第314話 「マルグリット」
鉄刃団のラニエロとニーノに教えられた店舗の元持ち主であるマルグリット・アルトナーの住所、それはこの王都セントヘレナのスラムに近い貧民街区の中であった。
ここは、かつてオレリーとその母アネットが暮らしていた家の近くである。
その地区は方形住居と呼ばれる市民の中では下層に属する人が住まう家屋がいくつも建てられており、食べ物を焼く臭いやゴミなどが入り混じった生活臭が立ち込めていた。
ルウ達はそんな街の中をゆっくりと歩いて行く。
住民達は革鎧姿のバルバトスを先頭にして小奇麗な法衣を纏ったルウ、鮮やかな色をした絹製のブリオーを着込んだフランやモーラルを見て何を場違いなという視線を投げ掛ける。
そんな中、ルウ達は足早に目指す家に到着すると軽くドアをノックする。
だが中からマルグリットの返事は無い。
首を傾げたルウ達はもう1度ノックをするがやはり返事は無かった。
その様子を訝しげに見詰めていた1人の中年の女がルウ達に近寄って来る。
「お前さん達、マルグリット婆さんに何の用だね」
「やはりここはマルグリットさんの家で良いんだな」
ルウが穏やかな表情で逆に聞くと女は何かを考え込んでいるように見えた。
「あんたらも婆さんへ借金取り立てに来た口かい?」
「借金取り? いや……俺達は違うがマルグリットさんはそんなにお金を借りていたのか?」
「ああ、あの婆さんは連れ合いの爺さんに死なれてから生活に窮していた所を阿漕な高利貸しに引っかかってしまってね。虎の子の店は取られるわ、家の中の物は一切合財持っていかれるわ、奴等のやり口ったらとても酷かったね」
阿漕な高利貸しとは鉄刃団か、その関係者であろう。
ルウの表情が微かに曇る。
「……そうか。で彼女は今はどうしている? 中に居るのは分かるが、具合でも悪いのか?」
「ああ、気分がすっかり落ち込んでいた所に加えて、年が年だから病に臥せってしまってね。かと言って治癒魔法を使う魔法使いに頼むなんてお金が無くて最初から無理だし、最近はこんな町、医者ですら来てくれないんだよ」
どうやらマルグリットは度重なる不幸の心労もあって病魔に冒されてしまったようだ。
それもまともに治療もしていないらしい。
「成る程……で具合は?」
「いやぁ……具合はずっと良くないよ。そう言えば、ここ数日、彼女の姿を見ていないね。たまにあたしら近所の者が訪ねたりしていたんだけど……」
ルウは反射的にマルグリットの家を凝視すると「いかん!」と言ってドアに飛びついて、ノブを回す。
しかし鍵が掛かっており、ノブは回らず当然ドアも開かなかった。
「な、何を!」
女がルウの行動を止めようとするが、振り返ったルウは一刻の猶予も無いという雰囲気を漂わせている。
「不味いぞ! 彼女の生命の灯が消えかかっているんだ。早くドアを開けなくては!」
「え、ええっ!」
ルウの言葉に女は息を呑む。
しかし何を根拠にそのような事を言うのかと疑いの表情を見せたのだ。
だがルウは女の態度にお構いなく魔法を発動する。
「皆、ちょっと、どいていてくれ! 開錠!」
ルウが指を鳴らすとマルグリットの家のドアの鍵が音を立てて開錠された。
それを見た女は青くなってルウ達を止めにかかる。
「待っておくれ! 見ず知らずのあんた達が勝手に他人の家に入っちゃ駄目だよ!」
「大丈夫よ、おばさん」
モーラルが鋭い目をして手で女を制する。
すると夢魔の眼差しで威圧されたのか、何と女はへなへなと膝を突いてしまう。
その間にルウが家の中に入ると粗末なベッドに寝かされたマルグリットが目を閉じているのが見えた。
マルグリットの年齢はとうに70歳は超えているだろう。
小柄で痩せた身体は枯れ木のようであり、その顔色は青白くまるで死人のようである。
息は荒く不規則だ。
ルウは厳しい目で彼女を一瞥すると直ぐに治癒魔法の言霊を神速で唱え始めた。
「大地の息吹である風よ、大地の礎である土よ、大地に命を育む水よ、そして大地の血流である火よ。我は称える、その力を! 我は求める、その力を! そして我は与える、その力を! 愛する者に満ち満ちて行かん、大地の癒しを! さあ、この者に与えたまえ!」
ルウの魔力の高まりに伴い、大気が張り詰め、空気がびしびしと音を立てて鳴っている。
「治療!」
決めの言霊が彼の口から放たれたその瞬間、マルグリットの家全体が眩い光で満たされた。
それは神々しい厳かな光である。
「ひいいいっ! あううううう……」
ルウ達を止めようとした女は膝を突いたまま口をぱくぱくさせている。
目の前に起きた、余りに非日常な出来事に対して何か言いたいのだが、どうやら言葉にならないようだ。
モーラルはそんな女の様子を見ながら含み笑いをする。
「うふふ、おばさん、目の前で起こった事は少し忘れてね。 忘却!」
「ふわぁ……」
モーラルが指をぱちんと鳴らして忘却の魔法を発動させた。
あの鉄刃団の2人のように寸前の記憶を消去された女の目は虚ろで焦点は合っていない。
「さあ、フラン姉、バルバトス殿……今のうちです」
モーラルは急いでマルグリットの家に入るように2人を促した。
「旦那様と一緒に転移魔法でお屋敷へ……後は私がやっておきます」
フランとバルバトスが頷き、マルグリットの部屋に入った瞬間、ルウの転移魔法が発動される。
それと同時にマルグリットを入れた4人はルウの屋敷にあっという間に跳んでいたのであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
マルグリットは夢を見ていた。
一体、自分はどこに居るのであろうか?
周りは霧の様な靄がかかっていてはっきりしないのだ。
そのうち誰かが遠くで自分の名を呼んでいるのが聞える。
耳をすますとどうやら一昨年亡くなった夫の声らしい。
彼女は思わず呟いた。
『どうやら私にもお迎えが来たようだね』
そんな独り言ともいう言葉に対して直ぐ声が返って来る。
『マルグリット! お前は未だこっちに来ちゃいかん!』
間違い無い!
あの頑固で重々しい声を忘れるものか!
でも……どうして来るな! などと言うのであろうか?
『貴方……私は生きて行くのに疲れました。貴方と暮らしている時が1番幸福でしたよ。貴方が居なくなって1人で生きていて、良い事はひとつもなかった。やっと私を迎えに来てくれたのではないのですか?』
『マルグリット、儂にはいつでも会える。それよりもお前は未だそちらで幸せに暮らすことが出来るのじゃ。慌てて来んでもええ!』
『幸せに暮らせる? な、何かの間違いでは! 貴方との子も早くに亡くし、身寄りも無い私にそんな場所などありはしません。お願いします! 貴方の傍に行きとうございます。連れて行って下さいまし!』
『ならん! 良いな! しかと申し伝えたぞ。お前は必ず幸せに暮らせるのじゃ!』
夫は相変わらず自分の言う事など聞き入れはしない。
しかし、マルグリットは何となく懐かしく、そして嬉しかった。
『貴方……相変わらずね……』
しかし、そんな彼女の呟きに対する答えは結局返って来なかったのである。
その瞬間、マルグリットが見ている場面は暗転し見えなくなった。
そして―――今、マルグリットの瞼が開こうとしている。
マルグリットが少しずつ瞼を開けると周りは見慣れない光景が広がっていた。
どうやら自分は豪奢なベッドに寝かされており、身体はとても軽く楽になっていたのである。
ここは……
「あはぁ! 目が覚めたね、お婆ちゃん!」
マルグリットが声のする方を見るとメイド服を身につけた金髪の少女が満面の笑みを浮かべて自分を覗き込んでいる。
「あ、貴女は……だ、誰?」
「私? 私はアリス! この屋敷の使用人だよ。今、ご主人様を呼んで来るからね」
アリス?
この屋敷の使用人?
私は今、どこに居るのだろう?
「あは! ここはルウ・ブランデル様のお屋敷だよ」
まるでマルグリットの魂を読んだようにすかさずアリスが答える。
ルウ・ブランデル?
聞いた事が無い名前だ。
多分、夫の知り合いでもないだろう。
暫くして―――現れたのは20歳そこそこの若者であった。
「ははっ、マルグリットさん。具合はどうだい?」
あ、……面影が少し夫に似ている。
「どうして?」
思わず口に出た言葉に対して青年はにっこりと笑う。
「本当に……良かったなぁ……」
滅多に笑わないが、夫は数十年の間、数回だけ笑った事がある
そんな数少ない夫の笑顔をマルグリットは覚えていた。
彼の言葉を聞き、笑顔を見た瞬間、マルグリットは夢の中で夫の言った意味が分かったような気がしたのであった。
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