第544話 「弟の遺言」
「何を言っている、兄上」
今迄途絶えていた弟の声がいきなり響いた。
ギルベルト・クリューガーは、ぎょっとして自分の周囲を見渡すが、相変わらず誰も居ない。
その時であった。
いきなりギルベルトの肩が背後からポンと叩かれたのである。
「ひゃう!」
「僕さ、兄上」
「ラララ、ラインハルト! ど、どうして!?」
聞き覚えのある声と共に、いつの間にかギルベルトの背後に立っていたのは、人懐っこい笑顔を浮かべた弟のラインハルトであった。
王都騎士隊の出で立ちをしたラインハルトは若い。
亡くなってもう10年が経つというのに、風貌は戦死した時の20歳のままである。
「どうして? はないだろう。僕は兄上に言いたい事があってやって来たのさ」
笑顔で返事をするラインハルトに対してギルベルトは戦慄を覚えた。
ラインハルトは間違いなく死んでいる筈だ。
では目の前のこいつは誰なのか!?
物の怪なのだろうか?
どちらにしても尋常な状況ではない。
「言いたい事だと!? な、何が!? それにお、お前はとうに死んでいる筈だ。一体、ど、どこから来たと言うのだ!? いや、言うな! そのようなおぞましい事は考えたくない!」
噛みながらも必死で言葉を返すギルベルトではあったが、身体は意思と関係なくぶるぶると震えている。
しかしラインハルトは飄々としていた。
「ははっ、兄上の考えている事は分かるよ。だけどね、そこは余り触れない方が良いな」
しかしギルベルトはこれ以上恐怖に耐える事が出来ない。
決して弟と思えない存在へ絶叫したのだ。
「言うな! 悪霊めが! 帰れ! 冥界へ帰れ!」
ぱあん!
「あぶしっ!」
その瞬間、ラインハルトはギルベルトの右頬を容赦なく張った。
「駄目だよ、僕を悪霊なんて酷い事を言っては! だったら怖ろしい悪魔なんか呼び出して父上を亡き者にしようとした兄上はどうなんだい? お互い様だろう?」
ギルベルトは大悪魔ベリトを召喚した時とは全く様子が違っていた。
悪魔と組んでとんでもない謀略を考えていた男が弟の亡霊如きに怯えるとは考え難い。
何かに取り憑かれた独特の雰囲気は今の彼には無かった。
「あぐぐぐぐ……貴様、この兄に向って!」
ぱあん!
「あぶしっ!」
動揺する兄に対してもう1発!
ラインハルトは笑顔を浮べたまま今度は左頬を張る。
「兄上! 貴方を諌める事が出来るのはこの僕だけだと思って、現世に甦ったのですよ」
「や、やはり……貴様、亡霊か!?」
驚くギルベルトに対してラインハルトは一転厳しい表情になった。
「ふふふ、亡霊でも結構! このままではクリューガーの家はお終いだ。だから僕がこうしてやって来たのさ!」
「ななな、お終いだと! 言ったな、本音を! やはり家督を狙っていたのだな、貴様!」
ギルベルトが叫ぶと、彼の言葉を聞いたラインハルトは大きく頷いた。
「ああ、そうさ。僕が継げるものならね……だけど、兄上。僕は父上に駄目出しされたのさ」
弟の意外な告白にギルベルトは吃驚する。
このような才能豊かな弟に何故父が駄目出しするのだろうか。
「だ、駄目出しだと!? 何故だ! 父上はお前の才能を認め、且つ可愛がっていた筈だ」
「……兄上はちゃんと父上と向き合ったのかい?」
「父上と……向き合ったか? だと……」
ラインハルトの真剣な眼差しに気圧されて、ギルベルトはつい視線を逸らした。
その様子を見たラインハルトは小さく頷いている。
「その様子だと、やはりしっかりと向き合って本音で話してはいないようだ」
「父上と今更何を話せ、というのだ」
父と向き合って本音で話せ。
ギルベルトは弟の真意を測りかねており、訝しげな表情だ。
逆にラインハルトは兄を見てしかめっ面である。
「駄目だなあ、兄上は……」
駄目な兄……
ラインハルトのぽつりと発したひと言がまたギルベルトの魂の傷を抉った。
「わああああ! どうせ、私は駄目な男だ! 武の才能も無く、魔法も使えない。その上、人望も無い! お前に言われなくとも自分の駄目さ加減は分かっておるわ!」
大声をあげて地団太を踏むギルベルトの姿を優しく見守る弟は、まるで教師のように兄を諭そうとする。
「……冷静になりなよ、兄上。何故、父上が僕じゃあなく、兄上にクリューガー家の家督を継がそうとしたか、をね」
「冷静になっても同じだ! どう考えても、な!」
ぱあん!
「あぶしっ!」
見苦しいほど我を失ったギルベルトはまた右頬を張られたのである。
「ま、た、殴ったな! さっきから……父上にも殴られた事のない私を!」
「いい加減目を覚ませよ、兄上。僕が知っている冷静沈着な兄上はどこへ行ったんだよ」
「な、何!?」
冷静沈着な兄!?
ラインハルトの言葉を聞いてギルベルトは慌てた。
ギルベルトは改めて相手の顔を見直すと吃驚してしまう。
しかめっ面だったラインハルトの顔が今や泣きそうに歪んでいたからである。
「考えてもご覧よ。クリューガー伯爵家はバートランドで執政補佐官を務めた後に、ゆくゆくは王国のどこかの街の統治を任されるのは既定路線だったじゃあないか。エドモン様が子供だった僕達にさえ、何度も繰り返し言っていただろう」
「…………」
黙り込んでしまったギルベルトは呆然とラインハルトの顔を見詰めていた。
そんな兄に対してラインハルトは話を続けている。
「ははっ、武術が好きな僕には統治の才能が無いのは分かっていたもの。街を治めるなんて到底無理なのさ。それより騎士隊に入って国を守る方が向いている」
「ラインハルト、お、お前、何を言うんだ!?」
う、嘘だ!
私が羨んだラインハルトは素晴らしい才能を持つ前途有望な青年だった筈だ。
ラインハルトはそんなギルベルトの魂を読み取ったかのように言う。
「兄上は僕に無い才能を沢山持っているじゃあないか! 冷静沈着で決断力に優れているし、持っている知識も凄い。本当に政治家向きさ」
「ななな……」
思い掛けない弟の告白。
兄と弟はお互いに相手を羨んでいたのである。
「僕は無鉄砲だし、論理的に物事を考えるなんて無理さ。直ぐ情にも流されて冷静に行動なんて出来ない。父上が兄上を跡継ぎに決めたのは兄上が単に長男だからと言うのではないんだ。父上はしっかりと兄上の資質を見抜いていたんだよ」
「ライン……ハルト」
「死んでしまった僕はもう父上を助ける事が出来ない! 大好きなクリューガーの家を盛り立てる事も出来ない。だけど……後悔なんかしていないさ。愛するフランの為に戦い、王都を……国を守ったのだから!」
「あうううう……」
ここに来てギルベルトはとうとう弟の思いやりに気付いたのだ。
虚しいと人生を嘆き、落ち込んでいた兄を……
自らを貶めてまで何とか励まそうとする優しさに。
そして強がりと、死んでしまった悔しさ、もどかしさも含めて……
兄だからこそ分かったのだ。
やはりラインハルトは素晴らしい男であり、血を分けた自分のたった1人きりの弟なのだと。
「兄上、父上を、クリューガーの家を頼んだよ。そして自分をもっと信じるんだ。僕の兄上は本当に素晴らしい男なんだから」
何と、いつの間にかはっきりと見えていたラインハルトの身体がぼやけている。
輪郭がおぼろげになり、消えかかっているのである。
「ラインハルト、待て! 私は、私はもっとお前と話したい! そ、そうだ! 今、ここに父上を呼ぶぞ! お前に会う事が出来たらどんなに喜ぶか!」
しかしラインハルトはにっこりと笑い、首をゆっくりと横に振った。
「兄上はやはり優しいな。だけど、これからはその優しさを身分に関係なくあらゆる人に向けるんだ。そうすれば兄上1人では出来ない事も皆が助けてくれるさ」
「ラインハルトぉ!」
「ははっ、さようなら、兄上。僕はずっと兄上が羨ましかったんだよ……」
「ラインハルトぉ!」
ギルベルトは叫ぶ。
弟を呼び戻そうと必死に叫ぶ。
だが、彼の声は消えてしまった最愛の弟へ最早、届くことはなかったのだ。
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