第914話 「アドリーヌの帰郷《52》」
モーラルが転移魔法でフェルナンと共に脱出すると、異界の崩壊に拍車が掛かった。
何もない、真っ白な空間にいくつもの亀裂が走る。
亀裂は、びしびしと音を立てて、あっという間に全体へと広がって行く。
今迄、煌々と明るかった異界がどんどん暗くなって行く。
やがて壁が崩壊し、瓦礫と思しき大量の落下物がルウに降りかかる。
しかし良く見れば、全てがルウに衝突する前に弾かれていた。
目に見えない魔法障壁が、ルウを守っているのだ。
崩壊する異界に立つルウは、目を閉じて身じろぎもしない。
と、その時。
いきなり空間に、しわがれた低い男の声が響く。
「ははははは、さすがはルウ・ブランデル。シトリーの背後に居る儂の存在を見抜いていたか?」
「そうだ、ネビロス、最初からな。お前は俺と戦って以降、自ら手を下さないようにしているからだ」
ずばり声の主の名を言い放つルウ。
ルウへ話しかけた声の主は、確かに悪魔元帥とも冥界の死霊術師長とも呼ばれる大悪魔ネビロスだ。
降霊術に優れ、未来を予知する悪魔であり、大悪魔アスタロトの配下とも言われている。
フェルナンとタチアナの魂を、シトリーに喰わせ肉体のみの存在とする。
そしてふたりを傀儡である不死者の王、王妃として配し、この地を死者の国とする。
恐るべき陰謀を画策していたのは、ネビロスだったのである。
「儂の可愛い真竜王を容易く浄化した戦い、そして我が配下イポスの失敗……それが分かっていて、危ない橋を渡るなど、愚か者のする事だからな」
※第268話、第717話参照。
「それで今回は、シトリーをお前の手先として使ったのか?」
「ああ、おだてたらすぐ乗ってきたわい……まあ、奴は腐っても72柱のひとりだ。死者の国を作るまで、足止めくらいにはなるかと思ったが……無駄であった」
足止め——時間稼ぎ。
しかし、ネビロスの真意は違う。
ルウは、ゆっくりと首を振る。
「違うだろう? 死者の国など二の次……本当の狙いは俺だ。おびき寄せ、シトリーで測ろうとしていたな……俺の力を」
「お前の力を測る? ああ、当たりだよ。シトリーは足止め及び、お前の力を測る物差しだと考えていた」
「相変わらず、姑息な奴だ」
「姑息? いや、知略と言え。儂と違って、シトリーは悪魔の中でも愚か者の最たる存在だ。人間を見下げ、単なる土くれとしか見ておらぬ」
確かにシトリーは、人間を見下げていた。
土くれで創られた、悪魔が喰らう単なる餌としてしか見ていなかった。
ルウが僅かに微笑む。
「土くれか……あいつからは、散々そう呼ばれたな」
「ふふふ、……土くれ……人の肉体とは確かにそうかもしれぬ。だが……肉体の中に輝く魂は創世神に似せて創られておるからな……無限の可能性を持つ恐るべきものだ」
ネビロスの言う通り、人間の無限の可能性とは、肉体内に在る魂から生じる力である。
魂から生じる力の質と量が有機体である人間を活性化させ、肉体の力強さにも結び付く。
具体的に言えば、魂レベルの成長によるランクの昇格、魂の核から湧き出でる秘められた魔力量が根幹となる。
創世神が自らに似せて創った人間の魂は、宇宙のような無限の広がりと成長力を秘めているのだ。
「俺の力が読み切れない……だから、お前は人間である俺を怖れ、本体をどこか別の異界に置いて、追跡不可に、居場所を掴まれないようにしているな?」
ルウが問うと、即座にネビロスの答えが返って来る。
「当たり前だ、儂は用心深い」
「…………」
「儂は、な。未知の存在ともいえる、お前の正体が気になって仕方がないのだ」
黙り込んだルウへ、ネビロスはずばり本音をぶつけた。
無理もなかった。
渾身の『作品』である真竜王を浄化され、腹心の部下であったイポスを囚われの身とされたのだから。
「俺の……正体だと?」
ルウが眉を顰めると、ネビロスは更に強調する。
「そうだ! お前の正体だ! 単なる人の子でありながら、それだけ強大な力を振るえる不可解さ、お前自身も気になるだろう」
「…………」
またもや無言になった、ルウ。
片やネビロスの言葉は益々、熱を帯びて来る。
「お前の使った、完全な翼、抜き身の剣……これらは偉大なる神の御業……あの創世神が選ばれし使徒へ与えた最強たる防御と攻撃の力なのだ。最も寵愛した使徒ふたりへな」
「…………」
「翼を与えられたひとりは貶められ冥界の最下層へ堕ち、剣を与えられたひとりは祝福され今や天の使徒達を束ねる輝かしい存在となった……お前はその強大な力を……何と併せ持っている。……何故に?」
「…………」
「ははははは! お前が何故返事をせずに、無言を貫いているかは分かる……お前はもう悟っているのだ……しかし、その真実を口に出す事は禁じられている」
「…………」
「何故ならば、お前の秘密がこの世界の理であり、禁忌だからだ……知ろうとする者は容赦なく消されてしまう」
「…………」
「だが! ははははは!」
ネビロスは高らかに笑う。
「口に出さずとも、既成事実を積み上げれば良い……儂の仮説を裏付ける事実さえ揃えば、お前の秘密は誰の目にも明らかになる」
隠された、ルウの秘密を暴く。
ネビロスの意図は、どこにあるのだろうか?
「それで……どうする?」
「ふふふ、どうするかのう? 高貴なる4界王さえ、付き従うお前だ。どちらにしろ、力のない儂は今の内に恩を売っておくのが得策だろうて」
嫌味ともいえるネビロスの物言い。
ルウは相変わらず、問いに対して答えない。
「…………」
「さあて、シトリーを夢魔の妻に討たせたのだ。ルウ、今度はお前が力を振るえるように、儂が舞台を用意してやったぞ」
ネビロスが言い切った、その瞬間。
シトリーの創った異界は完全に崩壊した。
がらがらと壁が崩れ落ちると同時に、異界は闇に包まれた。
腕組みをして立ち尽くすルウの姿も、漆黒の闇に飲み込まれてしまったのである。
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