第740話 「暗殺者の姉妹」
ブシェ商会の転覆を企てたバンジャマン・ベカエールはロドニアのヴァロフ商会で一から出直す決意だとルウに約束した。
ルウは彼に新たな名前を与え、姿形を変えてザハール・ヴァロフの右腕フィストこと大悪魔メフィストフェレスの下へ送ったのである。
「さあ、次……だな」
「はいっ、旦那様」
バンジャマンが忽然と消えたホテルの部屋に立つルウとモーラル。
ルウがピンと指を鳴らすと2人の姿もバンジャマンに続いて消えたのである。
一方――
ここはルウの創りし、亜空間である異界。
バンジャマンを襲った2人の刺客はこの世界で気を失い倒れていたのである。
2人は気が付くと周囲をそっと見渡した。
標的を襲ったのが、夜であった筈なのに今は昼。
そして2人が居るのは緑一色と言って良い見渡す限りの大草原であった。
昇った太陽が、顔さえも隠した2人の黒装束姿にはそぐわないほど、爽やかに降り注いでいた。
「これは……どうした事だ? ここはどこなのだ?」
「姉さん……私にも分からない……これは一体?」
暗殺者の2人は初めて言葉を発していた。
2人以外には人の気配が皆無だからである。
会話の声からすると2人は若い女、それも姉妹らしい。
その時であった。
「ははっ、気が付いたようだな」
いきなり若い男の声が響く。
姉妹には聞き覚えのある声であった。
先程、彼女達と戦った相手に間違いない。
「き、貴様たち!」
「束縛の魔法も解けたようだな」
「ぬう!」
何とルウとモーラルが2人から15mほど離れた場所へいきなり現れたのだ。
座り込んでいた2人はすっくと立ち上がり、身構えた。
「寄るなっ!」
「そうだっ、私達に寄るなっ!」
姉妹2人の声が重なった。
そして姉が、さも汚物でも見たかのように吐き捨てる。
「汚らわしい!」
「汚らわしい?」
聞き直したルウに対して姉はきっぱりと言い放つ。
姉は憎悪の表情を浮かべ、モーラルを指差していた。
「そうだっ! そこの女! 会った時にすぐ分かったが、お前は何というおぞましい存在なのだ」
今度はモーラルの眉間に不機嫌そうに皺が寄る。
「おぞましいだと?」
「私達には分かる! お前は人間に擬態してはいるが、その本性は我々の忌み嫌う吸血鬼! それもモーラと呼ばれる下司な夢魔だっ!」
正体を見破られたモーラルではあったが、平然と言い返した。
「だとしたら……どうする?」
「殺す! 吸血鬼は問答無用に全て殺すのが我等が宿命! 根絶やしにしてやるっ!」
大きな声で叫ぶ姉。
今度はルウがモーラルを庇うように前に出た。
「殺す……か。 お前達なら必ずそう言うだろうな」
姉はルウに問い質す。
「く! き、貴様! 何故だ!?」
「何故?」
ルウはいつものように穏やかに微笑んでいた。
そんなルウが姉にとっては許せない。
人間がおぞましい人外と一緒に居る。
そんな事は彼女の倫理的な価値観から許すわけにはいかないのだ。
「そうだ! 人の子の癖に何故、その忌み嫌われる夢魔と平気で居る。おかしいだろう?」
姉の質問に対してルウは微笑んだまま、ゆっくりと首を左右に振った。
「おかしくないさ。この娘は俺の大事な嫁だから」
「な、に!? よよ、嫁だと!?」
「ああ、いつか俺の可愛い子を産んで貰おうと思っている大事な大事な嫁さ」
いきなり発せられたルウの言葉に吃驚したのはモーラルである。
「可愛い子!? だ、旦那様っ!」
「ははっ、頼むぞ。モーラル」
「ううう……は、はいっ!」
ルウの言葉を聞いて、モーラルは思わず涙ぐんでいる。
しかし、何故か暗殺者の姉妹は今のルウ達の会話に過敏と言っても良いくらい反応した。
「何っ! こここ、子供だとっ! ならん! あってはならん! そんな事はさせないっ!」
「姉さん、やはり!」
「ああやはりそうだ! 魔に魅入られた者め! 私達の命に代えても殺す! 絶対に殺す!」
激高する姉妹へルウは穏やかに言う。
それはまるで身内に対して優しく諭すような言い方であった。
「残念ながらお前達には今、物の本質が見えていない。モーラルが一体何者なのか分かっていないのさ」
「何だと! 単なる夢魔ではないかっ!」
「やはり分かっていない……実はモーラルは、お前達と同じなんだ」
謎めいた事を言うルウに、姉妹はますます怒り狂う。
「私達と同じだと!? ふ、ふざけるな!」
「そうだっ!」
これ以上は話し合いにならないと思ったのであろう。
ルウは初めて戦う事を提案した。
「俺と戦ってみれば分かるさ」
これは姉妹も異存はない。
この奇妙な世界から脱出する為には、術者らしいこの男を倒すしか無いと、本能的に感じたからである。
「望む所! 私達は血と屍の中を戦い抜き、己の運命を切り開いて来た。敗れたときは死ぬ時! いざ、勝負だっ!」
「ははっ、お前達の武器を返そうか?」
ルウがにっこり笑ってナイフを返そうと持ちかけたが姉妹は揃って首を振った。
「武器など要らぬ! 私達2人はこの肉体そのものが武器なのだっ!」
……こうしてルウと姉妹の戦いは始まったのである。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「な、何っ!」
「くっ! 姉さんっ」
それは姉妹にはとても意外な事であった。
姉妹2人がかりの必殺の攻撃を、ルウに軽く捌かれてしまうのだ。
黒装束の2人の体術はあのドゥメール家の家令ジーモンの殺人的な拳法を更にえげつなくしたような技である。
それは人間の身体の仕組を完全に超越した技であったからだ。
ありえない柔軟性。
ありえない関節の曲がり方。
そしてありえない速度。
当然、通常の武道では禁じ手とされる技も使われている。
目、鼻、股間等、様々な急所への攻撃である。
しかしルウは身体を少し動かすだけであっさりと躱してしまうのだ。
まるで全てを予測するように。
「うおおおおっ!」
姉が吠える。
膠着状態……いや、完全に「遊ばれている」状態に対して遂に業を煮やしたらしい。
いきなり速度をあげたのだ。
姉は残像を見せながら、相手に動きを読ませないようにし、同時に急所3箇所への攻撃をする。
人間の速度を軽々と超越した突きと蹴りが繰り出された。
それはまるでミンミが使ったリシン流の必殺剣「無明」の拳法版のようであった。
しかし!
びしっ!
「が、ぐっ!」
うつ伏せになる形で、地に伏してしまったのは姉の方であった。
ルウに全ての攻撃を見切られて、逆に背中に拳を受けてしまったのだ。
「ああっ! 姉さんっ!」
「わ、私に構うな! 奴をこ、殺せ! 殺すんだっ!」
「で、でも! あ?」
妹は慌てて飛び退った。
いつの間にか目の前にモーラルが立っていたからである。
「ば、馬鹿な!」
見ると姉を倒したルウは少し離れた所で腕組みをしてこちらを見詰めていた。
「今度は私が相手よ、……妹さん」
う、腕が違い過ぎる。
絶望感が妹の脳裏を過ぎった。
「ち、畜生! たあああっ」
しかし妹は雄叫びをあげてモーラルに飛びかかっていったのだ。
――5分後
姉妹は2人とも地に伏していた。
「く! こうなったら!」
「は、はいっ!」
2人は自死を選び、舌を噛もうとした。
だが!
「あ、ががが」
「ぎぎぎ」
何故か!?
何故か口が動かないのだ。
姉妹は冥界の底へ堕ちるような無力感に囚われながら、ルウとモーラルを見上げていたのであった。
ここまでお読み頂きありがとうございます!




