第436話 「幕間 ソフィアの使用人デビュー③」
ヴァレンタイン王国王都セントヘレナ中央市場、土曜日午前5時……
王都セントヘレナの中央市場は中央広場に隣接し、日曜日を除く毎日、国内外から様々な食材が持ち込まれ、活発に取引される、王都の台所と呼ばれている有名な場所だ。
鮮度が最も重要視される食料品が取引商品のメインであるが為に、持ち込まれた商品を直ぐ購入しようと待機する客も多々居り、商品を仕入れたばかりの幾つかの店は待機客の要望に応える為に即座に開店するのである。
高度な魔法と並び、大陸でも有数の農業国でもある、ヴァレンタイン王国。
王国産の肉・魚・農作物等は比較的安定して大量に供給されており、自国は勿論他国からの評価も高い。
その為、市場には輸送に時間が掛かるのと襲撃による危険を冒しても、遠い自国での商売をしようとするヴァレンタイン王国以外の商人達も多く見かけるのだ。
アリスとソフィアが訪れた午前5時の中央市場は入荷した物も大体揃うので、2人のような一般の買い物客は勿論、小売の商店主や居酒屋、レストラン等飲食店の店主、調理人達も押し寄せて争うようにして仕入れ用の商品を買い求めている。
少しでも安くて良いものを確保出来ればそれが商売の繁盛に繋がる事は明白だ。
客足を確保する為の商売人達の戦いは早朝から始まっているのである。
そんな殺伐とした雰囲気も漂う中に現れたアリス。
その後ろでは市場の雰囲気に怖れをなしたソフィアが震えながらぴったりとくっついていた。
客の1人である無骨な顔立ちをした髭面の中年男がこちらを見る。
彼は鋭い目付きでアリス達を凝視しているのだ。
「ひ、ひいいっ!」
男の射抜くような視線にソフィアの身体がぶるりと震えた。
しかし!
その瞬間であった。
睨んでいた筈の男はにっこりと笑って優しい口調でアリスの名を呼んだのだ。
「おお、アリスちゃん!」
髭面の男のその声に触発されたように周囲の男女の視線が集中する。
同時に喚声があがり、2人に温かい声が続々と掛かった。
「ほ、本当だ、アリスちゃんだ!」
「アリスちゃんの後ろにも彼女に凄く似た可愛い子が居るぞ!」
「ラッキー、今日は良い事がありそうだ!」
「私も仕事辛いけど、一生懸命頑張れるわよ!」
ソフィアは1度にこんなに大勢の人間に注目された事は無い。
まともに立ってられないほど動揺しているようだ。
きゅっ!
アリスが不安げなソフィアの手を確りと握った。
そして耳元でそっと囁いたのである。
「大丈夫……邪気を持っている人はこの中に見当たらないわ。それにご主人様の依頼で私達の事を守ってくれる人がたくさん居るから安心して」
「あううう……」
泣きべそをかくソフィアを守るようにアリスが言い放つ。
「皆さん、お早うございます! 本日も皆さんにご迷惑を掛けないように買い物をさせて頂きますので宜しくお願いします」
これはいつものアリスの挨拶なのだろう。
周囲からまた温かい声が飛ぶ。
「おお! こちらこそ! 逆に俺が邪魔だったら言ってくれ」
「アリスちゃん! パンなら今朝はブリアン商店の新作が良いってよぉ! 当然焼きたてのほかほかだぁ!」
「アリスちゃん! チーズはやっぱりデリダ商店よ! 濃厚で美味しいから!」
「捌きたての新鮮な良い豚肉があるそうよぉ! アリスちゃんのご主人、お肉好きでしょう?」
たくさんの声が2人に掛かるがアリスが反応したのはやはりパンとチーズの情報である。
水の妖精であるアリスは美味しいパンとチーズに目が無いのだ。
「分かりましたぁ! パンはブリアン商店、チーズはデリダ商店ですねぇ!」
「そうだぞ!」「そうよぉ!」
アリスが確かめるように大きな声で叫ぶと教えてくれた人も負けじと叫び返した。
笑顔で頷いたアリスはさりげなくソフィアを紹介した。
「皆さん、聞いて下さい! 今日は遠縁の女の子を連れて来ました。未だ慣れていないので昔の私みたいですけど宜しくお願いします……名前はソフィアです……ちなみに私同様彼氏持ちなので口説くのは無しですよぉ!」
「分かっているよ! おおっ、でも遠縁だけあって似ているな。可愛い!」
「ソフィアちゃん、何かあったら直ぐ相談しろよ!」
「変な奴がいたら俺達か、鋼商会の奴に直ぐ言えよ!」
「荷物、重かったらいくらでも運んでやるからな!」
「急いでいたら買う順番、直ぐ譲ってあげるわ」
市場の雰囲気に怯えていたソフィアは客達の言葉に呆然としている。
はっきり言ってこのように温かい励ましを受けるとは思わなかったのだ。
その時である。
噂をすれば何とやら――鋼商会の人間が現れたのだ。
現れたのは以前街中でルウに絡んだ事のあるラニエロ・バルディであった。
以前のやさぐれた雰囲気は影を潜め、表情は優しそうな笑顔に満ちている。
最近は鋼商会警備部の評判が良く、彼等は様々な店で役目を果していた。
そこで順番待ちなどでトラブルが多かった市場の管理者が聞きつけ、商店主達からの了解を得て、鋼商会を雇ったのだ。
「おお、アリス様。お疲れ様です、どこか行きたいお店はありますか?」
「ではブリアン商店とデリダ商店へ案内をお願いします!」
ラニエロがアリスに行き先を聞くとやはり先程のパンとチーズの店の名があがる。
「は、かしこまりました! では皆さん、失礼します」
ラニエロは迷う事無く承知するとアリス達を手招きした。
すると彼の背にも客達の温かい声が掛かったのである。
「おう! ラニエロ、2人を頼むぜ!」
「お前達、鋼商会のお陰でいつも安心して買い物が出来るぜ」
「ラニエロさん、ありがとう!」
ラニエロは軽く手を振って客達に応えてから、アリス達を指定された店に誘導する。
アリスが途中でソフィアを紹介するとラニエロは黙って頭を下げた。
ソフィアもぎこちなくラニエロへ礼を返す。
暫し3人が歩くと、前を行くラニエロが後ろ向きのまま、顔を向けずに急に話し掛けて来た。
「アリス様、ルウ様はお元気ですかい?」
「ええ、元気よぉ!」
2人の会話を聞いたソフィアは気安さを感じてしまう。
どうやら普段、お互いに腹を割って話しているようだ。
「最近、お会いしていないので……たまに話したくなるのですよ……仕事の相談からくだらない愚痴までね」
どうやらラニエロはルウに会って色々と話したいらしい。
「俺は親も兄弟も居ない天涯孤独の身の上なんだけど……鋼商会の仲間は別にしてあの方が身内のように思えるのですよ……あっちは全然年下なのに実の兄貴みたいにね」
年下なのに実の兄貴みたい……ラニエロの言葉を聞いたアリスは破顔する。
そんなアリスの顔など見ないままラニエロの話は続く。
「俺、本当はとても小心者なんだ。揉めた相手とやりあう時は結構怖い。だけどルウ様やこの市場の客が掛けてくれる優しい言葉や喜ぶ顔が浮かんで頑張れるのさ」
「ラ、ラニエロさん!」
それを聞いていたソフィアがいきなりラニエロの名を呼んだ。
「うん!?」
呼ばれたラニエロは笑顔のまま振り返る。
「私、実は凄い怖がりで……今日、初めて市場へ来てどうしようかと思いましたけど……これからアリス様と……仕事……頑張ってみます」
ソフィアの真剣な表情を見たラニエロは少しの間を置き、黙って頷く。
そんな2人をアリスも優しく微笑んで見守っていたのであった。
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