第913話 「アドリーヌの帰郷《51》」
全身を夥しい氷柱に撃ち抜かれたシトリーの身体は、空中から異界の地へ地響きを立てて落下した。
悪魔特有の、真っ蒼な血を大量に撒き散らして……
ルウ達の周囲に吐きそうな臭いが漂い、異界の地が真っ蒼に染まって行く。
血の海の中で、全身がズタボロになって倒れているシトリーは、ぴくりとも動かない。
シトリーを撃ち抜いたのは、単なる氷柱ではない。
通常の水属性攻撃魔法の氷柱であれば、ここまでのダメージは与えられない。
モーラルが放ったのは、高貴なる4界王のひとりである水界王の、強大な魔力が籠められた特製の氷柱であった。
渾身の攻撃魔法により倒れ伏したシトリーを、モーラルは厳しい目で見つめていた。
数多居る悪魔の中でも、シトリーほどの上級悪魔は……基本的に不死である。
本体の魂さえ無事であれば、未来永劫生き続ける事が出来る。
仮初の肉体を、どれほど損傷され、潰されようが全く関係ない。
復活する為に結構な時間はかかるが、何度でも甦るのだ。
それ故、目の前の肉体は死んでいるが、シトリー自身、真の死は迎えてはいない。
残念ながら今のモーラルには、まだ悪魔の魂を打ち砕くまでの魔力はないのだ。
しかしルウが敢えて、モーラルに任せたのは彼女の気持ちを尊重したからである。
当然モーラルも、ルウの気遣いを分かっていた。
「ありがとうございます、旦那様。私の気持ちを尊重して頂きまして……お陰様で奴へ一矢報いる事が出来ました。」
「ああ、当然だろう」
シトリーは、愛と情欲を支配する悪魔である。
人間——特に女の理性を破壊し、獣へと堕とす。
堕ちた使徒シトリーにとっては、まさにそれが本能であり、女を獣にするのに理由などない。
そのシトリーが本能を満たす為の手駒として、通常の配下である中小の悪魔以外に目を付けたのが夢魔であった。
人間が心の箍を容易に外してしまう『夢』という異界こそ、シトリーが情欲を支配する場所や手段として最適だと目を付けたのである。
その為に夢を司る魔族、夢魔は貶められたと言って良い。
シトリーが配下にしたのを皮切りに、他の上級悪魔も夢魔を配下にし出したからだ。
強大な力を持つ悪魔共に抗う力のない夢魔は征服され、支配されるしかなかった。
こうして夢魔達は性格と能力も極端に変えられ、人間に害を為す片割れとして怖れられるようになってしまったのである。
夢魔のモーラルにとって、同族を貶め、支配したシトリーは不俱戴天の仇でもあったと言えた。
ルウとモーラルが見守る中……
異界の地に伏したシトリーの亡骸から、そっと何かが抜け出した。
不定形の霧のような物体だ。
これこそ、シトリーの本体である魂=精神体であった。
しかし、ルウが見逃す筈がない。
「シトリー、お前は所詮哀れな当て馬だが……このまま無罪放免というわけにはいかないな」
ルウの声が響くと魔法が同時に発動され、別の異界へ逃げようとしたシトリーの精神体が動けなくなった。
「俺が捕らえた他の悪魔同様、お前もひとりになって暫し考えてみる事だ。この世界に誕生した自分の存在価値を、な」
今迄にもルウは、何人もの大悪魔と戦い、許した上で従士としている。
また倒した悪魔のうち虐殺の大公ベリト、愚者の貴公子イポスを殺さずに捕らえていた。
今回のシトリーに関してもベリトやイポスと同じ処置をするつもりだ。
夢魔のモーラルにとっては仇ではあるが、チャンスを与えようと考えている。
ルウには悪魔シトリーの魂を砕き、虚無の世界へ放り出すつもりはなかったのだ。
いつの間にか、ルウの目の前に黒色をした硝子の小瓶が浮かんでいる。
一度入れられたら容易くは出られない、強力な魔法がかけられた『魂の檻』であった。
ピン!
指を鳴らしたルウは特殊な魔法を発動したらしい。
瓶の蓋が勢いよく弾け、少し離れた真上でぴたりと止まった。
シトリーの精神体はすううっと、瓶の中に飛び込む
ルウが再び指を鳴らすと「カポン」と音を立て、蓋が元の瓶にはまる。
こうして悪魔シトリーは完全に封じられてしまった。
ルウに何か万が一の事が起きない限り、シトリーは人間に害を加える事が出来なくなったのだ。
「お見事です」
同じ魔法使いとして、モーラルが感嘆する。
いつか自分もこのような魔法を発動したいと思う。
彼女にとってルウは夫であると同時に偉大なる魔法の師匠である。
とてつもなく高い目標ではあるが、モーラルはめげたりしない。
魔法で小瓶を消し去ると、ルウはモーラルへと向き直る。
「モーラル、フェルナンを頼むぞ」
「了解です! シトリーに穢されたフェルナンの魂がこれ以上損傷しないように、私から魔力を与えます」
優れた魔法使いではあるが、モーラルにはルウがかつてナディアの魂を修復したような禁呪は使えない。
致命傷を負わないようにしたとはいえ、フェルナンは魂に相当のダメージを受けていた。
人間として無事に復活する為には、ルウの回復魔法による治癒が絶対に必要なのだ。
「今の状態を上手くキープしてくれ。悪いが、俺にはまだやる事がある」
「はい! 旦那様の仰る通りです。このままにはしておけません。アドリーヌ姉の故郷である、この地に蠢く悪の根源はまだ滅ぼされてはいませんので」
モーラルが言うように、まだこの地には黒幕が残っていた。
その黒幕こそがこの地のどこかに潜み、シトリーを手先として使っていたのである。
当然ルウも分かっているからこそ、このまま残って決着をつけるのだ。
「分かった、そろそろこの異界は崩壊する。今からお前とフェルナンをエデンへ送る」
エデンとは、ルウが楽園を基にして創った独自の異界。
強力な魔法結界により守られており、ルウに異変がなければ安全地帯として使える。
※第893話他参照
ぴしぴしぴし!
ルウが言った通り、真っ白な異界には所々亀裂が走っていた。
創造主であるシトリーが封じられ、魔力の供給が止まった異界がその姿を保てず崩壊するのだ。
「ご武運を!」
そう言いながら、モーラルの表情に心配の色はない。
夫であるルウを完全に信じている。
どうやら、黒幕と言う敵が誰なのかも分かっているようだ。
ピン!
再び、ルウの指が音を立てて鳴った時、モーラルと意識を失ったフェルナンの姿は崩壊しつつある異界より消え失せていたのであった。
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