九日目・犠牲 △
僕は、まだ頭が処理に追いついていない。
だから黙って目の前で起きたことを飲み込むしかなかった。
小さな地獄絵図が広がっていた。
死んでいる犬が二匹、筋組織が見えてしまっている犬が一匹、血を出している犬が二匹――
そしてブルータスは――彼女もまた、死んだのだろう。
目は淀み、舌をだらりと弛緩させ、首元からはいまだに血が湧いていた。
ずっと集団を引き連れていたリーダーらしい犬がブルータスの匂いを嗅ぐ。その犬もまた決して軽いとは言えない怪我をしている。
ブルータスは音もなく倒れた。
糸の切れた人形のように、役割は果たしたと言わんばかりに。
明日香ちゃんはブルータスの前まで緩慢な動作で歩み寄りへたり込んだ。
上に覆いかぶさる元凶の犬を雑に退かした。それっきりだ。
恨みを籠めて殴るとか蹴るとかそういうこともしなかった。
周りの犬たちが明日香ちゃんを襲わないかヒヤリとするが、異様な雰囲気に気がついているのか何もしてこない。
今は。
「ブルータス」
明日香ちゃんは囁きながらそっとゆっくりと顔を撫でる。その手に摺り寄り甘えてくることは、無い。
血を塞ぐつもりなのか傷元を手で覆った。
指の間からとめどなくこんこんと赤い血が漏れ出してくる。…それもすぐに止まるだろう。
「……」
ここからでは明日香ちゃんの表情はうかがえない。
僕はもちろん前原さんも言葉をかけられない。
雰囲気だけでも重く沈んでいるのが分かる彼女に何を言っても無駄な気がした。
変に責任を感じてしまっているのだろうか。
気持ちは分からなくもないけど、ブルータスは明日香ちゃんの呼びかけを振り切って行っているから死んだ原因としての責任はないはずなんだけど。
……なんて、言えるはずもない。
さすがに火に大量のオイルを注ぎまくって炎上させるような趣味は無いのだ。
おもむろにリーダーっぽい犬がふんふんと明日香ちゃんの匂いを嗅ぐ。
前原さんが慌てたようにリボルバーを拾い上げるのを目線で制した。
手のひら、腕、足。一通り嗅いでから明日香ちゃんから離れた。
それからブルータスの顔をしばらく眺めてから、舐めた。
何度も何度も慈しむように舐め、汚れも血もあらかた綺麗になると顔を離す。
「クゥ」
誰かが鼻を鳴らした。それはリーダーの犬だったかもしれないし、ほかの犬かもしれない。生憎そこまで耳は良くない。
傷だらけの犬たちはけん制するように僕らを一瞥すると、おのおの体を引きずりながら森の奥へと戻っていった。
「なんだ……見逃されたのか?」
金縛りから覚めたように前原さんが小さく呟く。
「でしょう、ね。…ブルータスの、匂いが、あった、から…」
「だから敵だと思われなかったと?」
「そう、としか……」
ブルータスは明日香ちゃんとよくスキンシップしていたから匂いが残っていたのだろう。
だから味方じゃないとしても敵だとは思われなかったんじゃなかろうか。僕たちのばあいは本当に見逃されたといったほうがいいかもしれない。
「……ごめんね」
小さく吐き出された言葉は血と共に地面にしみこんでいった。