はじまり
きょうだいのあり方は千差万別だ。
我が半身かのように切っても切れない関係性のきょうだいもいれば、互いに凶器で切りつけ合うような関係性のきょうだいもいる。目を合わせることもしないきょうだいもいれば、目を合わせることすら恐れているきょうだいもいる。
僕はおもう。
なぜ、こんなにもバラバラなのだろうか。
たしかに、同じ血を分けた者同士だからといって、何から何まで同じというわけではない。いくら外側は似通っていようとも、その内側まで似通っているとは限らない。
されど不思議なもので、内側の差異が関係性に影響を与えない場合もある。
白と黒のように正反対の性格であっても仲のいいきょうだいはいるし、鏡を写し合わせたように相似していても仲の悪いきょうだいもいる。
では、きょうだいの関係性を決定づける要因とは何なのか。
僕は、あの日からずっと考えていた。
それこそ、死ぬほどのおもいをして考え続けていた。
今でこそ坂道を転がり落ちるような、悪化の一途をたどっているが、答えさえ見つかれば、今の状況を変えられるのかもしれないという、かすかな希望があったからだ。
僕たちも、いつかはありふれたきょうだいになれるはず。それなりに好き合っていて、それなりに憎み合っている、ふつうのきょうだいになれるはず。
そう信じていた。
でも、最近は、徐々にその熱意が失われつつある。
もっとハッキリ言ってしまえば、どうでもよくなってきている。
なぜなら、僕はこれっぽっちも後悔していないと気付いたからだ。
過去を振り返って、「あの時、ああしていればよかった」と悔やむことは誰にだってあるだろう。
だけど、それは自分が違う行動をしていれば、違う結果を生むことができたと確信できている場合だ。
たとえるなら、通り魔に恋人を殺された日を振り返って、「あの時、外へ遊びに行こうと彼女を誘わなければ」と悔やむような。
しかし、僕の場合は違う。
ばかげた妄想になるが、仮に、僕が神さまから、過去に戻ることができる能力を与えられたとしよう。しかもその能力は、あらゆる時間帯に、何度だって戻ることができる、とても便利なものだとする。
そんな能力があれば、悔やむ者なら誰だって過去に戻るはずだ。
さきほど例に上げた彼にしたって、死ぬはずだった恋人の手を握りしめて、「今日はずっと一緒にいよう」と叫ぶに違いない。
でも、きっと僕は何もしない。
それほどの能力を授かったとしても、きっと僕は何もしない。
なぜなら、過去に介入できたとしても、どれほど過程をいじくれたとしても、あの結果だけは絶対に変えられなかったと確信しているからだ。
過去に戻れたとしてもその有様なのだ。いわんや現在をどう変えようというのだ。
ヒトは、どれほど努力しようとも空を飛ぶことはできない。そんな自明のことを悔やむ人がいないように、僕にも後悔はない。
答えなんかあったって、たぶん、どうしようもなかったのだ。
僕にできることは何もなかった。唯一できたのは、観客席に座って、劇の成り行きを見続けることだけ。せめてもの抵抗といえば、その劇が良作であるか駄作であるかを批評するだけ。
ならば、やり場のない、ぬるま湯のような絶望に浸りつつ、底へ向かって沈んでいく他ないじゃないか。
——僕と彼女には、あのような結果しかあり得なかった。
いつしか、そんな言い訳が唯一の慰みになるのだろう。
己を責任の拉致外に置き、心地のよい諦念に身を委ねつつ、僕はゆっくりと絶望に沈んでいく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
沈んでいく。