九日目・遺言 ○
胸まで一気にナイフが駆けあがる。
お兄さんは事態が呑み込めていない顔で後ろ向きに倒れる。その軌跡をやけにスローモーションな動きで血が彩っていく。
女性は肩で息をしながらさらにお兄さんを睨みつけ、そして、ナイフを握り直した。
ハッとする。まだお兄さんに何かしようとするつもりだ。
とっさに腕に刺さっていた矢を掴む。勢いよく、ブツブツと嫌な音ともに引き抜いたそれを、こちらのことを一切眼中にいれていない女性の背中に突き刺した。
私の血があらかじめ塗りたくられているので非常にすべりがいい。
「あああああぐっ!」
予想もしていなかったのだろう。
突然の痛みに女性はのけ反った。背中に刺さるそれを取ろうとなんともおかしな動きで蠢く。
私はそれを取ってあげた。私が抜いたのと同じように、思いっきり。
甲高い悲鳴が上がった。髪を振り乱して、和風ホラーにでも出てきそうだ。
そして、ようやく女性と私の目が交差した。
「このっ、この人殺しが!」
私のことをよくよく観察すれば勝てる試合だと思ったろうに、よほど痛いのだろう。
人のことを全く言えない捨て台詞を吐いて、女性は草と草の間をギクシャクと走っていった。
追いかけようとして、とどめを刺しに行こうとして、それよりも大事なことがあることを思い出す。
慌ててお兄さんに駆け寄りしゃがみこんだ。
酷い有様だ。脇から胸まで一直線に裂かれ、内臓らしきてらてらしたものと血が流れて池を作っている。
何をしても絶望的なのは一目で分かった。
「おにい…さん?」
「ああ、明日香ちゃん。無事だった?」
こんな状況とはそぐわない優しい笑みでお兄さんは答える。
彼は自分がどういう状況だか分かっていないのか疑うぐらい冷静だった。
「私、私は、大丈夫です。けど、お兄さんが…私が本当はやるべきだったのに…」
みにくい言い訳が漏れ出てくる。
あの女性を気にしてさえいれば何かが変わったかもしれないのに。自分の痛みで精いっぱいだったのが悔やましい。
頭痛がガンガンする。
もう出血量が限界だ、疲労で動けない。そんなことを訴えているのだろう。
そんな場合じゃないのに。
そんな場合じゃなかったのに。
女性がお兄さんの場所へ走ったのを見たとき、すぐに立ち上がることが出来なかった。
私の体が重くて動かなかった。
だから、だから、お兄さんが。
「ごめんなさい…私が、死ねばよかったのに、ぜんぜん、役に立てなくて」
「そんなことない。明日香ちゃんの責任じゃないよ。だから謝らないで」
頬の痛みも忘れたのか、細切れに区切った喋り方ではなかった。
——もはや痛みも感じないのかもしれない。
「…前原さん。前原さんと、生きるんだ。君らなら大丈夫」
「何が大丈夫なんですか…? お兄さんも一緒に…どうして、死に際に、そんな」
お兄さんはほほ笑んだだけだった。
きっと裏では言いたいことがたくさんあるのだろう。しかし私たちには時間がなかった。
それでもひどすぎるだろう。
生きろだなんて。
こんな殺人鬼に、生きろだなんて。
「ね、明日香ちゃん」
「なんですか?」
しゃべるなだなんて言えない。
喋らなかったところで、これは致命傷だ。ましてや病院もない島。
言いたいことをすべて言わせて送り出す、そのことしか私にはできることが無い。
「美空を殺して」
無邪気に彼は言った。
美空——彼の双子の兄だと思いだす。
お兄さんが殺意をむき出しにして『自由を貰ったら殺す』と言っていた、岡崎美空。
そうか。死の瀬戸際でもそれが引っかかっているのか。
「必ず」
強く頷いて見せた。
私もおじさんも生き残れるかは分からなかったし、無事クリアしたとしてそれまでのように外で生きてるかも不明だし、なにより岡崎美空の痕跡を辿れるのかどうか。
様々な問題が立ちはだかっていたが、私はそれらを無視した。
大丈夫、殺す。絶対に殺す。
「よかった」
お兄さんが細く息を吐いた。
少しだけ頭を私のほうへ向けると、「あれ」と漏らした。
「ねえ、ブルータスがいるよ」
「え?」
振り返る。
だが、どこにもブルータスはいなかった。
だってもう、彼女は死んでいるのだから。
「そうだ、きょう提出しなきゃいけないのがあった。教授に。レポート。集計しなきゃ。何時だっけ」
「お兄さん?」
不安に駆られ顔を覗き込む。もうその瞳に景色は映っていない。
京香の時と同じだ。死ぬ直前の人間は目が曇る。
「彩実、いたんだ。探してた」
お兄さんは私ではない誰かを、視たのだろうか。
ふわりとほほ笑んで、そっと私の頬に手を伸ばしてくる。
お兄さん。言いかけて言葉を飲み込んだ。
最適な答えを考えろ。彼に何をしてあげられるのか。
「…美波」
そっと名前を呼ぶと目が細められた。
私の嘘を見破ってのことなのか、それとも本当にアヤミさんだと思ったのか。
彼は語らない。
「 」
本当に幸せそうに、口元を緩めて、何事かを呟く。
私はそれを聞き取ることが出来なかった。
私の頬に添えられた手は、それほど時間をおかずに落ちた。
そしてもう私たちの仲裁をすることも、戦闘に怯えることも、ちょっとした話で笑うことも、なにも。
なにもしない、ただの肉へとなった。
「お兄さん」
どうして、死ぬのが私ではなかったんだ。