2015年 2月9日 岡崎美空
最近変に視線を感じるのが、岡崎美空の悩みだった。
恨みを買った覚えはないとは言えない。
だが今このタイミングで露見するようなものはないはずだし、まずは他人が被害を蒙るように仕掛けている。そんな話もなかった。
――ずっと見られている。
だが後ろを振り向けば誰もいなかったり、もしくは人ごみに混じってしまう。
自分の理解が及ばないことがどうしようもなく不快だった。
気持ちの悪い感覚に美空は爪を噛む。
不快と言えば、一向に振り向いてくれない幼馴染もだ。
いつまでも消えた双子の弟――岡崎美波を待ち、毎日駅で彼を待っている。まるで忠犬ハチ公のように。
顔ならふたりほどんど同じようなものだし、それ以外は全て弟を上回っている。
不足していることは何一つとしてないはずだ。
だが、それでも三鷹彩実は美空などまるで眼中にないようだった。
弟の何がいいのか。
消えて半年ほどで諦めるだろうと思ったのに三年も待ち続けている。
理解ができない。
すでに弟は死んでいるはずだ。
名前は忘れたが、殺人ゲームに送り込んだのだから。
きっかけはそんなにたいしたものではない。
兄弟の事情を知らない、美波の居候先の叔母に頼まれごとをした時に家に寄った時(体面だけは良くしなければならない)、たまたまポストに入っていた手紙を見つけたのだ。
岡崎様、と誰当てなのかもわからないそれに書かれていた電話番号に面白半分にかけると怪しげな機械音声。
興味が湧いた。
だが、どうにもアウトロー臭がする。
頼まれごとを済ませたついでに美波の免許を拝借し、数日後にそこへ向かった。
——そこで話されたのは、殺人ゲーム。
周りの人間の気持ちの悪くなるような圧迫された雰囲気からしてもあまり嘘と言う感じはしなかった。
それにどちらにしろ岡崎美波名義だ。殺人ではなく臓器販売だとしてもこちらは困らない。
唯一美空の本性を知り、両親殺しを見た不安要素の弟を手を汚さず消せるならこれ以上にうまい話は無い。
そこから気味が悪いぐらいにとんとんと手続きを終えた。
集合日の前日に何年ぶりかに弟を呼び出して、これもまたうまく参加させることが出来た。
祖父の形見の猟銃と弾を持たせたのは特に深い意味はない。わずかに残った良心のためでもあるといえる。
もし殺人ゲームなどそんなものが嘘っぱちだとしても、今の今まで姿を現さない以上、彼はどこか遠くへ行ってしまったのだろう。
彩実のことを放っておくとは思いづらい。
ーーもしや、ずっとこちらを監視しているのは岡崎美波その人なのか?
考え始めると止まらなくなる。
まさか、ゲームを生き残ってきたのか?
そして憎き兄を追いかけている?
殺すチャンスを今か今かと伺っている?
ばかばかしいと首を振った。
それでも不安はぬぐい取れず、最近は小さなカッターナイフを常備しているありさまだ。
「――……」
自宅への帰路。
ここからは人通りが少なくなり寂しい道となる。
ポケットに入れたカッターを無意識にぐ、と握りしめる。
今日は視線は感じない。だが、気がつけば感じるのだ。緊張し続けるのが非常にストレスとなっていた。
「岡崎美空ですね」
突然声を掛けられる。
顔を上げてみれば、少し離れたところで塀に背中を預けて女が立っていた。
黒いコートをまとい黒いマフラーを首に巻いている。
吐く息だけが白い。
短い髪を風に揺らし、冷めた瞳で美空を見据えていた。
「…誰だ」
敬称もなくいきなり名前を呼ばれ気分を害する。
少なくとも昔の彼女だかではないはずだ。
「さて」
女は首を傾げて笑って見せた。
しかし目は笑っていない。依然として冷たい光を湛えたままだ。
「…何のようだ? 悪いが、こっちは急いで――」
そこで言葉が切れた。
塀から背中を離し、迷わずこちらへ歩いてきたからだ。
危険だ。
頭のどこかで警鐘がわんわんとかき鳴らされる。
この女は、危険だ。先手を打たなければならないーー
仮に相手を殺してしまったとしたらどうするか。それすら考えられないほど今の彼は追い詰められていた。
カッターナイフの刃を出し、逆手に握りポケットから取り出す。
それを一気に振り下ろしてーー
「穏やかじゃないですね」
女が手首を掴んだことによって阻止された。
しかも、女の手は人間の柔らかさではない。まるで機械のような。
だが、美空はそれについて深くは考えられかった。
女の空いていたほうの手がいつの間にかナイフを握っており、服ごと脇腹から胸までかっばさかれたのだ。
シュ、と血の吹き出す音とともに美空は崩れ落ちた。
熱い。痛い。熱い。痛い。
「岡崎美波から頼まれました」
女は無感情に言い捨て、血の付いたナイフをもてあそぶ。
悲鳴を飲み込み、たった今出てきた名前に驚愕した。
「み、なみ…!? なんで、なんであいつが…」
「思い当たる節、あるでしょう?」
興味なさげに女は言うと、煙草を取り出して口にくわえライターで火をつけた。
美空を見下ろしながら煙を吐く。
ああ、この視線だ。汚いものをみるような、この、不快な。ずっとこいつが見ていたのだ。
いや、まて、もう一つ視線がなかったか。あれは、一体、誰の?
強く重い匂いが鼻腔をつく。
「…確かにお兄さんにそっくりだ」
哀愁を込められた言葉。
お兄さん?
彼が疑問を口にすることは二度となかった。
とどめとばかりに心臓を突かれたからだ。
ーー女はナイフを回収すると死体を一瞥してその場を去った。
岡崎美空の血は外気に触れ湯気を立てていたが、それもやがて消えた。