裏切り者
喫茶店チューリップ。
所長が空いた席に座るやいなや、ウェイトレスがやってきて、レジにある電話を指さした。
「お客様、お電話が入っております」
「ワシにだと?」
「はい。だぶだぶのコートを着て、大きなバッグを持った人にと」
「ふむ、もう来おったか」
所長はすぐさまレジに行くと、受話器に向かってぶっきらぼうに言った。
「おい、金を持ってきたぞ」
『よく聞け。金をテーブルの下に残して、オマエはそこからすぐに立ち去るんだ。そうすりゃ、人質の犬は返してやる』
電話の向こうの声はこもって低い。
「ふむ。で、犬はどうやって返すんだ。まず、それを聞こうじゃないか」
『金さえ手に入れば犬に用はない。帰りにオマエの事務所に寄ってみろ』
「わかった。だが、金は渡すわけにはいかんな」
『どうしてだ! 犬は返すんだぞ』
「たった今、気が変わったんだよ」
『どういうことだ?』
「キサマにやるのがおしくなってな。この金はワシがいただくことにした」
『なんだと!』
「犯人に渡したとことにすれば、すべてそれですむからな」
『犬がどうなってもかまわんのか?』
「どうなろうと、そいつはキサマのせいだ。じきに警察に追われるだろうよ」
『警察に?』
「奥様は言ってたぞ。犬がもどらなきゃ、今度こそ警察に通報するってな」
『オマエってヤツは……』
犯人の声がふるえている。
「からのバッグを残しておけば、キサマが盗んだことになる。捕まるのはキサマだ」
『そのときはバラシてやる。オマエが金を横取りしたとな』
「ああ、何とでも言え。だがな、キサマの言うことなんか、だれも信じやせんぞ」
『オマエ、探偵なんだろ』
「それがどうした」
『裏切り者めが!』
「裏切り者でけっこうだ。金さえ手に入れば、ワシはそれでいい。あきらめて、とっとと逃げるこった」
『クソー』
「やっとわかったようだな。それで犬だがな、すぐにでも返しに行くことだ」
『そうすりゃ、警察には届けんのだな』
「ああ。奥様には届けんよう話してやる」
『覚えてやがれ』
相手は捨てゼリフを残して電話を切った。
所長は席にもどると、手招きをしてウェイトレスを呼んだ。
「ネエちゃん、コーヒーをくれ。ついでにマンガの本を十冊ほど持ってきてくれんか?」
「では先にマンガを」
ウェイトレスが両腕いっぱいにマンガ本をかかえてきた。
ところがなぜか、所長はいっこうにマンガ本を手に取ろうとしない。
続いてコーヒーが運ばれてくる。
そこでやっと、所長はテーブルの下に手を入れて何やらゴソゴソと始めた。
テーブルの上のマンガ本が半分ほどになる。
そこで、ふたたびウェイトレスを呼んだ。
「バッグを、ちょっとあずかってくれんか? すぐにもどってくるんでな」
「承知いたしました」
ウェイトレスは快く引き受けてくれた。
カウンターの方であずかっておくと言う。
所長は席を立ち、喫茶店チューリップを出た。どこへ行くのか、ふくらんだ布袋を下げている。
小一時間ほどたったころ。
所長はふたたび喫茶店チューリップにいた。いつしかもどっていたのだ。
「ふむ」
立ち上がり喫茶店を出る。
所長が座っていたテーブルの下。
そこにはカウンターで受け取ったバッグが残されていたのだった。