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第920話 「アドリーヌの帰郷《58》」

 先程までは、誰も居なかった筈なのに……

 いつの間にか……長身痩躯の男が居た。

 

 フェルナンの傍らには、ルウが穏やかな表情を浮かべて立っていた。


「久し振りだな、フェルナン」


 落ち着いたルウの声を聞いたフェルナンは、自分の記憶を呼び覚まそうとした。

 しかし、頭が酷く重い。

 思い出そうとしても、思い出せない。

 悪魔シトリーと忌まわしい魂の契約をして以降は、所々の記憶が抜け落ちていたのだ。


 今も、頭に霧がかかったようになっている。

 ただ最後に悪魔から言われた事は、はっきりと覚えていた。

 シトリーが、自分とタチアナの魂を存分に貪り喰らうと告げた事を……


 だが、自分は今こうして夢のような、まるで天国みたいな世界に居る。

 何故……なのだろう?

 生まれて初めて……死への恐怖で声が震える。


「お、俺は……し、死んだ……のか? ル、ルウ! たっ、頼む……教えてくれ」


 フェルナンの覚悟を決めた問い掛けに、ルウは笑顔を見せた。

 何か、手でゼスチャーをしている。

 座ってから話そう、という事らしい。


 ふたりは草原の上に座った。

 ルウは先程の質問にあっさり答える。


「いや、お前は死んではいない」


「え?」


 死んではいない。

 フェルナンに生き延びた喜びと共に、一抹の不安がよぎる。

 ならば、自分は今どこに居るのかと。


 ルウは、フェルナンの胸中を見透かしたかのように言う。


「ここは楽園《エデン》を模した異界。俺が創った異次元の世界だ。大丈夫、俺とお前は確かに生きているのだから」


「確かに……生きている? とは………俺はお前に助けられた……というわけか」


「そういう事だ」


「……そうか、ここは確かに居心地が良い」


 フェルナンは改めて辺りを見渡した。

 ここは、とても寛げる場所だ。


 雲ひとつない、果てしない青空。

 遠くで鳥が何羽か、のんびり飛んでいた。


 地上は黄緑の絨毯に覆われた広大な草原。

 森が、いくつも点在している。


 頬にあたる風が爽やか。

 気持ちも安らぐ。

 殺伐とした王都暮らしが長いフェルナンは、大きなため息をついた。

 目の前の光景は故郷を思わせ、ひどく懐かしい気分になったから。


 一方、ルウの表情は、相変わらず穏やかだ。


「ここは人間を癒す効果がある異界だからな。魂にダメージを受けたお前には最適な場所だ」


「現実感があるようで夢のようにおぼろげな世界だ……だ、だが! そ、そうだ!」


 フェルナンが「ハッ」とし、力の入らない身体に無理をして立とうとした。

 ルウが、さっと手で制する。


「まあ待て! お前が今、名前を言おうとした者の話は後だ。但し、安心しろ、その人は無事だから」


「そ、そうか!」


 心配した人間の安否を聞き、フェルナンは、ホッと胸を撫で下ろした。

 続いてルウへ、尋ねる。


「……な、なら、他の皆は? 俺の家族やアドリーヌは?」


「心配するな、全ては終わった……お前の家族もコレット家の者も無事だ。もはや俺達を脅かすものは何もない」


「となると……シトリーは……あの悪魔は?」


「あいつは俺が倒し、封じた。悪魔に穢され、傷つけられたお前の魂は、俺が既に修復した」


 さらりと言うルウ。


 フェルナンは目を丸くした。

 悪魔シトリーは並みの悪魔ではない。

 魂を支配されたフェルナンには良く分かっていたからだ。


「お、お前!? あ、あの! あ、悪魔を倒したのか?」


「おう、何とかな」


 当たり前のように言うルウを、フェルナンは呆気に取られて見つめていた。

 暫くして、フェルナンは顔を伏せてしまう。

 漸く、様々なものが繋がった。

 散らばり、欠けた点の記憶が、一本の線となったのだ。


「そうなのか……何から何まで……お前に助けられたのか……俺は心の底から、お前に感謝しなければならない。礼を言わなければならない」


「もう良いよ、不可抗力の部分もあったから仕方がないじゃないか」


「す、済まない!」


「おっと、まだ無理をするな。魂は修復したが、ダメージは完全に抜けていないからな」


「あ、ありがとう! わ、悪いが頭がぼうっとして……何とかお前と会話をするのが精一杯……騎士の癖に礼を尽くせないなんて……俺は最低な奴だ……」


「お前は駄目じゃない、これ以上自分を責めるな」


「…………」


「たまたま悪魔に心の隙を衝かれて魂を乗っ取られた。だがもう大丈夫……お前は充分、人生をやり直せる」


「やり直す? ……罪深いこの俺がか……許される事なのだろうか?」


「それはお前自身の問題さ。そうだな………俺の知るある男は重大な罪を犯して冥界へ行く事がほぼ決まっている。だが彼は国や家族、友の為に生きる事を選んだ……今は周囲に支えられしっかりと生きている……俺は彼を誇りに思っている」


 ルウは、リーリャの父ボリスを思い浮かべていた。

 悪魔にとりつかれ、肉親さえも殺そうとした義父。

 結末が見えた辛い人生だが、前向きにベストを尽くしている。

 先日リーリャから聞いた話によれば、より一層頑張っているらしい。

 人生は諦めたら、そこでお終いなのだ。


 フェルナンは感に堪えないという雰囲気で聞いていた。

 そして、ぽつりと呟く。


「……羨ましいな、その男が……俺には……」


「お前も同じだ。大事な家族が居るだろうし、親しい友も居る筈だ」


「…………」


「それに、お前の心に開いた大きな穴を埋める者はちゃんと居る。だが、それこそお前次第なんだ」


「俺……次第?」


「もう二度と手を放しちゃいけない。お前が愛すべき相手は、アドリーヌではないからだ」


「手を放してはいけない? ……愛すべき相手はアドリーヌではない? あ、あああっ」


 ルウが言い放った言葉。

 瞬間、フェルナンは悟った。

 自分が本当に愛する相手とは誰なのかが……


「フェルナン、だいぶ回り道したが……最初から、お前には分かっていた筈だ」


「た、確かに……分かっていた。ナンパをしたり、女の子と酒を飲んで遊んだり……全てが逃げなのさ」


「逃げか……後悔により傷ついた、心の修復に必要な時間だったのだろう?」


「心の修復? ルウ、お前……上手い事を言うなぁ」


 漸く、笑顔を見せたフェルナン。

 まだ弱々しいが、本来のフェルナンへと戻っているようだ。


 ルウも嬉しそうに言う。


「おっ、ダメージが抜けて来て、少しは物を考えられるようになったか? 逃げるのは良くないなんて誰が決めた? 諦めずに巻き返せば問題ないだろう」


「巻き返せ……か。気持ちが前向きになる言葉だが……俺にはもう遅い……」


「遅い? 果たしてそうかな?」


「どういう……事だ?」


「お前の選択次第だと言った筈だ。お前の人生はこれから充分やり直せるんだから」


「フェルナ~ン!」


 その時!

 ルウとフェルナンの会話に割り込むように、女の声が届いた。

 フェルナンには聞き覚えがある。

 と、いうか絶対に忘れられる筈がない。


「な!?」


 驚いたフェルナンが声のした方向を見た。

 いつの間にか……

 ルウとフェルナンが居る所から、少し離れた場所にふたりの女が立っていた。

 

 ひとりはシルバープラチナ髪の小柄な少女。

 そしてもうひとりの女に……フェルナンは見覚えがある。

 

 フェルナンは大きく目を見開く。

 しっかり確かめようとして。


 ……間違いない。

 錯覚ではない。

 忘れようにも忘れられない。

 心の底に無理矢理仕舞い込んだ、愛する女の泣き顔がそこにはあった。


 フェルナンは思わず叫ぶ。


「タ、タチアナ~!!!」


 生きる張りを失くした筈の男が、自分を取り戻す……

 気力に満ちたフェルナンの声が、大きく異界に響いていたのであった。

ここまでお読み頂きありがとうございます。

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