2015年 6月10日 田村彦一
突然の襲撃犯によって学校が一時期占拠された『三華宮占領事件』、戦後最大の少年犯罪と言われる『三華宮殺人事件』。
とくに後者は百人余りが殺された、悲惨以外言葉が見つからない事件だ。
短期間で事件が二つも、しかも大勢人が死んだので廃校を余儀なくされた高校だ。
――あれから五年だ。たったの、か。やっと、か。
夕方、ようやく式典の片づけやマスコミの取材が終わり田村彦一は一息をつく。
当時の教育委員会会長だったこともあり、どれだけ面倒でもやらなくてはいけないことはある。
夜も近づき人影もまばらとなった、グラウンドに設置された黒い慰霊碑の前に立つ。
五十音順に、白文字で彫られている子供たちの名前。
その一か所に自分の息子の名前があった。それを田村は冷ややかに眺める。
正直、息子が死んだのはありがたかった。
粗暴な性格が目立ち一族の名前に傷をつけかねなかった存在だったのだ。
だから、あの日殺されたと――なぜか前日に殺されていたようだが――そう聞いた時悲しみよりも先に安堵のため息が出たものだ。
もちろんそれは表に出さず、毅然と強い父親を演じ続けた。
ぼんやりと思考に浸っていると、視界の端からスッと花束が現れた。
驚いてそちらを見てみれば女が慰霊碑に花を供えたところだ。
遅刻したのか、わざと遅れてきたのかは分からない。ただ、年齢的に被害者の同級生あたりだろう。
喪服が妙に似合う女だった。薄手のストールを首に巻いている。
視線に気づいたのか、女は俯きながら話しかけて来た。
「こんにちは。こんばんは、ですかね」
「どうも。…花束は他のところでお預かりしていますよ」
「ああ、すいません。慌てていて」
そのわりには随分と余裕そうではあったが。女は慰霊碑に視線を滑らせる。
何人か知り合いがいたのか、わずかに動きが止まる個所があった。
そしてやや諦めたように息を吐いた。
「…いませんね」
「いない? そんなことはない、犠牲者はみんな」
「占領事件で死んだ十人ですよ」
「……?」
なんのことか分からない。襲撃犯はともかく、十人も生徒は死んでいなかったはずだ。
困惑していると女は「なんでもありません」と首を振った。
「そうだ。これ、お返しします」
差し出されたのは何の変哲もない薄っぺらい茶封筒。
そこに流れるような字で自分の名前が書かれていた。
しかしながら、この女とは初対面のはずだ。なにも貸した覚えはない。
「返す…?」
「見ればわかるはずです。ずっと探していたのではありませんか?」
もしかしたら少し頭が残念な人間だろうかと考えながらも見るだけなら、と言う通り封筒を開ける。
中に入っていたのは色あせた写真。
「なっ……!」
幼い裸の少女が二人、布の上で虚ろな表情をしている。
知っている。
なぜならこれは、これは田村彦一が撮った写真だったのだから。
いつの間にか紛失していたことに気がついたのは二三年前の話だったが、誰にも話せずずっと黙っていた。
なぜこんなものが。なぜ、この女が持っている?
「あなたの息子さんが発見されたときに回収されたそうです。巡り巡って、私のところに」
「は、は……? なにを、なんで…」
女はうっすらと笑い、おもむろにひとつふたつ胸のボタンをはずした。
ぐいと襟元を引っ張る。露出した鎖骨には、ほくろが二つ並んでいた。
写真に写る少女のうち片方も、全く同じ場所にほくろがある。
火花が目の前で散ったような感覚に襲われる。
周りに人はいない。二人きりだ。危険だ。この女は、まさか、
「…来宮明日香っ!?」
戦後最悪の事件の実行犯。百人殺しの異常殺人鬼。
悪友の娘。たった一つの過ち。
隠したい過去。犯してしまった罪!
あの日、悪友に――黒川に誘われたのだ。
家に娘がいる。嫁にマンネリしているなら一発どうだ、と。
だがまさか息子と同い年だとは思わなかった。幼い双子の少女のおびえた目が焼き付いている。
しかし、田村はそこで帰ろうとはしなかった。
ほの暗く甘い背徳感に負けたのだ。
これは当時手にしたばかりのカメラで写したうちの一枚だ。
だから法廷で被告人の顔を、名前を聞いた時は冷汗が止まらなかった。
まさか、あの黒川の元で何年も生きていたとは信じられなかった。てっきり嬲り殺されていたと思っていたのだ。
そして来宮明日香に異例の死刑判決が下されたとき――彼は自分の過去が隠ぺいされたと安心した。
非公式裏で「彼女の体を実験に使ってもいいか」と言われた時も真っ先に賛成したのも彼だった。
とにかく消えてほしかった。息子と同じように。
「そんな名前でしたね」
女は下腹部をゆっくりと撫でさする。
「痛かったですよ。未だ覚えてます。だってあなた、大人の女にするように腰を振るんですもん」
ほほ笑む女はしかし、目が笑っていない。
冷たい光を湛えていた。
「それと、黒川明人は死にました」
「あ、あ、黒川が死んだ…?」
たしかに最近まったく連絡はなかったが――
「村井校長はずいぶん前に死んでいましたし、個人的に殺したいのはもうあなたしかいないんです」
「や、やめろ。今更殺して何になる? 復讐か!? 復讐はなにも生まないぞ!」
「知っていますよ。知っていますとも」
瞬きした一瞬で女は間合いを詰めた。
その姿は格好も相まって死神のようだ。
ぐ、とどこからか取り出されたナイフが腹に刺さる。九十度捻られた。
そのまま足を蹴り飛ばされ後ろに背中から強かに倒れこんだ。
痛みで動けない。声を上げようとするだけでも激痛が襲い掛かってくる。
女は落ちた写真を拾い上げ、田村のポケットに入れた。
「大事なものでしょう?」
他人事のように呟き、女は煙草を取り出してライターで火をつけた。
華奢な体系には合わない、重く匂いの強い煙が立ち上る。
何かを思い出したように田村のカバンをあさり携帯を取り出した。
「もしもし。けが人です。刺されています。はい。場所は三華宮高校グラウンド。はい」
通話もそこそこに女は田村に携帯を放った。
「救急車は呼びましたから。死ぬも死なないもご勝手に。さようなら」
煙草をくわえ直し、女は喪服の裾を揺らし悠然とその場から去っていった。
追いすがることも喚くこともできずに田村は茫然とその背を見送る。
これは夢だったのか?
しかし痛みがそうではないと嘲笑っている。
「血の匂いまで残ってるのか、ここは…」
少しすると慰霊碑の向こう側から声が落ちて来た。
どうやら別の入り口を使ってこっちにきた人間らしい。
助けを求めようとして頭をわずかに動かした。
右目には大きな切り傷があり、瞼を閉じているガタイのいい男。
呻いている田村に気付くと傍に寄って来て屈んだ。
転がっている携帯を見つけると耳に近づける。まだ通話状態だったようで一言二言ことばを交わした。
それから刺さっているナイフを見て顔を険しくする。
「誰にやられた」
「き、来宮明日香だ! 生きていた! どうやってか知らないが、」
痛みをこらえ叫ぶ。
その名前すら知っているか分からなかったが、今は混乱していて何も考えられない。
だが男はそれだけ聞くとあとはどうでもいいとばかりに立ち上がる。
男はどこか苛立ちながらあたりを見回して、すでにこの場に目当ての人物がいないことを悟ると煙草を取り出し火をつける。
さきほどの女とおんなじ匂いがした。
すっかり田村から興味を失ったようだ。
女が去っていった方向へ男もまた行こうとして、一度振り返った。
「生きたいならそれ抜かないほうがいい。抜いたら最後、血の噴水だ」
それだけ言うと足早に差って言った。
引き抜く勇気も、押し込む選択もできない。
誰か殺してくれと彼は祈った。
せめてあの写真を燃やしてほしい。ポケットに手を伸ばしたくても、パニックで思うように動けない。あの写真と関与があるなんてわかったら、今までの人生が――
しかし願いは虚しく、次第に近づいてきた救急車のサイレンが彼の耳にやけに大きく鳴り響いた。