキュッと締まるような感覚を覚え、あわや家を飛び出る寸前だった。

 僕は、何をこわがっているのだ……。

 男の子のプライドというべきものが、無言で臆病な自分をなじってくる。

 慣れ親しんだ自宅で(おび)えている事実が、急に気恥ずかしくなる。

 何も取って食われるわけじゃない。この先にいるのは獰猛(どうもう)な肉食獣などではなく、まだ幼い子どもなのだ。幼子相手に恐れる男子がどこにいる。しかも、相手は生まれてからずっと一緒にいる妹だぞ。

 決心がついた。

 ズボンで手のひらをぬぐい、ドアノブをつかみ、音を立てないように押していく。

 視界が徐々に開けていく。

 まず目に入ったのは、リビングのフローリングに放射線(ほうしゃせん)状に散らばる黒い糸だった。

 その中心に座る女の子は、ハサミを手に持って、自身の髪をなんでもないように淡々と切っていた。

 ……シャキリ、シャキリ、シャキリ。

 赤い夕陽も手伝って、まるで抽象的なアート作品のような(たたず)まいとなっていたが、そこに込められているメッセージ性は何もない。

 女の子は鏡すら見ず、ただ己の髪を短くすることだけを目的に、ゆっくりとハサミを入れていく。

 ……シャキリ、シャキリ、シャキリ。

 ためらいは感じられない。まるで藁半紙(わらばんし)を切り刻んでいくような、無感動な手の動きだった。切られた髪は彼女の体をすべり、フローリングをすべり、円を大きくしていく。

 こちらに背中を向けているので、彼女がどんな表情を――否、瞳をしているのかはわからない。いつものような、人を笑顔にさせる明るい光を宿しているのだろうか。それとも……。

 ……シャキリ、シャキリ、シャキリ。

 僕は、ドアの近くから動けないでいた。

 声すらかけられずに呆然と立ち尽くしていた。

 しばらく呼吸を忘れていたことに気づき、ヒュッと喉が開く音が、部屋の中に響く。

 それに呼応(こおう)するように、ハサミを動かす手が止まった。

 女の子はハサミを置くと、ゆっくりと首と体を動かして、背後に視線を移していく。

 不揃(ふぞろ)いな前髪の中からのぞく瞳――僕を見つめる黒い瞳は、驚くくらいに普段通りだった。

 波紋(はもん)ひとつない、鏡のように映る湖面(こめん)彷彿(ほうふつ)とさせる穏やかさが、容赦なく僕を包み込んでいく。

 彼女は僕に声をかける前、頬に張り付いている糸くずに気づき、人差し指で払うと、

「お兄ちゃんのいうとおり、みじかいほうがジャマじゃなくていいね」

 ようやく重い荷物をおろしたような、ホッとした表情が印象的だった。

 僕は、何も答えることができず、阿呆(あほう)のように立ち尽くしていた。


 夜になって、パートから帰ってきた母は変貌(へんぼう)した佳乃を見て、キャッと小さな叫び声をあげた。

 いじめを疑ったのだろう、母は執拗(しつよう)に髪が短くなった原因を(たず)ねたが、佳乃はへらりと笑い、

「髪をね、みじかくしたかったの」

 と、無邪気に答えた。

 それからすぐに、佳乃は母とともに美容室へ行って、長短(ちょうたん)の乱れた髪を整えてもらった。

 けれど、当然のことであるが、一度切られた髪は元に戻らず、彼女は快活な少年みたいな姿になって帰ってきた。

 母はしばらくの間、女の子らしさを失った佳乃の姿を嘆いていたが、肝心の本人はどこ吹く風だった。

 その後、時間が経っていく中で、男子みたいに短かった髪が、ようやく女子らしい長さを取り戻していく。

 が、それから先もずっと、佳乃はショートカットのままだった。

 みんなが褒めていたロングヘアに戻ることは、一度もなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 「わたしのかみさま」を読んだ時も思ったけど、丸木堂さんの瞳の表現が好きです。 この妹にNOと言わせるの頑張って欲しい [一言] 新作嬉しいです! 『彼女にNOと言わせる方法』も「ひきこも…
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