刻まれたモノ
名前は有田俊哉。
特別珍しい名前でもないが一七年生きた上で、ずっと使い続けた名前だけに愛着というのは少なからずあった。
家族や親しい友人からは俊と呼ばれ、付き合っていた彼女からは俊君なんて、初めは赤面しながら上目遣いに呼ばれていたのを思い出す。
通っていた学校は進学校で、成績上位者は壁に張り出されるのだが、自分はいつもその中に名前が乗せられていた。運動神経はよく、体育の授業なんかでも運動部に負けないくらいの技術を見せて圧倒し、名を挙げて歓声を上げられるほど。そのため学校ではよく呼び止められ、いつも運動部への勧誘をされていたが常に断っていた。
人生に苦となる部分などなく、楽しく生きていた。そう、何十年も前のことのように、かつて自分がいた世界を思い出す。
――――走馬灯のように。
目の前には口の端から炎をチラチラと転がす大型のトカゲ。否、ドラゴンが迫っていたのを双眼が否が応にも捉えてしまう。
ここは地球ではない別の何処か。
俊哉はほんの数ヶ月前に不慮の事故で死んでしまった。
彼女とのデートの最中、信号待ちしているところを車が突っ込んできて、咄嗟に彼女を突き飛ばした結果、自分だけが死んでしまったのだ。
死んでからどれくらい経ってかは覚えていないが、気付くと何もない空間に立っており、目の前には大学生くらいの女の人が正座していた。
その人はこう言うのだ。
「あなた様が亡くなったのはこちらの手違いなのです。優良な人間であるあなた様にはまだ死んでいただくには早すぎました。申し訳ありません」
深々と頭を下げる。所謂土下座というものを現実に見たのはその時が始めてで、驚きを隠せなかった。しかも、
「申し遅れました。私は女神をさせて頂いております。この度は本当に申し訳ありません。つきましては、あたな様にもう一度すべての記憶を引き継いだ状態ではありますが、転生する機会がございますがいかがでしょうか?」
女神の割に妙に謙った物言いはどこか気になったが、もう一度生き返る事ができるということに心が揺れないわけがない。
現実。非現実。
そのどちらかなど曖昧で捉えようのないものは置いておき、自分が死んだことを何気なしに自覚できたがために、女神の誘いに乗ってしまった。
「左様でございますか。ただ先に言っておきますが転生できるのはあなた様のいた世界とは別でございます。そして契約が成立すると本来あなた様が終えるはずだった寿命まで生き返ることができます。その代わりと言っては何ですが、それらの世界で意思疎通はできるように致します。更には特別な武器も差し上げます。一度振るえば山さえ両断できる剣ですが、持っていると様々な効果がありまして、一つは恐怖の低減――――」
女神の話は続いたが、この時は生き返ることに頭が一杯となっており、何も考えられなかった。だってそうだろう。自分が死んだのだと自覚ができて、その上で生き返させてくれる。
おまけとばかりに目の前に一本の剣を空中に出されたのだ。
確かに今までの生活と別れるのは嫌だったが、生き返ることのできる方がこの時は重要だった。
故に掴み取ったのだ。
あの時は忘れていた、契約の証となる剣を。
その後は順風満帆にことが運んでいた。
女神の加護があるからだなどと、思いあがっていたのかもしれないと言えるほどには。
異世界でも多少時間はかかったものの彼女もできた。
とても可愛い子だ。
気は利くし、何より一緒にいてとても落ち着けたのが大きかった。
しかし今は隣で一緒に震えている。
落ち着くなど到底不可能だった。
複数の仲間とともに、町に危害を加えるという小高い山に住まうドラゴンを退治しに来たのだが、仲間は全員ドラゴンに殺されてしまった。俊哉が女神に授かった剣を抜く前に。
一人は噛み殺され、一人は大質量で踏み潰され、そして一人は今先程炎の息吹で焼き殺された。
その中で真っ先に死んだものがここへ来る前に言ったのを思い出す。まだ早いから止めたほうが良いという言葉を。
上手く行き過ぎていたゆえに、幾度かの戦闘以外恐怖などもなく、ただ名声ばかりを上げていたが故の傲りか。
いや、もう後悔など遅い。
恐怖の権化が目の前に迫っているからだ。
「トシ君。ど、どうしよう……」
彼女が自分の名前を呼ぶ。怯えはて、頼るように。
この娘はどうしても助けたい。自分はどうなってもいいから。
――――この瞬間までそう思っていた。思っていたのだ。
大地が揺れるほどのドラゴンの大きな一歩にかつての記憶が甦る。
車と車がぶつかる音と、ピンボールの玉が跳ねるように目の前に迫りくる鉄の塊。
地球にいた頃の彼女の名を叫びながら突き飛ばし、自分だけは車に巻き込まれ、背後の建物にぶつかり意識がなくなっていくまでの痛みと恐怖を。
瞬間こちらの彼女を突き飛ばしていた。
「トシ、君?」
名を呼ばれるが後ろを振り返らず、ドラゴンに彼女を差し出すように突き飛ばしたのだ。
もう一度彼女が名前を呼んだような気がしたがもう今はわからない。
背後を覆い尽くす炎が音までも焼き付きしたがために。
震えが止まらない。
彼女を差し出したことに?
――――否。
かつて死んだことの記憶にだ。
死ぬのにそう時間はかからなかった。だからこそ殆ど覚えがないのだと思っていた。
だが違った。
自分の脳に、体に刻まれているのだ。死ぬほどの痛みと恐怖を。
それがどれだけ苦しいのか、恐ろしいのかも。
だからこそ無我夢中に走り抜ける。全身を纏うように溢れ出る冷や汗を脱ぎ捨てるように。
剣の補正で上がった身体能力は常人のソレではない。
目の前には崖が見える。高さは五〇メートルほどあるが、着地さえ上手く行けば悪くても骨折程度で済ませられるため、迷わず突き進む。
後六メートル。
今ならば二歩あれば大空に身を任せられる距離だった。
しかし死の恐怖はそれを許さないとばかりに、足が地に引っかかる。
蹴躓いたのだ。
顔面から岩の上に叩きつけられるが痛みはそこまでない。剣の加護のお陰で。
だが、ドラゴンは待ってくれなかった。
焦りから後ろを振り返ると、ドラゴンが背後にある羽を上下に揺らし、滑空してくるところであった。
悲鳴が口の端からこぼれ落ちる。
拒絶するように眼前に突き出した腕であったが、ドラゴンは容赦なく地面に押し潰すように頭から突っ込んできた。
大地を砕き、空中へ投げ出されるが、それでもなお剣の加護の影響で生存できていたが、腰元が軽くなっていることに気付く。
今の一撃で腰に巻いていた剣帯が千切れ飛び、視界の端に映る。
思い出されるは女神の言葉。
剣は身につけていないとその補正は受けられないという言葉を。
だからこそ無様と言われようと空中で泳ぐような真似をして距離を縮めようとする。
剣の加護なしでは五〇メートルから落下すればどうなるかなど言うまでもない。かつて車に受けたぶつかることへの衝撃が脳裏に蘇り、臓器を凍りつかせるほどの寒気で埋め尽くす。
しかし、それとて数秒も続かなかった。
直後に振るわれたドラゴンの尻尾が、背後に振り下ろされたからだ。
声も出なかった。
何トン。何十トンの威力があったかの知る由もない。それほどの衝撃が背骨を折りながら振り切られ、地面に高速で叩きつけられた。
四肢がバラバラとなり、うめき声さえも上げられない状況になっているにも関わらず、埋まった視界の端に最後に見えたのは、千切れ飛んだ自分の腕だった。
そして消えていく意識が再び目覚めることは――――あった。
「お久しぶりです。また死なれてしまったのですね。でも大丈夫。私がもう一度生き返らせますので」
気がつけば、数か月前に見た女神が、再び目の前にいる。にこやかな笑顔を浮かべて。
声も出ない。
こいつが何を言っているのかサッパリ理解できなかった。
思考がまだ完全に動いていないのか、明滅するようにこれまでの経験が思い浮かんでは消えてを繰り返す。
しかしこちらの考えなどお構いなしに続ける。
「今度はどのような世界が宜しいですか? 一応私が担当しているのは全部で四〇三。既に二つ経験しておりますので残りは四〇一通りの世界がございますが……あれ? あぁまたここにいることが不思議なのですね。たまにいるのです。そのような方が。ほら最初に契約されましたよね? あなた様が本来生きるはずだった寿命まで転生できますよと」
聞き流していたが今は確かに覚えている。剣を受け取る前にそのようなことを言っていたのを曖昧ながらも走馬灯が思い出させてくれた。ありがたくないことに。
まだ薄らぼんやりしていた思考だが、遂に覚醒を終えたのか肉体のようにバラバラになっていた記憶が結ばっていく。
そして記憶の全てが繋がった瞬間。眼の前にいるのが女神ではなく悪魔に見えてきた。
既に二度も死の恐怖を味わったのだ。もうあんな体験などしたくはない。
もうこのまま死なせてくれ。
そう言おうとしたのに女神は言葉を奪うように先行して言ってくる。
「残念ですが一人一人の寿命を終えるまで生を終わらせることは、私達の上位から断られているのです。すみません。契約前ならばまだどうにかできたのですが一度契約を交わすともう履破棄できないのです」
そして悪びれもせず、営業トークのように二度目の死刑宣告をしてきた。
「さぁ、俊哉様。今度はどのような世界に致しますか?」