第911話 「アドリーヌの帰郷㊾」
頭部に受けた凄まじい衝撃のせいで倒れ、地に伏したシトリーの背後から、モーラルの声が響く。
「うふ、ひと言訂正しておくね」
モーラルの含み笑いを聞いたシトリーは、歯噛みして悔しがる。
「ぐぐぐ、この小娘めぇ、貴様、てめぇの足で……俺の頭を! ……蹴りやがったなぁ!」
「うふ、汚らしい夢魔と言ったけど、訂正。哀れな夢魔と言い換えておくわ……不可抗力で仕方なく戦ったけど、あの子達……とっても哀れだから」
「貴様ぁ!」
「誰もが夢魔と聞けば、怖れ忌み嫌う……だけど本来の夢魔はあのような淫魔とは違う…… 何故ならば夢魔とは……夢を司る気高い魔族だから」
「かああっ!」
モーラルから言われ放題のシトリーは、怒りに燃えて吠え、必死に起き上がろうとする。
しかし、いくら力を入れても身体は鉛のように重く全く動かなかった。
「夢とは人が持つ未来への希望……生きたいという意思を駆り立てる力」
モーラルは歌うように言う、
「もしくは人が、生きて来た過去を振り返る時に必要とする大切な思い出……だから夢って素晴らしいもの、その夢を司る夢魔は本当なら意義のある生き方が出来る素敵な魔族なのよ」
「黙れぇ! ふざけるなぁ、殺すぞっ!」
シトリーが恫喝しても、モーラルの言葉は続いている。
「その夢魔を汚らしい淫魔へと貶めたのは、下司な男の本能をむき出しにしたあんたのような輩」
「小娘ぇ! やめろと言っているだろうがぁ、戯言をっ! 貴様も夢魔の癖に」
貴様も夢魔……
シトリーの物言いを聞いた、モーラルの口角がすっと上がる。
「愚かね、あんたは……夢魔だから分かるんじゃない」
「くあっ」
「私は人間として生まれる筈が……夢魔として生まれた。……ショックだったわ」
「があああっ」
「だけど私は……あんたの配下とは全く違う生き方をしている。それは今迄出会った人々から、愛し、愛される、そして慈しむ心を教えて貰ったから……」
「いい加減にしろ! 寝言をぬかすなっ、小娘め!」
シトリーは起き上がろうとした。
何か、物理的な衝撃を受けた後は魔力で身体の自由を奪われているのが分かる。
納得がいかなかった。
大悪魔、冥界の公爵たる自分がこのような夢魔の小娘にいいようにあしらわれているのが。
シトリーは魔力を急激に高める。
身体の自由を取り戻すために。
しかし込めた魔力が急激に失われて行く。
間違いない。
自分の魔力が吸収されているのだ。
パチン!
誰かが指を鳴らす音がした。
身体を押さえつけていた力が急激に緩む。
そっと試してみると、背中の翼も動かす事が出来た。
シトリーの背にあるのは巨大なグリフォンの翼。
羽ばたかせれば、強大な風を吹かせる事が出来る。
背後に居る、夢魔——モーラルと名乗った小娘を吹き飛ばし、形勢を逆転させる。
そして振り向きざまに容赦なく攻撃し、殺す。
判断したシトリーは、即座に反撃を実行した。
翼から暴風が発生し、計算通りモーラルは吹き飛ばした。
と、笑みを浮かべたシトリーが振り返って見たものは……
椅子に座らされたフェルナンの傍らに立つふたりの人間。
長身痩躯な黒髪の男、小柄なシルバープラチナの美しい少女。
ルウとモーラルであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
土くれと呼び、蔑む相手が目の前に居る。
それも今迄散々、自分をコケにした生意気な夢魔と一緒だ。
シトリーは巻き起こした暴風がきいていないのに驚く。
と同時に、怒りが燃え上がる。
「かあっ、貴様、土くれだなっ! いつの間にっ! 畜生!」
悔しがるシトリーを見た、モーラルが鼻を鳴らす。
「ふん! 馬鹿ね、あんたは本当に……たかが従士の私がこの異界へ来れたのなら、主である旦那様も同じ事が出来るのは当たり前」
モーラルはルウを心の底から愛すると同時に魔法の師としても惚れ込んでいる。
自分には及びもつかない器の持ち主。
でも一歩でも近付きたい。
彼女の生きる張り合いのひとつである。
ルウは穏やかに微笑み、首を振る。
モーラルの魔法使いとしての才能を認めているからだ。
「ははっ、モーラル、謙遜だな……さてシトリー、貴様の打てる手は全て尽きた。チェックメイトだ。フェルナンは……返して貰う」
ルウはシトリーに観念するようにと告げている。
しかし、シトリーはまだまだ負けたと思っていない。
「ははははは! 馬鹿な事を言うな! 俺が手詰まりだと?」
「ああ、そうだよ」
「はぁ? 夢魔も土くれも戯言が得意なようだ。それにその男はもう手遅れだぞ、俺の名が魂に深く刻まれているからな。そして散々喰わせても貰った、後はそいつの核を喰らうだけだ」
シトリーはフェルナンと契約したと同時に魂を喰っていた。
囚われたフェルナンが気付かぬように少しずつ……
「ほう? フェルナンの魂を喰ったのか? じゃあ聞こう、美味かったか? それは」
「かかかかか! そうだ、美味かった! 悪魔の俺には最上の味だったぞ、嫉妬と憎悪と殺意がミックスされた最上品だ」
勝ち誇るシトリーであったが、ルウとモーラルは全然動じていない。
それどころか、内輪話を始めてしまう。
「へぇ、美味かったですって……旦那様は、凄いですね」
「ああ、中々だったようだ。じゃあ、また今度作るか? 誰か従士にでも?」
「駄目ですよ、旦那様。折角皆、人間の食事を楽しんでいるのですから」
蚊帳の外に置かれたシトリーは、ぽかんとしてしまう。
「き、貴様ら! 何を言っている? わけがわからんぞ!」
怒鳴るシトリーに対して、モーラルが嫣然と微笑む。
「あんた、まだ分からないの? 本当に馬鹿ね!」
「何だと!」
「あんたが美味いと言って食べた魂は旦那様が創った疑似の魂よ。……本当の魂の上に被せた偽物なんだもの」
「な!? ななな、何だとぉ!」
自分が喰らったフェルナンの魂が!?
偽物!?
そんな馬鹿な……以前に喰らった人間の魂以上に美味かったのに……
唖然とするシトリーへ、ルウが追い打ちをかける。
「ああ、モーラルの言う通りだ。……俺は以前、お前のような悪魔に喰われた少女の魂を禁呪で修復した。それの応用だ」
「う、嘘だ!」
「信じる信じないはお前の勝手さ。俺にはモーラルの調べでお前がフェルナンの魂に名を刻み、いずれ贄とする事は分かっていた。それで魂を喰われないように疑似の魂もどきを被せた。フェルナンの本当の魂は無事だよ」
落ち着き払った態度を見ても、どうやらルウが言う事は本当らしい。
だが、シトリーにはまだ切り札がある。
「ぐぐぐ、糞っ! だ、だが魂に俺の名を刻んだのは間違いないっ、それは消せんぞ!」
しかし!
ルウはシトリーの切り札もしっかりと見抜いている。
「おお、安心しろ。それも対処済みだ」
「ななな、ふざけるな!」
「ふざけてなどいない。疑似の魂を創った俺が刻まれたお前の名を放置するわけがない。ただ全てを変えればお前は警戒する。だから僅かなアナグラムで対応したんだ」
アナグラムとは、言葉の綴りの順番を変える事だ。
そして別の言葉や文章を作る遊びである。
ルウの言葉を聞いたシトリーは目を大きく見開く。
「まさか、こいつに刻まれた俺の名を!?」
「ああ、変えておいた。フェルナンがお前に完全に支配されないよう、さりげなくな……」
信じられないとばかりに、シトリーは呆然と立ち尽くしていたのであった。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
旧作の大幅加筆リメイク版ですが。
『帰る故郷は異世界! レベル99のふるさと勇者と新米女神』
http://ncode.syosetu.com/n4411ea/
故郷に帰れなかった青年が少年に転生し、美少女と異世界の田舎村で暮らす話です……
何卒宜しくお願い致します。




