第658話 「王子の帰還」
鋼商会直営の居酒屋愚か者でしこたま飲まされたロディオンは、千鳥足で社員寮の自室に戻っていた。
倒れ込むようにベッドに横になり、深い眠りについたロディオンではあったが、習慣とは怖ろしいものである。
たった1週間の生活習慣の筈なのに彼はきっちり午前2時に目を覚ましたのだ。
「ここは……」
ロディオンが眠っていたのは、見覚えのある質素な部屋ではない。
鋼商会が、社員の為に用意した寮ではなかったのである。
ロディオンの育ったロドニア王国の建築様式を反映した豪奢なつくりの部屋……
ここはどうやらホテルの一室らしい。
それも結構な一流ホテルの部屋のようだ。
とんとんとん……
控えめな音で、続き部屋から優しくノックがされる。
まるでロディオンが今、起床したのを把握しているかのようだ。
「だ、誰だ?」
ここで狼狽して大声をあげるほど、ロディオンも肝が小さくはない。
しかし緊張から若干声が硬い。
「ははっ。俺さ、ロディ」
親しげに自分を呼ぶ声にロディオンは聞き覚えがあった。
先日、誤解も解けて散々本音で話し合った相手である。
高まっていたロディオンの緊張は一気に解れてしまう。
「おお、ル、ルウか?」
「そうだ、良かったらトレーニングに行くか?」
「トレーニング!? ああ、そうか! は、入ってくれ」
ロディオンがあっさりと入室を許可したので、音も無く扉が開き、ルウは滑り込むように部屋に入って来た。
トレーニングを誘うだけあって、ルウは既に革鎧姿である。
そして……
「ははっ、これはお前が使っていた愛用品だろう」
ルウはロディオンがセントヘレナで愛用していた素朴な革鎧を抱えていたのだ。
あのメイスンがロディオンの為に用意してくれたものである。
愛着のある革鎧を見たロディオンは自然と笑顔になった。
「おおっ、……ありがとう、ルウのあ・に・き」
ルウは黙って革鎧を差し出す。
ロディオンは手を目一杯伸ばし、満面の笑みを浮かべて革鎧を受け取ったのであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「1,2! 1,2!」
深夜のロフスキに若い男の声が響いている。
気合を入れながら、先頭を切って走っているのはロディオンであった。
足元の石畳を力強く踏みしめながら、ぐんぐん速度をあげている。
しかし!
全力に近い速度を出して引き離すつもりでも、ルウはぴったりとついて来た。
それもロディオンが派手な音を立てながら走るのに対して、猫科の大型肉食獣のようにしなやかな動きで音も無く走るのだ。
ルウ……
やっぱり彼は只者じゃあない……
ロディオンはちらっと後ろを振り返り、中央広場まで走って行った。
――30分後
2人は中央広場のベンチに座っている。
魔導ランプの灯りがぼんやりと辺りを照らす中でルウは穏やかに微笑んでいた。
ロフスキの中央広場にはセントヘレナ同様市場が隣接しており、早朝開場する為にこの時間から結構な数の人々が荷車を引いて行き交っている。
「やっぱり街は森と一緒だ……」
「森と……一緒?」
ぽつりと呟いたルウに、ロディオンが反応した。
「ああ、俺を育ててくれた爺ちゃんの言葉さ。街は森と同様に朝、昼、夜と顔を変えて行く」
「顔を変える、か……」
ロディオンもルウの言葉を繰り返す。
「ロディもセントヘレナで鋼商会と一緒に過ごして良く分かっただろう?」
「ああ、ルウの兄貴……貴方に言われてみれば……それは良く分かる」
ルウに問われて、頷いたロディオンであったが、相変わらず彼を『兄貴』と呼んでいる。
「ははっ、俺の方が弟の筈なんだが……」
苦笑したルウであったが、ロディオンはゆっくりと首を左右に振った。
「私が勝手に呼ぶ分には構わないだろう?」
ルウは敢えて否定しなかった。
ロディオンが満足ならばそれで良いのである。
「ところでロディ、お前が居た鋼商会……彼等は最初、迷走する男達だったんだ」
「迷走する男達? あの彼等が、か?」
ルウにそう言われてもロディオンは、にわかに信じられなかった。
鋼商会の男達はいつも朗らかで優しい。
子供が大好きで、老人には親切であり曲がった事が大嫌いだったからである。
「鋼商会の男達は大半が孤児だった。徒手空拳の彼等は生きていくのが精一杯で手段の良し悪しなんか考えていられなかった」
「それは……私も聞いた。そしてあの孤児院に慰問に行って良く分かった」
ラニエロやニーノと仕事をしながら、親しくなった彼等から身の上を聞いたロディオンはショックを受けた事を憶えている。
厳格だが、優しい両親が健在なロディオンにとっては想像もつかない境遇だったからだ。
しかしラニエロ達は苦労したという幼い子供の頃の話はしてくれたが、その後の話は鋼商会として生きているとしか、してくれなかった。
彼等に振り返りたくない過去があったからだと思うと、ロディオンには納得が行く。
ルウはそんなロディオンの心中を把握しているかのように話を結んだのである。
「人の弱みにつけ込み、恐怖を与えて生きるしか術がなかった彼等は新たな扉を見つけて、その先の道を切り拓いたんだ……そして今は、周りさえも笑顔にしている」
「兄貴の言う通りだ! ……私は鋼商会に出会ってやるべき事を見出した。だから……ロドニアへ帰って来たんだ」
ルウとロディオンが話し込むうちに時間は過ぎて行き、中央広場を行き交う人間も著しくその数を増していた。
「私は兄貴の育ての親の言葉が、さっきと兄貴がいった事と別の意味も持っているような気がするんだ」
「別の意味?」
「ああ、今の私は1週間前と心持ちが違う。全く違うんだ……」
ロディオンはそういうとにっこりと笑う。
「そして見える景色も違う……同じロフスキの街なのに全く風景が違って見える。輝かしい街に見えて仕方がないんだ!」
晴々した表情のロディオンを見て、ルウはシュルヴェステル・エイルトヴァーラの言葉を改めて思い出したのである。
決意を持った人の魂が街を……
見える風景をも変えてしまう事が出来る……か……
ああ……素晴らしいな、人間って……
爺ちゃん、俺はもっともっと勉強しなくちゃいけないな!
空が明るくなって来た。
間も無く夜が明けるのであろう。
それはまるでルウとロディオンの魂の風景のようであったのだ。
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