第75話 「邂逅」
ナディアは「ふう」と軽く息を吐き……
父エルネストの顔を見ながらゆっくりと語り始めた。
「父様、ボクは愚かで悪い娘だったんだ……」
「ナディア! お前が? 絶対にそんな事はない!」
「ううん……じゃあ、最初から話すよ……父様、ボクが学園の生徒会の副会長をしているのは知っているよね?」
ナディアは父に問う。
エルネストが頷くと、ナディアは辛そうに笑い、話を続けた。
「いつも2番目、ナンバー2……どんな場所でもいつもボクの前には誰かが居た。この学園ではジゼルだった。またそうなのかと思った……でも、いつもの事だと割り切るつもりだったんだ……」
ナディアの目は過去を思う、遠い目となっている。
「葛藤するボクの前に、悪魔ヴィネが現れた……」
「あ、あ、あ、悪魔だとぉ!!!」
「落ち着いて下さい、シャルロワ子爵」
思わず大声で叫ぶエルネストに対して、アデライドは冷静になるようにと声を掛けた。
「ドゥメール伯爵! こ、これが落ち着いていられる「鎮静!」か……ああ」
なおも喚くエルネストに対し、ルウの魔法が発動する。
荒い息をして、大声をあげていたエルネストはあっという間に静かになった。
「御免よ、父様。吃驚するよね、いきなり悪魔なんて」
ルウの魔法により、落ち着いたエルネストは娘の顔を見てハッとした。
ナディアの切れ長の眼には、涙が一杯に溜まっていたからである。
「子爵、1番辛かったのはナディア本人なのですよ」
「う、うう……」
「でも彼女は、既に悪魔から助けられてこの通り無事なの。貴方の気持ちは分かるけど、まずは落ち着いて話を聞いてくださいね」
アデライドは落ち着いた口調でエルネストを諭した。
そう言われるとエルネストも黙って話を聞くしかない。
仕方なく唇を噛むとゆっくり頷いた。
「ありがとう、アデライド母様」
愛娘が……
アデライドを『母』と呼んだ事にもエルネストは吃驚する。
しかし家格も爵位もアデライドの方が上であるせいもあり、渋い顔で黙っているしかない。
「父様、ボクはある日、上級召喚術の訓練をしていたんだ」
ナディアが召喚訓練中に発動した魔法は……
たまたまとんでもない異界に繋がってしまった。
その異界から現れたのが……
ヴィネと名乗る怖ろしい悪魔であったと。
「ヴィネはすぐにボクの心を読み、その隙を突いて来た」
いつも通り、2番手に甘んじたままで良いのか?
お前は……けして満足していない筈だ。
我と契約すれば、確実にトップになれる、強大な力を与えてやると……
悪魔特有な人間の魂の隙を突いた、巧みな誘いであった。
「その時……ボクは正直幸運だと思ってしまった。そして自分の欲望に負け、ヴィネの囁きを受け入れ……支配されてしまったんだ」
ナディアは元気なく俯き呟いた。
「ボクはとても愚かだった。確かにヴィネは強力な魔力をボクに与えてくれた……だけどその代償は……」
ナディアはそう言うと顔を上げ、全員の顔を見渡した。
「ボクの魂そのものだったんだ……」
話はどんどん核心に近付き……
ナディア以外の者は言葉を発せず、静まり返っていた……
「ある日ジゼルから……ルウ先生との勝負に協力して欲しいとの話があった時、ボクは絶好のチャンスだと思った。勝負に勝って名をあげた上で、ジゼルを消耗させ……」
そこまでナディアが言いかけた時、
ルウが黙って立ち上がると、ナディアの隣にそっと座る。
「も、もし! ジ、ジゼルが! 魔物に食い殺され、死んでも構わないと考えていたんだ!」
「いや、違うな」
「え?」
ルウからいきなり否定の声を掛けられ、ナディアは戸惑った。
彼女を優しく抱き締めると、ルウは告げる。
「断じて違う! お前は心の負の部分を悪魔ヴィネに誇張され、そう思わされていただけだ。けしてお前の本意ではない」
「ル、ルウ!」
「大丈夫だ、何も問題は無い。俺は勿論、この場の全員がお前の事を信じている」
「あ……」
「お前は誰にでも優しく、細やかな気配りが出来る素敵な女の子だから」
「あ、ああ、ううう……」
ナディアは優しく励まされ、安心して感極まったのか……
ルウに取り縋り嗚咽する。
そんなナディアの背を優しくさすってやり、ルウは彼女に話を続けるように促した。
「さあ、もう少しだ。全てを話して父上を安心させてやれ」
涙ぐむナディアは……
嬉しそうに頷くと、ルウから渡されたハンカチで涙を拭き、続きを話し始めた。
「狩場の森での試合の前……遂にボクの魂を貪る時だと思ったのか、ヴィネはボクの魂の核を抜き出し心の『奈落』へと沈めた」
「奈落は酷い場所だった……」遠い目をしてナディアは呟く。
「……人間の負の感情の集積場―――それが『奈落』さ。ボク、自分が沈められて良く分かった……」
そして、ナディアはホッとしたようにルウを見た。
死の縁から生還した安堵感が、彼女には満ち溢れている。
「沈み逝くボクの周囲は……凄い腐臭と何も見えない汚泥だった。奈落の底に行くにつれて五感が奪われて行った。
……例えれば王都の外れにある『泥の池』みたいなものかもね……でも父様、聞いて! 『奈落』は、あの池よりもっと酷いんだ」
ナディアの言った『泥の池』とは……
いつからか王都のゴミが不法投棄されるようになった場所である。
元々は澄んだ美しい水が湧き出る小さな池であった。
しかし人間のし尿や生ゴミ、生活排水、果ては人間や動物の死体まで捨てられるようになると……
見る影も無くなり、現在は耐え難い異臭を放つようになってしまった。
最近は、ゴミを捨てる不届き者以外は近寄る者など皆無なのである。
ナディアに言わせれば『奈落』の酷さはそれ以上。
エルネストが身震いをする。
『奈落』のとんでもない酷さを想像したのであろう。
「ボクの魂は……奈落の1番深い底に、何も出来ずに横たわっていた……もうヴィネに魂を食われるしかない状態でね。もし父様だったら、そんな所に潜れる?」
「でもね!」
と、ナディアは父の返事を待たず、ルウの方を振り向いた。
「でも彼は……ルウは助けに来てくれたんだ!
ボクを餌にして、アデライド母様やフラン姉様、ジゼルをも餌食にしようとした悪魔ヴィネを倒すという危険を侵した上で! 自分の命も顧みずに!
……そしてボクの傷つき、穢れた魂を救い上げ……優しく浄めてくれた……」
ルウはじっとナディアを見守っている。
そんなルウを、ナディアは慈愛の籠もった目で見つめていた。
「下手をすればルウ! 君だって死んでいたんだよ!」
ナディアはルウに対して叫ぶと、感情が激しく高ぶったのか、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「嬉しかった! 嬉しかったよ! 父様! 悪魔に騙された上、罪も無い人を巻き添えにして、生きる希望もなく、絶望しかなかったボクを助けに! 命を懸けて助けに来てくれたんだよ、ルウは!
助けられたボクはその場で、今の話を全て告白したんだ。
でもルウは、こんな酷い人間であるボクを非難もせず、全て受け入れてくれた。
優しく励まし、前を向こうと言ってくれた。……
一緒に帰ろうと抱き締めてくれた!
こんな人にはもう、絶対巡り会えない!」
ナディアはエルネストに向き直り、正対する。
「だからお願いします! 父様! ボクがルウと結婚する事を許してください」
「ナ、ナディア……」
「ボクは悪魔に魂を穢された子です。でもルウだけではなく、フランシスカ姉様と、アデライド母様もボクを受け入れてくれたんだ。ボク――絶対に幸せになる! お願い! 父様!」
「…………」
エルネストは必死で叫ぶナディアをじっと見守っていた。
そして、返事をする代わりに立ち上がると……両手を大きく広げた。
対して、ナディアも勢いよく立ち上がり、エルネストの胸へ飛び込んだ。
「ナディア」
全てを知った父は……
優しく愛娘の名を呼び、しっかりと抱き締めたのである。
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