第831話 「魔法女子学園オープンキャンパス⑨」
アニエスはいきなり目が覚めた。
今迄ずっと夢を見ていたような気がする。
五感ではっきりと感じる怖ろしく現実的な夢であった。
目覚めて不思議な事がいくつもある。
最近の中では飛びぬけて目覚めが良かった。
加えて言えば、夢などは起きた瞬間に忘れてしまうのに、今迄体験していた事を鮮明に覚えているのだ。
天国のような異界に自分が存在していた事、本物と見間違うばかりのリアルな幻影、そして温かく広いルウの胸……
アニエスは優しい異性に対して思い切り甘えた事も含めてはっきりと思い出す。
このような事は生まれて初めての経験だ。
友人から聞いていた初恋……かもしれない。
「おお、気がついたか?」
聞き慣れた声が耳へ響く。
この声は……
「お、お祖父様!?」
「すっきりしたという顔をしているぞ。気分がとても良さそうだな」
「わ、私は?」
「少しの間、眠っていた。先程、面談をしていた教室からルウ殿に運んで貰ったここまでな」
アニエスは慌てて周囲を見渡した。
ルウの姿はない。
自分が横になっていたのは素朴なデザインの肘掛付き長椅子であった。
目覚めたアニエスを、対面の椅子に座ったアンドレが慈愛の篭もった目で眺めている。
「ここは?」
「魔法女子学園内の別棟にあるルウ殿の研究室だ」
「え? ルウ先生の研究室……」
確かにアニエスが座っている肘掛付き長椅子の脇には、頑丈そうな木製の本棚があり、魔導書らしき分厚い本が何冊か並べられていた。
その隣には同じ木製の棚があり、奇妙な形をした魔道具らしきものがいくつか飾られている。
「そ、それでルウ先生は!?」
アニエスはきょろきょろする。
どうやら奥に小部屋があるらしい。
人の……気配がする。
「ああ、奥でお茶の用意をしてくれている。アールヴ特製のハーブティーを振舞ってくれるそうだ」
「お、お茶の用意ですって!? いけない! わ、私、手伝いに行きます!」
「ほお!」
貴族令嬢であるアニエスは家事などした事はない。
雑務は当然使用人が行う。
どうして手伝うなどという発想になったのか?
アンドレは思わず驚いたが、アニエスは祖父を置いたまま、一目散に駆け出して行った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ルウ、アンドレ、アニエスは座ってカップのお茶を啜っている。
研究室にハーブの爽やかな香りが満ちていた。
ルウはにっこり笑う。
アニエスが献身的にお茶の用意を手伝ってくれたからだ。
「ははっ、アニエス。手伝ってくれてありがとうな」
「いいええっ! ルウ先生、このお茶、凄く美味しい! それにとっても落ち着きます」
目を閉じてハーブティーを味わうアニエス。
愛する孫が「変わった」のを見てアンドレも嬉しそうだ。
「おお、確かに美味しいな。うむ、いくつかの茶葉が混ざっているようだ。これは特別なブレンドのなのかな?」
「さすがですね。まあ、そんなところです」
アンドレに問われたルウは曖昧に笑う。
もうルウに対する『調査』は始まっていると分かっているのだ。
一方、アニエスがいつの間にか俯いていた。
先程までと比べて明らかに元気がない。
「…………」
「どうした、アニエス」
「うううっ、ご御免なさいっ」
アニエスは頭をぺこりと下げた。
自分の至らなかった点を認識して改めて反省したのであろう。
「アニエス……やっぱりお前はいい子さ」
ルウが優しく声をかけて頭を撫でてやると、アニエスは気持ち良さそうに鼻を慣らした。
アンドレにとっては不可解極まりない。
他人のそれも初対面の男性に頭を撫でられるという侮辱的な行為を、アニエスは嫌がるどころか、喜んで受け入れているからだ。
「むう……全く話が見えないぞ。アニエス、一体何があった?」
アンドレが訝しげな表情で問うが、アニエスは可愛らしく首を傾げる。
「うふふ、秘密で~す。ね、ルウ先生」
「ははっ、そうだな」
朗らかな今のアニエスには話を合わせてやった方が良い。
ルウも「その通り」と、笑顔で返したのだ。
こうなったら、あまり深追いしない方が良い。
事情は後でルウに直接聞けば良い……
アンドレは素早くそんな計算をした。
「ははははは! ま、良いだろう。アニエス、お前は今澄んだ目をしておる。邪気が全く無いぞ」
「邪気!? ううう……否定出来ません」
祖父から邪気と言われたアニエスは相当堪えているようだ。
心当たりが多過ぎるのであろう。
「ははは、どうやらいろいろと学んだらしいな。どちらにしても喜ばしい」
祖父から成長を認められたアニエスは、アンドレに向けて思い切り身を乗り出した。
何か強い決意を秘めた眼差しだ。
「お祖父様! 私、お願いがふたつあります」
「ほう! ふたつか?」
「はいっ! ひとつはお姉様へのお詫びです。きちんと謝罪したいのですが、立会人になって頂けますか」
「立会人?」
「はい! アニエスが本当に反省した事をお祖父様にも知って欲しいのです」
アニエスは居丈高になって姉を罵倒したのが嘘のように反省している。
普段は生意気な口を利いても、根は姉思いの優しい子なのだ。
アンドレはとても嬉しかった。
「分かった! それでもうひとつは?」
「はい! ちょっと呼吸を整えさせて下さい」
す~は~、す~は~
「準備OKです! ……では言います! 私、お姉様同様に防御以外の魔法も学びたいのです。ブレヴァル家の家訓には背きますが、どうぞお許し下さい」
「…………」
「駄目でしょうか?」
アニエスは黙り込んだ祖父の真意を測るかのように問うた。
しかしアンドレはあっさりとアニエスの希望を認めてくれたのだ。
「いや、構わない。というか、私は喜ばしいと思う。様々な魔法を学ぶ事はとても大切だ。私達がブレヴァル家に生まれてさえいなければ最初から堂々と学べていたと思う」
「お、お祖父様! で、では!」
感極まって確かめるように、アニエスは問う
「ああ、どんどん学べ。マティアスには私から話しておく」
「お祖父様……お姉様から聞きましたが……お姉様が同じお願いをした時に反対したお父様を叱りつけたというのは本当だったのですね」
「ああ、叱った。マティアスの奴、家訓破りを許容するのかと不満たらたらだったがな」
「お祖父様に叱られて、お父様ったら後で湯気を出しそうになるくらい怒ったのかしら?」
「ああ、私の居ない場所で、多分頭からぶわっと派手に噴射するくらい怒っただろうな」
「うふふふふ」
「ははははは」
心配して損した……
アニエスは思う。
やはり先程、祖父にスルーされたのは決して見捨てられたからではない。
ルウの言う通り、祖父は全て見通していたのだ。
自分と姉はとても愛され且つ理解されているのだと実感出来る。
アニエスはすっきりした。
そして……急に燃えて来たのである。
来年この魔法女子学園へ入学してバリバリと魔法を学んでやる、という激しい向上心だ。
コンコンコン!
いきなりノックの音がした。
アンドレにもアニエスにも聞き覚えのある叩き方だ。
ノックに対してルウが答える。
「よっし、入ってくれ」
「失礼します、ルウ先生。何か御用でしょうか? ……あ!?」
ノックをしたのはステファニーであった。
どうやらルウが呼んでおいたらしい。
「おお、ステファニー! 良く来たな」
ルウが気安げに声を掛けるが、いきなり登場した姉を見て妹は吃驚した。
「お姉様! どうしたの?」
「お祖父様、アニエス! ……何故ここに?」
ステファニーも、祖父と妹が居るとは報されていなかったらしい。
「ちょっと事情があってな。個人面談を俺の研究室でやっている。ちょっとだけお前にも手伝って貰おうと思ってな」
「私が……アニエスの個人面談を?」
「ああ、そうさ。じゃあアニエス……」
「はい! ルウ先生」
アニエスは大きく息を吸い込み、大きく吐いた。
「お姉様! 今迄お姉様を誤解して酷い事を言いました。本当に御免なさい!」
「は!?」
驚くアニエスに対して、ルウが穏やかに微笑んだ。
「ステファニー、アニエスもお前同様、物事の本質に気がついた。様々な魔法をどんどん学びたいという意欲に燃えている。……可愛い後輩が出来たな」
「そうなんだ……分かったわ」
ステファニーはすぐ状況を理解したようだ。
すっと右手を差し出す。
「お姉様!」
アニエスも立ち上がって右手を出した。
仲直りした姉妹はがっちりと握手する。
「うふふ、アニエス、これからも宜しく。でもまずは入学試験に合格しないといけないわね」
「うん! 頑張るわ!」
「じゃあ時間はあまりないが、個人面談再開だ」
ルウが悪戯っぽく片目を瞑ると、アンドレとアニエスもにっこり笑って頷いた。
15分後……
短い時間ではあったが、アニエスは質問したい事を全て終え、満足する答えを貰ったようである。
「じゃあ、次は学園内ツアーね。最初はさっきの闘技場で行う模擬授業でしょう? ルウ先生、早くぅ」
アニエスはルウの手をしっかり握ると勢い良く立ち上がろうとする。
「ああっ、こらぁ、アニエス!」
ステファニーの制止する声など一切聞えないように、アニエスはルウの手を取って研究室の扉へ突進した。
そして、扉の手前でくるりと振り返る。
「お姉様! ひとつ言っておきますよ」
「い、いきなり、な、何!?」
「お姉様は上手く私を丸め込もうとしてブレヴァル家の名誉云々と仰いますが……」
「…………」
「高貴な家柄のお婿さんを迎えて、栄えあるブレヴァル家を継ぐのはお姉様です! 私は他家へお嫁に行きますので宜しく!」
「え、えええっ!? まさか!」
「は~い! 相手はご想像にお任せしま~す。行こっ、ルウ先生!」
アニエスはそういい捨てると扉を開けてあっと言う間に駆け去ってしまう。
勿論、ルウも一緒に……
「ははははは! ステファニーよ、一本取られたな」
「…………」
聡明な妹は全てを見抜いていた。
アンドレに声を掛けられたステファニーであったが、ショックのあまり言葉も出せずに立ち尽くしていたのであった。
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