前夜祭 2
「…日に日に顔色悪くなってない?」
「桃香こそ」
学校の廊下で合流した私たちはお互いの体調を真っ先に口にしていた。
桃香は「あたしはそうでもないけど」と言いながら頬を掻いた。わずかに下へずれた制服の手首裾の間からちらりと白色のリストバンドがのぞいた。
いつのころからだったのか全く覚えていないが、桃香はリストカットを繰り返している。
いわゆる、いやそのままの意味での――自傷行為。
痛みや血に別段快楽を見出しているわけではなく、ただ切りたいから切っているのだという。
私には正直それをする意味は分からないし、やろうとも思わない。
桃香の白い肌に赤いものがぷっくりとあらわれるのを想像する。それでそれで綺麗な気もした。
喧騒に後押しされながら私たちはクラスに入る。
あの事件前と変わらない日常。
笑うクラスメイトや、ふざけるクラスメイト。
すべて忘れたかのよう。
いや、忘れたふりをしているだけなのだろう。
どれほど血を拭っても、床を磨いても、“におい”は消えない。
消させるものか。
「?」
視線を感じて今入ってきたばかりの出入り口を振り返る。
一瞬目が合った後、さっと逸らされた。まるで恐ろしい物でも見たかのように。
知らない人間ではない。『京香』のクラスメイトだ。
私が死んだ人間に似ているから関わり合いを持ちたくないのだろう。≪いなくなった≫存在だとしても、居たという記憶は否定してもしっかりと残っているのだから。
無表情で見送った後に私は桃香に向き直る。
「座ろうか」
「そうだね」
シラバスの予定から大幅に遅れた授業。
私はぼんやりと教師の言うことを聞いていた。時折教科書に眼を移し、意味もなく文字をなぞっていく。
もしも今、気まぐれで鞄に入れた一本のナイフを取り出したらみんなどんな反応をするのだろうかと思う。
とりあえずは、ここの人たちは殺さない予定ではあるが。
一斉に逃げ出したり、腕っ節の強い男子が私からナイフを取り上げるだろうか。それとも物を投げつけてくるのか。
あとは、誰かを囮にしたり。自分の命の代わりに他人の命を差し出して。
…十人の命で三百人余りの命が助かったように、このクラスでは何人死ねば何人助かるんだろう。
駄目だ。何を考えている。
私は頭を振る。
出来るだけ思考することを止めないと、何をしでかすか自分でもわからない。
この数週間奇跡的に自分を押さえつけられてきたのは全て『明日』のことがあるからだ。
それだけのためにいくつもの『今日』をこえてきたのだ。それを台無しにするのは馬鹿のすることじゃあないか。
あれこれ考えている間に授業が終わり、次の移動教室の準備をしようと立ち上がる。
ふっと影が私の右を横切った。
そちらに顔を向けると、男子のクラスメイト――――田村が立っていた。
会話をするには近い距離。
「…なに?」
普段話したこともない。いや、なんか変な視線は感じたりしていたが。
不機嫌に声をかけると田村はどこかいやらしい笑みを浮かべた。
気持ちが悪い。
「さすがに自重はしてたんだけどさ、」
移動のためにざわついている教室。誰も私と田村を気にする者はいない。
桃香はちょうど鞄の中をあさっていてこちらを見ていない。
だから、この妙な距離を怪しむものはいなかった。私以外には。
「さすがに我慢できなくなってよ。だから放課後、いつもの場所な」
それだけ言って田村は他の男子と共に教室を出ていった。
その男子たちも奴と同じ気味の悪い笑みを顔に貼り付けていた。
朝食の代わりに喉に流し込んだゼリー飲料がせりあがってくるような錯覚、いや実際その通りなのだろう。口を押えて元に戻すために上を向く。
そのセリフには覚えがあった。
母親の連れてくるオトウサンや、カレシや、転がり込む男たちが何度も口にしていたのだ。
つまり、これは間違いではなければ。
「京香…あなた…」
私に黙って、何をしていたの?