第545話 「改心」
ここは明かりも無く真っ暗な部屋である。
部屋の窓の外は黒一色であり、夜明けまでは相当に時間があるようだ。
比較的広いベッドには1人の壮年の男が寝かされ、それを長身痩躯の黒髪の男とシルバープラチナの髪を持つ美しい少女が見下ろしていた。
『悪魔ベリトの救いようがない嘘と違って、旦那様の嘘は……嘘も方便……の嘘ですね』
『ああ、そうだな。それに満更、嘘ではない。俺はラインハルトさんの魂の残滓を纏って彼の記憶や感情に基づいて喋ったのだから、な』
寝かされている男はアロイス・クリューガー伯爵の一子ギルベルトであり、この部屋はアレシア庁舎内の彼の私室であった。
部屋に居る男女はルウとモーラルだ。
当然会話は『念話』である。
2人の会話からすると、ギルベルトが弟と思って喋っていたのはルウの擬態らしい。
但し、擬態とは言ってもルウの言う通り、ラインハルトの魂の残滓の力を得て本人に極めて近い風貌と物言いをしたようだ。
『ラインハルトさんは心配でならなかったんだ』
『そのようですね。フラン姉同様、ラインハルト様の魂の残滓はずっと伯爵とこの方に取り憑いていらっしゃいました……それも悲しみの魔力波を発して』
『俺達へ必死に訴えかけていたんだ……フランの時と同様に。ギルベルトの魂の渇望につけ込み、悪に魅入らせ、非道な父殺しを行わせた挙句、このアレシアを死の町にしようとした悪魔の野望を阻止したいと、な』
ルウとモーラルはラインハルトの魂の残滓の存在に加えて、ギルベルトが悪魔の虜となった事を見抜いていたのだ。
『フランをまた泣かせるわけにはいかないからな』
ラインハルトが無残な死を遂げた事に幼いフランはショックを受け、魂に傷を負ってしまった。
もしギルベルトが凶行に及べば、折角癒えて塞がったフランの傷は再び口を開けてしまうだろう。
『はい! 私も旦那様と同じです。でもいくら悪魔に魅入られたとはいえ、父殺し未遂の大罪は消えませんね』
悪霊や下級悪魔などと違って、上級悪魔が自らの意思で人を殺す事は比較的少ない。
大抵は目をつけた者の欲望や弱みにつけ込み、魂の契約をした上で人を外道に堕落させるのだ。
それが彼等悪魔の享楽であり、価値観である。
ギルベルトが外道に堕ちるところを、ルウは際どい所で阻止したのだ。
『ああ、だから後はこのギルベルト次第だ。このアレシアの町を上手く統治し、もっと発展させるのは並大抵の苦労ではない。彼がこれから父親を助けていけば罪は少しずつ消えて行く筈さ。逆に手を抜いて仕事をしたり、弟の思いを裏切っていい加減に生きたりすれば冥界の最下層へまっしぐらだな』
遠い目をして呟くルウをモーラルは感慨深げに見詰める。
『旦那様はまた人を救った……私と同じ様に』
モーラルの言葉を聞いたルウは微笑むと、首をゆっくりと横に振った。
『いや、人はやはり自らの力で運命を切り開かなくてはいけない。俺は単にきっかけを与えただけだ』
『でも私はそんな旦那様が好き! 優しい旦那様が大好き!』
モーラルはそっとルウに寄りかかり、甘えたのであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌朝……
ギルベルトが庁舎を出た際に使用した馬車もルウが魔法で戻しておいたので、昨夜の痕跡は何一つ残っていない。
あの立ち入り禁止区域で事故が起こったり、当事者に災いが及んだ原因は無念のうちに戦いで死んだ者達の思い……つまり魂の残滓であった。
ルウは悪魔達と共にその魂も浄化したのだ。
これでこの地区の再開発も何の障害もなく無事に行う事が出来るだろう。
昨夜、ルウ達が夕食を摂った庁舎の食堂には既に朝食の用意がされている。
アロイス・クリューガー伯爵がルウ達へ着席を勧め、皆が椅子に座った。
全員が座ったのを確かめると、アロイスは使用人に命じて食事を始めようとする。
「ちょっと! ま、待ってください! 寝坊しました、申し訳ない!」
大声をあげて食堂に飛び込んで来たのはギルベルトであった。
昨夜の罵倒があったので使用人は誰も起こしに行かなかったようだ。
「お早うございます! 皆様! 父上!」
ギルベルトは深く一礼して挨拶をすると一応空けられていた父アロイスの隣に座った。
息子の様子を見て呆気に取られているのが父アロイスである。
「ど、どうしたのだ!? お、お前!」
あれだけ平民を見下していた息子が彼等と一緒の席で食事を摂る。
アロイスには信じられない事であった。
「父上、私は愚かでございました。自分の狭い視野のせいで真実が見えなくなっておりました。貴方を助けてこの街を治める為に亡くなった弟の分まで頑張りたい……ただそれだけです」
アロイスは大きく目を見開いて、切々と訴える息子を見詰めている。
やがてその目には涙が一杯に溢れて来た。
「おお……昨夜から今朝と……我が人生の何と良き日なのだ」
アロイスはそう呟くと、ギルベルトをしっかりと抱き締めた。
「それでこそ私が見込んだクリューガー家の跡取りぞ」
ルウとモーラルはそんな2人を優しく見守っている。
フランや他の妻達も余りのギルベルトの変貌に驚いていたが、やがて全員が慈愛の篭もった眼差しで見詰めたのである。
――それから間も無くして朝食を摂り終えたルウ達は改めて冷たい紅茶を出して貰い、思い思いに寛いでいた。
ルウはフランと歓談している。
義理の兄だったギルベルトの変わりようにフランも喜びを隠せない。
とても晴々とした表情である。
そこへ椅子を持ってギルベルトが近付いて来た。
ルウがフランに目配せすると、フランは少し場所をずらし、ギルベルトの入る場所を作ってやった。
ギルベルトは椅子を置くと、座る前にルウに対して深々と頭を下げた。
「ブランデル殿、貴方には昨夜、大変な無礼を働いた。この通りお詫びしたい!」
ギルベルトの謝罪をルウはにっこり笑って受け入れる。
「いえ、もう忘れましたよ。それより及ばずながら何かあればお手伝いさせて頂きます」
「ありがとう! 私は武人ではないが、この街の為に力になりたいのだ」
はっきりと宣言するギルベルトの表情は晴れやかであった。
「武人とは剣や槍を持って戦う者……だが貴方には貴方の武器があり、貴方なりにやれる方法がある筈だ。ははっ、大変だろうが頑張れよ、ギルベルトさん」
ルウはそう言うとじっとギルベルトを見た。
その漆黒の瞳が彼に訴えかける。
貴方は罪を償わなくてはいけない。
それが亡きラインハルトの思いに応え、彼の供養にもなる筈だ。
ルウの口からはっきりと言葉が出たわけではない。
しかしルウの思いはギルベルトへ確実に届いていた。
『ははっ、頑張れよ! 兄上!』
ギルベルトは何となく懐かしい弟の声が聞こえたような気がしたのであった。
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