03.学校の怪奇現象【3】
逢魔が時……それは、昼から夜に切り替わる時間。太陽が沈み、月が現れる時間。もっと単純に夕刻と言ってもいい。
千草は、昼に後にした学校に来ていた。いまだ瑠依と合流出来ていないが、なんだかんだ言って彼女は来てくれるのだろうと思う。
熱心な生徒は、まだ残って勉強している。だが、夏場は日が暮れるのが遅い。すでに午後7時近いので、さすがにそろそろ残っている生徒も下校するだろう。そう思いながら、千草は二階の鏡の前に来た。朝に瑠依がしていたように、鏡に手を触れる。
鏡の中から、黒髪を切りそろえた少女が見つめ返してくる。
鏡は映す。人の姿を、人の心を。
鏡は『出口』。『道』が、どの出口につながるかは常に不安定。
だから、今日もつながるかもしれない。
吊り上り気味の眼が目力を増した。
と、唐突に、鏡の中の自分が笑ったような気がした。もちろん、千草自身は笑っていない。
「なっ……!」
声をあげた瞬間、鏡に触れていた右手が引っ張られるような感覚がした。強く引っ張られてあらがえず、千草は鏡の方に倒れ込んだ。しかし、鏡にぶつかることはなく、そのまま鏡の中に入り込んだ。
「い、痛い……っ」
思い切りよく地面に衝突し、千草は身を起こして体をさすった。打った肩と膝が痛い。
痛みをこらえつつも振り返り、自分が倒れてきた方を見た。すると、そこには千草と同じ姿をした誰かが立っていた。
「! お前!」
駆け寄ろうとしたが、透明な障壁があってそれ以上進めない。千草の姿をした何か、に手が届くことはなかった。
千草と同じ姿をした『何か』は、鏡の中に閉じ込められた千草を見てにやりと笑うと、身をひるがえして離れて行った。千草は障壁をたたく。
「ちょっと! 待ちなさい! どこ行くのよ! ここから出しなさいよ!」
閉じ込められた不安もあるが、自分が閉じ込めただけなら出る方法が見つけられるかもしれない。しかし、今離れて行った『何か』が何をするかわからない。千草の姿で人に危害を加えたりしたらどうしよう。
「……いいえ。落ち着くのよ。瑠依が近くにいるはず。それに、あいつを見たら、貴人たちは私じゃないと気付くはず……」
姿は同じだが、中身は違うのだ。人とは違う方法で相手を認識することができる十二天将なら、中身の違いに気付いてくれるだろう。あの『何か』が千草の形をした全く別のものだと気付くだろう。
それに、近くには瑠依がいるはずだ。千草が危機に陥ると、必ずと言っていいほど助けてくれる彼女。今日も、そばで様子を見ていたはず。よくわからないが、十二天将よりもよっぽど力が強く、高位の神であるらしい彼女なら、気まぐれでもよきに計らってくれるだろうと思う。
「……よしっ」
心を落ち着けた千草は、この障壁の内側から抜け出すことを試みてみることにした。障壁に手を当て、小さく呪文を唱えた。千草の髪が霊力に飲まれてふわりと浮きあがる。
だが、すぐに千草は舌打ちした。
「ダメか……力が弱いのかしら」
かなり強い霊力を持つ千草であるが、先祖である安倍晴明やそのほか歴代当主に比べると、その力はやや劣る。閉じ込められたのが兄だったら、もうとっくの昔に障壁を突破してきていても不思議ではなかった。
ふと、背後に気配を感じた。霊力の影響なのか、千草は直感に優れている。かといって運がいいわけではないのだが、いわゆる『嫌な予感』はよく当たった。
ゆっくりと振り返る。そこには。
「っ! きゃああああっ!」
体の溶けた死体が動き回っていた。古事記にイザナギが死したイザナミを取り戻そうと、黄泉の世界に向かう話がある。
その話と同じような光景が、千草の目の前に広がっていた。
どろどろの体が、千草に襲い掛かる。
「来るなーっ!」
千草はとっさに印を切り、目の前に不可視の結界を展開した。襲い掛かってきた死体たちは跳ね返される。
ここから逃げ出したい。だが、逃げ出すには障壁を突破しなければならない。焦る心を何とか鎮め、千草は考える。
「落ち着くのよ、私……瑠依は、なんて言ってた?」
この世とあの世の境。入り口は一つ。出口は不安定。出口から入ることもできるし、入口から出ることもできる。鏡は、そんな不安定な出口の一つ。
不安定ということは、必ずつなげることもできるはず。瑠依は十二天将・勾陣はそう言った力を持っていると言っていた。
十二天将は人間より神に近いが、神というより神のような人間と言うべきかもしれない。だから、十二天将が似ている人間が、彼らができることができても不思議ではないのだ。
大丈夫。向こうの世界とこの世界はつながっている。千草はあの世に足を踏み入れたわけではない。まだ境目だ。まだ、引き返せる。
ぱんっ、と大きく柏手を打つ。うっかりしたことに、数珠を忘れてきてしまったが、呪符は持っている。
「私に真実を差し出せ!」
とっさに思い浮かんだ言葉を述べると、その場所が崩壊していくのを感じた。
だが、この時千草は忘れていた。場が崩壊していくとはいえ、出口が閉じたわけではない。いわば道が崩落しただけで、無理やりなら通ることができるのだ。だから、本当はこの崩壊していく場を閉じる作業をしなければならなかったのだ。
「よしっ!」
もとの現実空間に出ることができた千草は、その瞬間に走り出した。
背後に、『出口』を通って黄泉の世界の生物たちが迫っていることに気付かずに。
△
脱出した千草は自分と同じ姿をした『何か』を探していた。外はすっかり暗くなっており、さすがに1人だと心細さを感じる。
「どこ行った……?」
少なくとも姿は自分の写しなのだからすぐに見つかると思ったのに、甘かったようだ。暗い校舎内を一人で歩き回りながら、千草はつぶやいた。
千草は近くに何かの気配を感じ、ぞくりと体を震わせた。立ち止って慎重に周囲を見渡す。そして。
「ああ、なんだ。瑠依か」
少し離れたところで長身の友人の姿を発見し、千草はほっとした。微笑んで歩み寄ろうとしたが、その前に違和感に気付いた。
瑠依の雰囲気は、こんなものではない。彼女も鳥肌の立つような気配を発しているが、それは神の神通力による怖気だつような神々しさによるものだ。多だ、この瑠依は異質で……恐い。気配が瑠依とは正反対だ。
千草はとっさに印を切った。
「失せろ!」
近づかれる前に先制攻撃である。本物の瑠依であれば、千草がどれだけ攻撃したところでけろりとしているだろう。なので、仮に千草の勘が外れて本物であったとしても問題はない!
攻撃が直撃した。しかし、瑠依らしきものは崩れた体をすぐに修復した。瑠依も超人的な回復力を持つが、ここまでではない。彼女は半分人間なのだ。
「よるなっ!」
千草の力が光りとなって瑠依らしきものの眼をくらました。だが、根本的な解決になっていない。千草が更なる術を使おうとしたとき、その瑠依らしきものの胸のあたりから剣の刃が突き出した。
「私に化けようなんて、百年早いよ」
「瑠依っ!」
本物の瑠依が、自分の偽物を剣で貫いている。千草の攻撃に何のダメージも食らっていなかった偽物は、自分を突き刺している瑠依を見て……笑った。
「けけけけっ! 巫女神! 役目を放棄した巫女神! お前のせいで、世界は死に絶える! 我らがこの世界を手に入れる!」
「うるさいよ」
眉を吊り上げた瑠依は、横ざまに剣を振った。自分の姿によく似たそれを振り払い、目の前から消した。
「……」
「……」
何となく沈黙が続く。千草は「えーっと」と言葉を探した。
「その、助かったわ」
「いや、少し遅かったね。すまなかった」
瑠依がいつもと同じように微笑み、いつもと同じような口調でそう言った。千草は内心ほっとして言葉をつづけた。
「なんだったの、あれ」
というざっくりした質問に、瑠依はこともなげに答えた。
「あちらの世界の生き物だな。擬態が中途半端だったが……私や千草の姿を形どろうなど。やつらには無理だ」
どうやら、黄泉の世界の生き物で間違いないらしい。確かに、姿はよく似ていたが、中身はまったく似ていなかった。あれでは瑠依が中途半端、と表現しても不思議ではない。
「っていうか、『千草の』って言ったわよね。私に擬態したその生き物、見たの?」
「すれ違いざまに斬った」
「……」
さすがは半分神なだけある。やることのスケールがただの人間の千草とは違っている。瑠依の感情や考え方は、神よりも人間に近いと思うのだが、こういう思い切りの良さは神の血なのだろうか。
「というか、あれが出てきたということは、誰かが代わりに『入った』か、出口が開きっぱなしなのか?」
「あ、私が代わりに入った」
おそらく、鏡でのことだ。『出口』の前に立った千草は、鏡の中……というか、鏡の『向こう側』に閉じ込められた。その千草の代わりに、黄泉の世界のものが出てきてしまったのだろう。瑠依の言葉で何となく納得した千草であるが、すぐにさっと蒼ざめた。
「る、瑠依! どうしよう!」
「どうしようって、どうした」
気が付いたら、落ち着いている瑠依が信じられない。千草は動揺しきって訴えた。
「私、術を使って向こう側から出てきたけど、出てきたところを閉じるの忘れた!」
「……」
瑠依は自分の服の袖を引っ張る千草を目を細めて見つめ、「まあ、落ち着け」と彼女の手をたたいた。
「出てきてしまったものは仕方がない。心配しなくても、冥府の官吏がすぐに扉を閉じたはずだ」
落ち着いた瑠依を見て、千草は少し落ち着く。というか、冥府の官吏はそんなことまでしているのか? その疑問が顔に出ていたのか、瑠依は「まあ、冥府の官吏の役割は現世の安定を保つことだからな」とさらりと言ってのけた。
陰陽道は陰陽で分けられる。生者の世界である現世は陽、死者の世界である黄泉は陰。黄泉の世界が流れ込んでくるということが、陽が陰に転じる。つまり、この現世も死者の世界となってしまうということだ。
たとえ、冥府の官吏がすでに千草が出てきたあとを閉じていたとしても、それまでに出てきたものがいる。それらは、何とかしなければならない。
「大丈夫だって。千草は陰陽師だろう」
そう言って、瑠依は千草の肩をたたいた。半泣きになっていた千草は、瑠依を見上げて思った。
それ、私に頑張れってこと?
どう考えても、半分神である瑠依の力の方が大きい。だが、人間の雑事は人間ががんばれということか?
瑠依は半分神であるだけあって、気まぐれなところがあるのだ。それを思い出し、千草は涙をぬぐってぐっと拳を握った。
「もちろんよ!」
「いい返事だ。早速来たようだぞ」
そう言われて瑠依が示す方を見ると、おぞましい姿の黄泉の生物が集団で向かってきていた。千草は声にならない悲鳴を上げる。
「大丈夫。失敗しても、私が控えているからね」
瑠依は自分が矢面に立つ気はないようだ。覚悟を決めて、千草は印を組んで呪文を唱える。
「破っ!」
術が横なぎに放たれるが、全ての黄泉の化け物を浄化させるには至らなかった。おそらく、千草の祖母や兄なら、もっとうまくやるのだろうが……。
弓を持ってくればよかった。邪魔になると思ったが、こんなところで必要になるとは。
陰陽師でありながら、千草が放つ矢は破魔矢だ。つまり、浄化の力が強い。こんな時にこそ、効果を発揮すべきなのである。
「私に真実を差し出せ!」
さらに呪文を唱える。千草だけでは手に負えないと判断したのか、傍観していた瑠依が千草の横に立った。
手を差し出す。清浄な波動が瑠依から放たれた。
その波動は波紋となり、次々に黄泉の化け物に襲い掛かる。金色に輝いても見える波紋に触れた化け物たちは後ずさり、明らかに力を弱めた。
「やはり、最後は陰陽師が締めるべきだね」
力をおさえた瑠依が、そう言って千草に微笑んだ。何となく、瑠依から指導を受けているような気持ちになってくる千草だった。
だが、千草は瑠依の指示通り、最後に呪文を唱えた。
「あるべき姿に戻れ!」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
やはり、このペースだとなかなか進みませんね……まあ、これ以上間隔を狭めることはできないのですが。